諸事雑感 山・蝶・・・(2012年)


・地球の丸味(2012/12/18作成、2013/2/6写真追加)
 普段、地上で生活しているときに、地球の丸味を実感する機会は少ない。 山の上などからはるか遠くの景色を見ているとき、あるいは平地からでも遠くの山を見ているとき、 地球が球体であることの影響が出ているはずなのだが、なにか比較する対象がないと、どのくらいの量かは実感しにくい。
 それが具体的にわかる例として、奥多摩の御岳山からの展望があるので紹介する。
 御岳山の展望から地球の丸味がわかるきっかけとなったのは、次のような経緯である。
 たまたま私の所属していた会社の山岳部の忘年山行が、毎年、日ノ出山の東雲山荘で行われていて、 その行きか帰りに武蔵御嶽神社に立ち寄るのを習慣にしている。
 2011年の暮れには、神社から完成間近の東京スカイツリーが見えていて、写真に撮った。 その写真を見た岳友のTさんから面白い写真だと言われたので、神社から見た日ノ出山と東京スカイツリーの高さの 関係を計算してみる気になった。 すると地球の丸味の影響は、御嶽神社と東京スカイツリーの間で、高さにして200m以上もあり、ずいぶんと大きいのである。

 翌2012年の忘年山行のときにもっとよい写真を撮ろうと張り切って神社に参拝したのだが、 冬晴れにもかかわらず思ったほど空気が澄んでいなかった。 それでもなんとか地球の丸味を考察するための材料となる写真が撮れた。
 写真1が、2012年12月9日に神社の社殿近くから撮った日ノ出山の山頂とスカイツリーの写っている写真である。 ほかにもスカイツリーと日ノ出山頂上がもっと接近している写真を撮ったが、 日ノ出山頂上付近の木でスカイツリーの下部が遮られている。 それで、何枚かの写真のうち、スカイツリーの基部まで見えていて、しかも隣の東京スカイツリーイーストタワーと 思われるビルまで写っている写真1を使って考察を進めることにした。

 写真2は、写真1を拡大したのち、スカイツリーがはっきり見えるように画像処理でコントラストを上げている。 これでわかることは、日ノ出山山頂の高さに相当する位置は、 スカイツリーの下方にあるスカイツリーイーストタワー(スカイツリーの左下に薄く見えるビル) の上あたりになる。 わかりやすいように、日ノ出山山頂から水平に延長して、スカイツリー近くまで緑の線を入れておいた。
 

 さてここからが、日ノ出山とスカイツリーの見え方に、地球の丸味がどの程度影響しているのかについての計算と考察である。
 最初に、各対象物の標高と距離は次の値を用いて計算することにした。
 武蔵御嶽神社の標高   929m
 日ノ出山の標高      902m
 東京スカイツリー最上部の標高   637m(東京スカイツリー自体の634mに海抜3mをプラス)
 東京スカイツリーイーストタワー最上部の標高  161m(東京スカイツリーイーストタワーの158mに海抜3mをプラス)
 武蔵御嶽神社−日ノ出山の距離   1.574km
 武蔵御嶽神社−東京スカイツリーの距離 60.2km

 地球が平面と仮定してそれぞれの位置関係を図にしたのが図1である。 感覚的にわかりやすように描いたので、正しい縮尺にはなっていない。
 神社から日ノ出山山頂を眺めて、その視線をそのまま延長したとして、60.2km離れたスカイツリーの場所で標高何mに なるのかを計算してみると海抜-104mになる。
 つまり、スカイツリーは、日ノ出山の頂上よりかなり上に浮きあがって見えるはずだ。
 ところが、現実には写真2でわかるように、日ノ出山頂上から延長した線は、スカイツリーの場所では地表面よりだいぶ上の スカイツリーイーストタワーの最上部あたりにぶつかっている。 スカイツリーは265m(161mプラス104m)ほど下がっている(沈んでいる)ように見えているのだ。


 では次に、地球が丸いことを考慮するとどうなるだろうか?
 地球の半径を6370kmとして、ピタゴラスの定理を用いて計算してみた。
 図2で、円が地球として、半径Rは6370kmとする。 A点から離れたB点までの距離を60.2kmとして、B点とD点の距離を計算すると、283mとなる。
 言い換えると、武蔵御嶽神社からはスカイツリーが283m下がって見えると言える。(図3参照)
 このとき、厳密には日ノ出山の標高も丸味の影響を計算に入れて補正しなけれはならないが、 距離が近いのでその量は無視できる。


 この283mという計算結果は、写真2でスカイツリーが約265m下がっているように見えていることと かなりよい一致を示している。

 上記の計算では、地球が丸くなく平坦だと仮定したとき、スカイツリーが 今見えている位置より283m浮き上がって見えるはずだが、このときどのような見え方をするのだろうか?
 写真2に、283m上方へずらしたスカイツリーを嵌め込んだのが写真3の青で示した楕円形部分である。 283mはスカイツリーの第一展望台から上の部分の長さにほぼ等しいので、 その分だけスカイツリーを上にずらして合成写真にしている。 このとき、仮想のスカイツリーを現実のスカイツリーの位置に重ねると見にくくなるので、 、仮想のスカイツリーを右に少しずらしている。
 もし地球が丸くなければ、ずいぶんと高い位置に見えそうなことが分かる。

  もちろん上記の考察には、以下に挙げるように、かなりの不確定要素が含まれていて、 地球の丸味以外にも考慮しなければならない点がある。
 ・地球は完全な球体ではない。
 ・武蔵御嶽神社の標高は929mとされるが、写真を撮った地点が正確にこの標高だったのかは不明。 929mだったにしても、手持ちでカメラを構えたので、厳密には1.5mくらいの補正が必要。
 ・大気の屈折の影響。
 ・考察に用いた写真の鮮明度が細部を見るには十分でない。

 このような問題点があるので、計算結果の数字の精度はあまりあてにならないにしても、 60km離れただけで地球の丸味による効果がけっこう大きいことがわかる。
 今回は、御嶽神社と東京スカイツリーとの間に、程よい距離と高さの日ノ出山があったので、 地球の丸味を考えるのに都合が良かったわけだ。
 次の機会にはもっと鮮明な写真を撮ってさらに詳しく検討したいと思っている。


・西堀栄三郎邸訪問(2012/12/07)
 この間、大田区にある西堀栄三郎邸を訪れた。 実に約40年ぶりの再訪である。
 西堀栄三郎氏は第一次南極越冬隊長を務めた人として広く知られている。 その西堀氏のご子息峯夫氏が、筆者の大学時代の研究室の先輩にあたる。 そういう縁で最初の訪問が実現したのが40年くらい前のことで、 生前の栄三郎氏から、登山や極地探検のことなど興味深いお話を聞くことができた。 その後は訪れる機会がないまま月日が過ぎた。 峯夫氏とは大学研究室のOB会のときにお話するくらいだったが、 2012年秋に峯夫氏とお会いしたとき、ご自宅を公開されていることを知り、今回の訪問になった。
 なにしろ40数年ぶりの訪問なので、最寄りの駅(東急多摩川線鵜の木駅)などの景色はもう記憶のかなただ。 鬱蒼と茂った木々に囲まれた山荘風の家を見て、やっと以前の訪問の様子を少し思い出す始末。
 さっそく邸内に入って峯夫氏に案内していただいた。 昭和12年に建てられた家というだけでも今や貴重な存在だが、この家の価値はそこにあるのではない。 構造や造りから家具に至るまで、栄三郎氏の独創性とこだわりがいたるところに発揮されているのである。 しかもそれが、現代人の目で見ても合理的なことに感心させられる。
 屋根裏部屋を含め邸内を見せていただいた後、峯夫氏と居間でしばらくお話をすることができた。 椅子に腰かけているだけで、ぬくもりのあるくつろげる空間に包まれるのだが、栄三郎氏がここで独創的な アイディアを育んでいたことに思いを馳せればより感慨深いものになる。 峯夫氏が、会合などに広く利用してもらおうという趣旨で、 この家の公開に踏み切られた理由がわかるような気がしてくる。
 今回は事情があって短時間の訪問となったが、また機会をあらためて訪れたいと考えている。
 興味のある方には、ぜひこの西堀邸の訪問してロマンを感じていただきたいと思う。
 なお、峯夫氏は父親譲りのパイオニア精神に富んだ、とても気さくな方である。

 上記の文章を書いて3ヶ月後の2013年3月、突然の訃報が届いた。 西堀峯夫氏がドイツ滞在中に亡くなられたというのだ。 詳細は不明である。 これからもいろいろとお聞きしたいこと、お話したいことなどたくさんあっただけに残念である。
 もう一つ気になるのは、西堀栄三郎邸の今後だが、閉鎖になるとの話もあるようだ。 (2013/04/15追記)

・縦書き、横書き(2012/10/28)
 10月27日の新聞に、「縦書きするのは苦手?」と題する記事があったのがきっかけで、 私個人の場合のことを考えてみた。
 私は理系出身で仕事も主に技術系だったから、社会人になって以来、仕事にかかわる文書は すべて横書きだった。 仕事以外の手書き文書といえば、山行記録や手紙くらいのもので、これらもほとんど横書きである。 手書きではないけれど、こうしてパソコンに向かって書くホームページ用の文書も、もちろん横書きである。
 かといって積極的な横書き派でもなく、ときには縦書きをする場合がある。 手紙や葉書などで、あらたまった気分で書きたいときや気分を変えて書きたいときだ。 背景には、日本語は縦書きが美しいという思いが潜んでいるからだろう。
 特に今年に入って万年筆を使いだしてから、手紙や葉書で縦書きにする機会が増えたようだ。 縦書きには、ボールペンより万年筆の文字が相応しいという意識が働くようで、 万年筆を手にすると縦書きにしたくなることがあるのだ。 毛筆で書ければもっとよいのだが、これはハードルが高すぎるので除外せざるを得ない。

・SLの旅(2012/08/13)
 先月(2012年7月)、赤石岳と荒川三山の登山を終えて帰京する際、時間に余裕があったので、 久しぶりに大井川鐡道に乗って金谷に出た。 千頭と新金谷間では幸運なことにSLにも乗ることができた。 エアコンのない昔ながらの車両の硬い椅子に座って汽笛の音を聞いていると、自然と小学生のころを思い出した。
 筆者の記憶に残っている最初の蒸気機関車体験は、小学生のときに乗った中央線の列車である。 蓼科の林間学校への往復に利用したのである。 その頃の中央線はまだ完全には電化されていなかった。 夏休みのことだから窓は開けているのだが、トンネルの多い中央線では開けっぱなしにはできない。 トンネルに入るたびに窓を閉めないと、煤で真っ黒になってしまう。 大人にとっては面倒なことだったが、小学生にとっては楽しい作業で、トンネルが近づくたびに 大騒ぎして窓を閉めたものだ。 そして、スイッチバックも数か所あり、なんとものんびりとした時代だった。
 そんな記憶を反芻しながら、車窓から景色を眺めていると、SLをカメラに収めようと沿線で待ち構えている 人が大変多いことに気がついた。 撮影に適していると思える場所では必ずと言ってよいほど、誰かがカメラを構えている。 男性が多いが女性も目につく。 機関車の運転手も撮影されているのを意識してか、頻繁に汽笛を鳴らしながら大井川沿いの線路を進んで行った。 鉄道カメラのファンの裾野は、思いのほか広がっているようだ。
 かってSLが珍しくなかった頃は、写真を撮ろうという人はごくわずかのマニアだけだったと思うが、 今や写真好きの絶好の被写体となっているわけだ。

・砥部焼(2012/07/12)
 焼き物に特別詳しいわけではないが、砥部焼の伝統的な図柄くらいは見ればわかるほどの知識は持っている。
 今年になって京都を旅行した際のことである。 偶然に入ったうどんのお店が砥部焼の器を揃えていた。 すぐに気がついて、給仕してくれた女性(若くはないように見えた)に「砥部焼ですね。」と話しかけたら、 意外にも「私は、焼き物はわからないんですよ。」との答えが返ってきた。
 砥部焼は、地元以外では、どこでも簡単に手に入る焼き物ともいえないので、 たぶん店の主人がそれなりのこだわりを持って揃えたと想像される。 それを店員が知らないとは、店の主人もがっかりするのではないだろうか? この店員が働き始めて日が浅かったりの事情があったのかもしれないが、 食事は中身だけでなく器も大事な要素である。 店員のほうも少しはその辺のことを知っておいて、客に応対してほしいものと思うのだが。

・万年筆(2012/06/23)
 久しぶりに万年筆を購入して使いだした。 筆者が筆記用具に万年筆を日常的に使っていたのは学生時代までで、社会人になってからはもっぱらボールペン を使ってきた。 それも、家で使っているボールペンは景品としてもらったものである。 筆記用具に特にこだわりがないのである。
 それがどうして万年筆に回帰することになったのか?
 きっかけは、はがきサイズのインクジェットプリンター用紙にある。 ふだんから知人あてに連絡をするとき、気に入った写真を葉書大の用紙にインクジェットプリンターで印刷し、 絵葉書として使っている。 最近その印画紙のストックがなくなったので、新たに100枚購入した。 このときうっかりして、厚みが普通の用紙を買ってしまった。 ところが、このプリンター用紙の通信面にボールペンで宛名と文章を書くと、よほど筆圧に注意しないと反対側の印刷面に、 筆跡が凸状になって出てしまう。 これではせっかくの写真が台無しになり、美観上好ましくない。 万年筆だと筆圧が小さいのでこのようなことは起こらないだろうと考え、万年筆を探してみた。 出てきたのは、学生時代に使っていたパイロットのEという型式のもの。 しかし、長い間ほったらかしにしていたので、軸内部のインク貯蔵部が腐食していて使いものにならない。
 せっかく万年筆をもう一度使いたくなったのだからというわけで、この際に新しく万年筆を購入することにした。 ペリカンのスーベレーンM600である。 何かの雑誌でとり上げられていたのを思い出したからで、 使い勝手がよさそうで評判もよく値段も手が届く範囲だったのが決め手になった。
 そのM600には4色があるので、どれを選ぶのかが一問題だ。 どれでもよいとは言え、身近に置いて使うことを想定すると、筆記用具の管理がルーズな筆者は、 万年筆の置き場所を忘れることがありうる。 そんなとき、赤(ボルドー)が比較的目立つ色で見つけやすいだろうと考え、ボルドーを選んだ。
 写真の上がそのM600で、下が昔使っていたパイロットE。
 M600を手にしてみての第一印象はその軽さ。 概して質量の軽い商品は、品位も軽く見られがちだが、このM600は高級感があり、まったく安っぽさがない。 字を書いて見ると、なめらかな書き心地が快い。 これはボールペンにはない快感だ。
 もちろん、くだんのプリンター用紙に書いても問題はない。
 うっかり買ったプリンター用紙がきっかけで、万年筆で書く楽しみを再認識した。

・平野の平坦性(2012/05/20)
 4月にこの項で、タージ・マハルの完璧な対称性を、周りに山がないことに注目して考察してみた。
 今回は、山とは離れて、平野がインドと日本でどう違っているいるのかを記してみたい。
 3月のインド旅行は仏跡を回ることが目的で、旅行会社の手配した専用車でビハール州と ウッタル・プラデーシュ州にまたがる地域をまわった。 初めて通る地域なので、移動中はつとめて外の景色を見るようにしていた。 街中の様子は日本のそれとはずいぶん違うので、見ているだけでもとても興味深いし、単調な景色の続く農村部でもなにかしら 発見があって飽きなかった。 そんな車窓からの観察で気がついたことの一つに、平野の平坦度が日本で見慣れた平野とはまるで違っている ことが上げられる。 日本の平野、例えば筆者の住む東京都杉並区あたりでも関東平野の真ん中にあって、かなり平らな場所といえる。 しかし、少し歩けば坂に出会い、川はだいぶ低い場所を流れていることは常識である。 要するに平野といってもけっこう起伏がある。 ところが、ヒンドスタン平野の中を車で走っていると、平らな場所はどこまでも平らでほどんど起伏がわからない。 ときたま出会う中小の河川も川底は周りに比べほんの少し低いだけである。 日本の川では、下流であっても大小の川石がごろごろしているものだが、 ヒンドスタン平野の川では石ころはあまり見かけず砂地である。 だから、乾季で水がなくなった川では、トラックであれば橋以外のところでも走って渡れてしまう。 今回は乾季だったので、大きな川以外は水がなくなり川底が出ている状態だったので、そのあたりのことが 車窓から観察できた。
 日本の平野は川の堆積作用によってできた沖積平野であり、大陸の主な大きな平野とは成り立ちが異なっている。
 ところが、ヒンドスタン平野は日本の平野と同じ沖積平野にもかかわらず、規模も違うし、平坦の度合いも かなり違って見えた。
 ヒンドスタン平野では地形が広い範囲で変化に乏しいといえるだろう。 だからといって、住んでいる人間社会が同じように均一かというと、 そうでもないらしいところが、インドの奥深さなのかもしれない。

・岡倉天心(2012/04/28)
 岡倉天心(本名 岡倉覚三)をめぐる話題がこのところ相次いだ。
 一つは、津波で流された茨城県五浦の六角堂が再建されたというニュース。 この六角堂は、天心が1905年に建設したものである。
 もう一つは、東京国立博物館で開かれている「ボストン美術館 日本美術の至宝」展である。 私も見てきたが、質量とも素晴らしかった。 これだけ充実した収蔵品をそろえられたのは、天心やフェノロサという日本美術の理解者がいたからであることは 広く知られているところである。
 三番目は最近の話題というより、最近私が気がついたことである。
 3月にインド旅行をしたときに紅茶をお土産として持ち帰った。 インドの飛行場の売店でよく見かける布製の袋に入ったブランド品の紅茶である。 家で開封すると、中に説明書きがあり、天心の茶の本からの引用文を見つけた。
 過去のインド旅行でも同じブランドの紅茶を買っているのだが、説明文などろくに読んでいなかったせいか、 今回初めてその引用文に気がついた。 そんなわけで、天心が茶の本も英文で書いていることをあらためて知ったのである。 引用されている文は、
 "Tea is a work of art and needs a master hand to bring out its noblest qualities. Each preperation of the leaves has its individuality, its own method of telling a story. The truly beautiful must be always in it."
Kakuzo Okakura in The Book of Tea
 インドで岡倉天心の名前がどれほど知られているのかわからないが、インドの紅茶の説明に、 イギリス人ではなく日本人の文章が引用されているのが興味深い。

・インドの交通事情(2012/04/04)
 2012年3月、一週間ほどインド旅行をしてきた。 直接のきっかけは、貯まったマイレージの消化である。 旅行先にインドを選んだのは、仏教誕生の地を見たかったから。 それに、過去6年ほどの間に仕事で6回インドに出かけ、その多様性に興味を持ったからかもしれない。 せっかくインドを個人で旅行するのに1週間は短かったが、家庭の事情がありやむを得なかった。
 今回も滞在中にいろんなことを感じたが、旅行者が気が付きやすい交通事情の変化に触れたい。
 経済発展に伴ってだろうが、乗用車の数は年を追って増え、また新しくなっている。 車の数が増え、大都市では渋滞も珍しくない。 かってのインドを代表する車アンバサダーはめっきり減り、外国メーカー製の車が多くなっている。 道路の状況も改善されているようだ。 以前は補修がされていない道路が多く、乗用車の後部座席に腰掛けているだけでも、 激しい上下動でくたびれたものだが、路面状態はかなり良くなっているという印象を受けた。 これは今回同行したインド人ガイドも同意見だった。 でもインド人の運転マナーは相変わらずなので、走行中に緊張を強いられることに変わりはない。
 そして国内航空の発展。 競争が激しくなった結果、サービスもよくなり、インド国内の飛行機による移動は楽になったようだ。 飛行場の整備も進んでいる。 バンガロールの飛行場は新しくなったし、デリーのインディラ・ガンディー国際空港も最近(2010年)リニューアルした。 以前のとても首都の表玄関とは思えなかった古めかしいターミナルから、世界中のどこにも負けないような 近代的な施設に変わっている。 そのターミナルの広さは、やはり大陸的と言えるかもしれない。 端のほうのゲートだと、はるかかなたまで延々と続く通路を移動しなくてはならない。
 航空会社で今回驚いたのはキングフィッシャー航空の経営危機だ。 あの有名なビール会社と同じ経営母体なので、優良会社だと思っていたら、 経営不振に陥っていることを今回の旅行中に知った。 資金難から欠航便も増えている。 今回の旅行ではヴァラナシからデリーへの移動がキングフィッシャー航空だったので、飛ぶかどうか不安だったが、 結果的には運行されていてほっとした。 キングフィッシャー航空はいろいろ話題の多い会社らしい。 すぐ目につくのは、赤いミニスカートの衣装をつけた美人のスチュワーデスをそろえていることだ。 このことでインド人のガイドと話をしたら、スチュワーデスの採用時に会長自ら面接をしているのだという。
 次に鉄道はどうなっているだろう。 それほどたくさんの路線を乗ったことがないので、断定的なことは避けたいが、 他の分野ほど変わっていないのではないかという気がする。 今回の旅行で、デリーとアグラ間を外国人観光客がよく利用するBHOPAL SHATABDI EXPRESSのCC車両に乗ったが、 汚れた窓ガラスにはひびが入っていたし、帰りの列車は40分遅れでニューデリー駅に着いた。 この程度の遅れでは、もちろん遅れのうちには入らないようで、車内を見回しても時間を気にしている様子の人は 見かけなかった。
 物質的に豊かになっても、人々の気質までは簡単に変わらないのはインドでも同じである。

・タージ・マハル(2012/04/02)
 タージ・マハルは世界遺産になっている有名な観光地だから、知らない人のほうが少ないかもしれない。 筆者はこういう観光地にとりたてて興味があるわけではない。 だが、数年前に一度近くのアグラ城まで行きながらタージ・マハルに入り損ねたことがあり、 それ以来やっぱり実物を間近に見たいという思いがあった。 そんなわけで、2012年3月にインド仏跡旅行をした際、最後に立ち寄って実物を見てきた。 これはそのときの感想である。
 まず白大理石でできた直線と曲線の調和は美しく、写真などで見る通りである。
 そして規模が大きい。 写真では大きさがわかりにくいが、近寄って見るとその大きさが実感できる。 建設に22年もの歳月がかかったのもうなづける。
 加えて徹底的な左右対称性である。 本体の建物はもちろん、庭園も周りを囲む塀も含めてすべてが対称になっている。 こう徹底されると、日本人の筆者にとってはなにか落ち着かないような気分になる。
 日本でも建築物自体は平等院のように左右対称のものが昔からあるが、 庭園や付属物まで含めて対称的に作る例はあまりないようだ。
 この対称性に関する日本と西洋諸国などでの違いについては、 すでにいろんな人が考察しているが、筆者も素人ながら考えてみた。
 日本で徹底した対称性への追求が根づかなかったのは、地形がその理由の一つとして 関係しているのではないだろうか。 奈良にしろ、京都にしろどこに建造物を作ろうが、日本では周りの山が見えてしまう。 そうすると、いかに建造物を徹底して対称に造っても、周りの景色も含めれば 対称性は崩れてしまう。 ところがタージ・マハルの場合、広大なヒンドスタン平野の中にあって近くに山はない。 川については、背後にヤムナー川が流れているが、平原の中にゆったりと流れていて、景観上対称性 への影響はないと言える。 (写真は、ヤムナー川越しに対岸から見たタージ・マハル)
 こうした地形の要素も、タージ・マハルでの完璧な対称性の追求を可能にしたのではないだろうかというのが、 現地で実物を見ての感想である。

・ハクビシン(2012/02/24)
 我が家(東京都杉並区)の庭に、ハクビシンがやってきた。 正確にはハクビシンと思われる小動物である。 目撃のいきさつはこうである。
 その日(2月23日)は朝から雨が降って薄暗い日だった。 10時ごろ2階からなにげなく庭のほうを見たとき、猫のような動物が歩いているのが見えた。 猫はしょっちゅうやってくるので珍しくないが、その動物は何かしら動きが猫とは違っているようだったので、 ガラス戸に近づいてよく見ようとしたら、茂みに隠れてしまった。 ともかくカメラで写そうと思って別の部屋にあるカメラを取りに行き、ガラス戸を開けてベランダから隠れている 茂みのあたりを目で追っていたら、突然走りだして庭を横切り、隣家との間にあるブロック塀を駆け上がり、 一目散に逃げ去った。 ほんの一瞬の出来事でゆっくりカメラを構える余裕などなく、 ぶれた写真を数枚撮るのがやっとだった。 そのうちの1枚が右の写真である。 頭が竹の葉に隠れていて、ハクビシンの特徴的な顔の模様が写っていないのは残念だが、 どうもハクビシンのようである。
 筆者は生まれたときから杉並区の現在地で生活しているが、確かにタヌキやハクビシンと思われる小動物の類を 見たのは今回が初めてである。 昔より数が増えたのか減ったのかわからないが、彼らにとって現在の23区内の生活環境は意外によいのかもしれない。
 実は、2,3年前の夜に、我が家の前の道で、正体不明の大きな猫のような小動物を見ていて、 当時はタヌキではないかと思ったのだが、暗くてよくわからなかった。
 今にして思えば、そのときの動物もハクビシンだったのかもしれない。
 インターネットで調べると都内でもけっこう目撃情報がある。 しかし、夜行性のため、写真に撮るのはなかなか難しいようである。
 生息していることが確実になった以上、なんとか決定的な写真を撮りたいものだと思っている。

・コダックの経営危機(2012/01/19)
 2012年の正月早々、コダック経営危機のニュースが新聞で報道された。
 フィルムカメラ時代を経験した人たちは、このニュースをどのように受け止めたのだろうか。
 筆者の場合、自分のカメラを持って写真を撮り始めた1970年代だったから、 当時のコダックのフィルム特にカラースライドの品質は他社を圧倒していたという記憶がある。
 特に印象に残っているのは、コダクローム25という低感度のポジフィルムの濃厚な色合いで、 晴天の雪山で撮ったときの空の深い青色は独特のものだった。 また、経年変化にも強かったので、30年以上も前に撮ったカラーのポジを今取り出して見ても、 大して褪色していないのは驚きですらある。
 そういう高い技術力を持ちながら、デジタルカメラ時代に対応しきれなくなって、 会社存続の危機に陥っているというのは、なんとも複雑な気持ちである。 それに、デジタルカメラの基本形をコダックのエンジニアが開発していたのだからなおさらである。
 カメラフィルムのようにどう見ても市場規模が縮小することはあっても、伸びることのない分野の量産品を手掛ける 会社というのは、真正直にコストダウンなどをやったとしても事業の継続は難しい。 他の収益の上がる分野で利益を出しながら、事業を続けるしかないのだから、そいう手を早く打った会社が 存続し続けることができるのだろう。
 とにかく、フィルムで撮り続けている人もまだまだいるし、デジタルカメラを主に使っていても、 ときどきはフィルムカメラを使うという筆者のような人間もけっこういるはずなので、 フィルムの供給が途絶えたりすることがないよう願っている。

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