・北京の地下鉄(2008/11)
2008年10月に北京にふらっと出かけた折、
地下鉄を使って市内の天壇やら鼓楼やらをまわった。
料金は全線2元と安いし、言葉が通じなくても切符を買いやすい。
オリンピックを機に新路線が開通したうえ、
自動改札機が導入されるなど近代化が進んでいるで、
以前より便利になっている。
反面、乗客の乗り降りのマナーなどは一向に良くなっているようには見えない。
だが、運転を含めた運行については丁寧で、揺れなども少ないように感じる。
同じ社会主義国だったロシアの首都モスクワの地下鉄が、
今も昔と変わらず、電車がホームに入って完全に止まるか止まらないうちにドアが開き、
乗客が乗り降りが終わりきらないようなタイミングでせわしなくドアが閉じ、
急発進していくのとはかなり違う。
また、私が毎日乗っている東京の地下鉄と比べると、
違う点がいくつかあるのに気がつく。
一つは、駅が島状になっていて対向する電車は同じプラットホームを使用している。
電車は右側走行だから、ドアはいつも進行方向に向かって左側が開く。
いつも同じ側のドアが開くのは、ある意味便利でいいのだが、
電車は右側通行というのがくせものだ。
私の場合、長年の習慣で、電車は左側通行を前提にして、
無意識に頭の中の地図と照合して地上の場所を判断している。
それが右側通行だと狂ってしまい、
しばしば地上で方角を間違えるもとになるである。
・駅前の本屋さん(2008/9)
かって筆者の最寄の地下鉄駅そばに小規模な本屋さんがあった。
どういう事情があったのかしらないが、
その本屋さんが店じまいして数カ月が経つ。
このお店を頻繁に利用していたわけではないので、
なくなった当座は町の様子がまた少し変わるなというくらいにしか思わなかった。
それが数か月して、これは不便になったという思いが強くなってきた。
雑誌一つ買うにしても、
定期購読していない雑誌は、やはりざっと目を通して買いたいものである。
また、ちょっと時間があるときに、
入れるお店としての本屋さんは便利である。
お店があるときはそのありがたみが実感できないでいたのに、
いざなくなってみると、その存在の重さに気づいたわけである。
・五十嵐邁氏ご逝去(2008/4)
4月7日の朝日新聞朝刊の訃報欄を見て驚いた。
日本の蝶の世界でその名を知られた五十嵐氏の訃報である。
彼の新著「アゲハ蝶の白地図」という本を興味深く読み終わったばかりで、
まだまだ元気でご活躍中とばかり思っていたからだ。
蝶に興味のある人には、
彼のテングアゲハの生態解明のいきさつはあまりに有名である。
戦後の日本の蝶類研究を引張ってきた人がまた一人世を去った。
・登山用ストック(2008/3)
いまや登山用ストック(トレッキングポール)は、多くの登山者が持っている普通の
登山用具の一つとなっている。
筆者も遅ればせながら、
2008年になって登山用のストック(ブラックダイヤモンドのDuralumin 7075)を使い始めた。
今まで使わなかった理由は、
ストックとは日本語でいえば杖であり、
いかにも老人くさい感じがする上、
まだストックの効用に頼るほどでもないと思っていたからである。
さて、今でこそストックは誰でも使っているが、
いつ頃から使われ出したのだろうか?
1970年代に筆者が本格的に登山を始めたころ、
夏山でストックを持っている人を見かけた記憶はない。
記憶に残っているのは、
1980年にツアーに参加してキリマンジャロに登ったとき、
ヨーロッパから来ている登山者の多くがストックを持っていたことである。
この写真の右の方に写っているのが、
ストックをザックに固定して歩いている男性である。
キリマンジャロの上部は砂礫の斜面なので、
ストックは有効に違いないが、
中腹までは不要のため、
このようにザックに固定していた。
だが、伸縮タイプではないようで、
もしかしたらスキーと兼用のものだったのかもしれない。
いずれにしろ当時の日本では登山用ストックは普及しておらず、
写真左側に写っている日本からの登山者(全員で20数名)で、
ストックを持ってきた人は皆無だったと記憶している。
それが日本でも急速に普及し出したのは、
中高年の登山者が増えた1990年代になってからのようだ。
・見本盤(2008/1)
2008年の正月休みに、久し振りに神保町界隈を歩いて、中古LP数枚を買った。
その中に、Buck Owensの"TOGETHER AGAIN & MY HEART SKIPS A BEAT"の国内盤があり、
これがいわゆる見本盤だった。
この国内盤のLPは発売されてすぐに買って、
今まで聴き続けているのだが、一部の曲で雑音が多い
(人に貸したため特定の曲でノイズが多くなった)
のが気になっていた。
今回店頭で、盤質がAと表示してあった中古LPを見つけたので買った次第。
家に帰ってジャケットから内袋を取り出すと、
これが白くて、手持ちの市販品LPと違う。
どうしてかなと思いながら、内袋からLP本体を取り出すとレーベル面が白く、
文字が緑一色で印刷されていて市販品とは異なる。
見本の字が見え、どうも見本盤のようである。
針を下ろしてみると、音質は問題ない。
商品盤との違いは、レーベル面と内袋、それに歌詞カードがないことで、
ジャケットとレコード盤は見比べてみても同じである。
当時(1960年代)は今と違い、
カントリーのレコードも頻繁に国内盤が出されていたので、
見本盤もかなりの数が作られたのかもしれない。
1960年代に入手したLPを見て思い出すのは、
2002年に閉店した「新宿コタニ」店である。
この店で、よくレコードを買ったものである。
それが1970年代になってからは、
もっぱら秋葉原の日の丸電気(石丸電気の前身)で国内盤のレコードを買うようになった。
レコードを買うと一割引の券をくれたからである。
そして時代は移って、
カントリーのCDはAmazon.comから買うことが多いこの頃である。
左が市販のレコードレーベル。
右が今回入手した見本盤のレーベル。
・三百名山完登の軌跡(2008/1)
2008年の正月休みに時間があったので、
筆者の三百名山完登までの41年間の過程を追ってみることにした。
総数に関しては301である。
日本山岳会編の三百名山には、深田クラブの二百名山のうち荒沢岳が入っていないので、
深田クラブの二百名山を含めると総数が301になるためである。
個人的には、荒沢岳は全国規模でみてもよい山で、
他のどこかの山を落としても三百名山に含める価値があると思っている。
まず過去の登頂の傾向を知るために、
年別の登頂数の表をエクセルで作った。
下の図が、それを棒グラフにしたもので、
年別の登頂数(赤の棒)と累計の登頂数(緑の棒)を示している。
山によっては、当然繰り返し登っているが、
初回のみを数え、2回目以降の登頂は勘定に入れていない。
ではこのグラフを眺めながら、
振り返ってみよう。
三百名山に最初に登った年は、
学習院大学の探検部員として本格的に登山を開始した1967年にしている。
実際には、小学生時代に夏の林間学校で蓼科山に登ったのが最初なのだが、
今となっては登った日も定かではないので、
記録からは除外している。
もちろん、後年、大学時代に蓼科山はもう一度登っている。
探検部時代は、登山を主目的として出かけることは少なかったので、
4年間に登った数はあまり多くない。
1970年に社会人になってからは、
会社の山岳部に入って本格的に山登りを開始した。
だが、1980年ごろまでは、
南北アルプスをはじめとする3000m級の山々が対象であった。
岩登りや雪山登山に興味があり、
そのほかの山といえば、夏に北海道に沢登りに出かけたり、
ヨーロッパアルプスに登ったことくらいであった。
百名山などに目が向くことはあまりなかったわけである。
ただ、深田久弥「日本百名山」(新潮社)は1970年代に読んでいたので、
1980年ころには、意識して南北アルプス以外の山にも足を運ぶようになっていった。
1984年から1989年にかけての5年間は、
仕事でアメリカに駐在していた時期で、
グラフからも登頂数の増加は停滞していることがわかる。
日本に帰って3年後の1992年10月に、草津白根山に登って百名山を完登した。
そして、その後数年間は学生時代から途切れ途切れで続けていた蝶の採集にまた熱を上げることになり、
登山は二の次の状態になっていた。
三百名山の完登を目指してピッチを上げだしたのは1989年あたりからである。
1995年には車を入手して、
辺鄙な場所の山でも効率よく登れるようになった。
二百名山を最初に片づけてから三百名山にとりかかるという考えもあったが、
東京から遠い山に何回も出かけてくのは、
時間と費用の点から非効率なのでいつしか二百名山も含めて三百名山を目標とするようになっていった。
2005年からペースが落ちているのは、
三百名山の残りが少なくなり、
日本全国のあちこちに散らばる状態になると、
一回の山行で2つ3つをいっぺんに登るようなことができなくなったからである。
301座のうち、頂上を踏んでいない山が2つある。
火山活動のため登山が禁止されている、
渡島駒ガ岳(北海道)と桜島(鹿児島県)の2つである。
今のところ、規制が解除される見通しは立っていないようである。
過去の分析はこのくらいにして、
これからの山行の目標をどうするか目下思案中である。