諸事雑感 山・蝶・・・(2007年)

・車(2007/12)
 2007年も年末になって、 1995年から12年間乗っていたジープ・チェロキー(スポーツ)を手放した。 主な理由は、この10月に日本三百名山を登り終えて、 車を使わなければアプローチがやっかいな山行がひと段落したからである。
 もともと車にそれほど興味がなかった筆者が、 車を持つことになったのは、 三百名山を効率的に登ろうと考えたのがきっかけだ。 三百名山にはかなりマイナーな山が含まれており、 公共交通機関を使って登山口に入るのが難しい山が多いのである。 単に悪路に強い車ということであれば、 国産車のほうがよかったのだが、 ジープにした理由は、 少し前にアメリカ駐在時にアメリカ車(フォードのサンダーバード)に乗っていて、 アメリカ車に親しみを持っていたからだ。 アメリカ車の品質には信用がおけなかったが、 ホンダの販売店がジープを扱っていたことが、 購入の決断に大きな力になった。 実際にチェロキーを買ったのも、 家の近くのホンダの販売店からである。
 そのジープを入手した12年前頃は、 登山ばかりでなく、蝶の採集にも熱心な時期だったので、 ギフチョウなどの採集にもこの車でよく林道を走ったものである。
 しかし、12年間乗っていて、 走行距離は6万5千kmというのは、 標準的なマイカーの走行距離と比べるとかなり少ない数字だと思う。 要するに車を乗りこなしているとも言えない上に、 燃費も小型車に比べたら良くないし、 維持費もばかにならないので、三百名山を完登した機会に車を手放すことにしたわけである。
 チェロキーに乗る時は、 いつも故障のことが頭の片隅にあったが、 大きな故障に会わずに済んだのは幸運だった。 多分、いい車に当たったのだろう。
 三百名山を効率よく登れたのも、 この車があってのことだった。

・ポーター・ワゴナー、ハンク・トンプソン逝去(2007/11)
 カントリー歌手ポーター・ワゴナーとハンク・トンプソンの訃報が相次いだ。 二人とも古くからのカントリー音楽ファンには懐かしい名前である。 ポーター・ワゴナーは、 筆者がアメリカに駐在していた1980年代後半もテレビに頻繁に出ていたものである。 また、ハンク・トンプソンは1967年の来日公演を「サンケイホール」で行い、筆者も聞きに行った。 ハンクはいかにもテキサス人らしく大きな体をしていたが、 フィドルを2本使った彼のバンド「ブラゾス・ヴァレー・ボーイズ」とハンクの歌は、 ダイナミックだが決して大味ではなく、 耳に心地よく響くものだった。 いずれにしても、 1950年代から1960年代にかけての大物カントリー歌手が次々と他界していくのは寂しいかぎりだ。
 なお、ハンク・トンプソンの来日公演のひと月前には、 バック・オウエンズが来日公演を行っているのである。

・三百名山完登(2007/10)
 2007年10月7日に登った大笠山で、 筆者が当面の目標としていた日本三百名山を登ることができた。
 1992年に日本百名山の登頂を達成し、 それから15年かけての三百名山達成である。
 日本三百名山を全部登ったからといって、 大して自慢になるほどのことではないと思っているが、 しいて自慢できるものがあるとすれば、 いわゆるツアーに参加しての登山は一つもないことだ。
 単独で登った山も多いが、探検部や会社の山岳部あるいはK555の仲間と一緒に登った山も数知れない。 大きな事故を起こすことなく楽しく登山を続けられたことを、 多くの山仲間にまずは感謝したい気持ちだ。
 振り返ると、本格的に登山を始めたのは大学の探検部時代のことである。 卒業して社会人になってからは会社の山岳部に所属して多くの山に登ってきた。 海外駐在時代の数年間、国内の登山が途切れた時期はあったが、 登山をやめたことはなかったから、 もっとも長く続いている趣味といえる。
 これからは、 まだ登っていないが気になる山の中から、 あるいは今までに登った山の中から、 選んで登る予定である。 ここ数年の筆者の登山は、 三百名山に偏っていた。 しょせん百名山も三百名山も他人が選んだ山である。 本当は自分の基準で登山の対象を選別したいところだが、 これがなかなか難しい。

・蝶研出版廃業(2007/10)
 2007年10月に、突然蝶研出版より廃業の知らせが届いた。
 「蝶研フィールド」を定期購読を開始したのが、 USA駐在より帰国した1989年だったからもう20年近く前のことだ。 それまで長らく熱が冷めていた蝶の採集に再び火をつけ、 日本産の蝶に目を向けさせてくれたのが蝶研出版刊行の「蝶研フィールド」の記事、 および「ギフチョウ88ヶ所めぐり」などの出版物であった。 これは当時の蝶研出版社長の小路氏の力が大きかったのは間違いない。 小路氏が亡くなられてからの蝶研出版には、 残念ながら往時の勢いがなくなったと感じるのは私だけではないだろう。 近年は私自身が国内の蝶の採集自体に興味を失っていたので、 「蝶研フィールド」や「蝶研サロン」の定期購読をやめようかと真剣に考えていた矢先の廃業のお知らせであった。 不思議なめぐり合わせである。
 日本の蝶界にとっても、 私の蝶遍歴にとっても、蝶研出版廃業は一時代の終わりだと思う。

・インド人と帽子(2007/9)
 インドにはこの3年に3回仕事で出かけた。 いずれも1週間ほどの滞在で、広大なインドの一端に触れたに過ぎないが、 日本人の習慣とはずいぶん違うと思うことがいくつもある。 そのうちの一つは、帽子をかぶらないことだ。 宗教上の理由からシク教徒がターバンをつけたり、 イスラム教徒が帽子かぶることはあっても、 大多数の人は帽子をかぶらない。 この写真はムンバイのインド門(Gateway of India)で撮った写真だが、 みな無帽である。 強烈な太陽が真上から照り付けていて、 帽子や傘なしでは暑いと思うのだが。
 帽子はかぶらないのだから、 日焼けを気にしているとは思えないが、 男性はよく長袖シャツを着ている。 半袖シャツの人ももちろんいるが、 ビジネスマンには長袖シャツの人が多いようだ。

・ペットボトルのキャップ(2007/8)
 2007年の夏は、インドネシアのセラム島に昆虫採集に出かけた。 熱帯での屋外活動に水分補給が欠かせない。 衛生状態のことを考えると、 もっぱらミネラルウォーターでの水分補給となる。 ザックに入れたペットボトルのミネラルウォーターを何回も取り出しながら、 いつも不安に思っていたのはキャップの噛み合わせの浅さである。 日本で売られているペットボトルはキャップを約1回転半すると締まるのが普通だと思うが、 現地(インドネシアに限らないと思う)で売られているペットボトルは約半回転で締まる。 それだけねじの引っかかりが浅いのだから、 なんかの拍子で開いてしまうのではないかという不安にかられ、 もしザックの中でキャップが緩んだら、一緒に入れているカメラが水浸しになるのではと恐れていた。 しかし、現実にはそのようなことは起こらず杞憂にすぎなかった。 日本のペットボトルのキャップのほうが過剰な仕様で作られているのだろうか?

・「昆虫にとってコンビニとは何か?(高橋敬一著、朝日新聞)」(2007/3)
 虫屋にとっておもしろい本が出た。
 著者は、昆虫マニアであり、害虫研究者(だった?)という肩書きを持っている。 全28章のすべてが、「昆虫にとってXXは何か?」という題名がついていて、 虫の立場から、虫に関係するものごとを考察している。 それがなかなかユニークな視点に立っているのでおもしろい。 特に、近年虫屋にとってデリケートな問題である昆虫採集禁止論について触れている部分は、 傾聴に値する。 決して感情論にはならず、論理的に昆虫採集禁止論の矛盾を突いている。 単なる昆虫マニアでなく、 害虫の研究者として我々の食卓を支えてきた人の言っていることだけに説得力がある。 でも相手が論理的な思考を持っていなければ、 やっぱり議論はかみ合わないだろうなとも思ってしまう。

・ミラノ スカラ座(2007/3)
 クラシック音楽の中ではオペラが好きなので、時々鑑賞に出かける。 2007年の2月に、知人と新国立劇場に「さまよえるオランダ人」を見に行った折、 ミラノのスカラ座の話になり、 30年も前のことを思い出した。 1974年のヨーロッパ滞在中に、一度だけスカラ座に入ったことである。 そのときはあいにくオペラ公演ではなく、 オーケストラの演奏会だった。 左のチケットの半券がそのときのものである。 多分、オペラシーズンが開幕する前だったのだろう。 今となってはどんな曲目が演奏され、指揮者が誰だったのかも憶えていない。 ただ、演奏会の前に、 ソ連の名バイオリニスト、オイストラッフが死去したので黙祷しましょうという説明があり、 聴衆全員が起立して黙祷したことだけを憶えている。 今回あらためて調べてみると、オイストラッフは1974年10月24日(木)に死去している。 ということは、筆者の訪れたミラノの演奏会は、 その直後の10月26日(土)か30日(日)あたりらしい。 この次にスカラ座を訪れるときは、 オペラを鑑賞したいものだと思い続けているが、 なかなか実現しない。

・東海道新幹線の車窓(2007/1、2010/5修正)
 仕事柄、東海道新幹線に乗って大阪または名古屋方面に出かける機会が多い。 朝、東京駅から関西方面に向かうときの座席は、 進行方向に向かって右窓側の座席、 つまりE席に決めている。 理由は、第一に景色が右側の方が良いからだ。 山で言えば丹沢、富士山と伊吹山という3つの大物が大きく見える。 それに右側の座席は二人掛けなので、 携帯電話が鳴ったときやトイレのために席を立つのが楽だ。 加えて、朝は日が当たらないのでブラインドを下ろさなくてもよい。
 では、山を主な趣味とする私の個人的な視点から、 天気の良い日の車窓の景色を順に見ていこう。
 東京駅から品川駅、大崎駅にかけては、 比較的ゆっくりとした速度で走るので、 ビル街の変化を目で追いやすい。 最近は汐留周辺の再開発が一段落して、大崎駅周辺それも西側の変化が激しいように思う。
 大崎駅あたりを過ぎると、 線路は高架となり展望が開けてくる。 空気が澄んでいれば、 ビルの頭越しに早くも富士山が顔を出すのだが、 まだその姿は小さい。
 多摩川を渡ると、武蔵小杉駅周辺は高層マンションの建設ラッシュである。 以前はなにがあったのか憶えていないが、 風景が一変しつつあるのは確かだ。 2010年3月には、新幹線と並行して走る横須賀線に、新しく武蔵小杉駅が開業している。
 新横浜駅に停まる列車(2008年3月15日からは全部の「のぞみ」が停まる)であれば、 線路の近くに立つマンションに視界が遮られる。 晴れた日の朝には、 そのマンションのベランダに干されている洗濯物や布団がいやでも目に入る。 洗濯物はともかく布団をベランダに干すのが好きな民族は日本以外にあるのだろうか? 日本人の清潔好きがそうさせるのだろうが、 景観上からはいかがなものか。
 新横浜駅を過ぎてしばらくすると、 丹沢山塊が右前方に見えてくる。 その丹沢の山々に注目する前に右手奥に目をやると、 奥多摩の山が遠くに連なり、 見覚えのある大岳山の姿もみとめられる。 次第に丹沢が近づくと、 大山が右手前に大きくせり出してくる。 後方には塔ガ岳などのピークが控えている。 その左に富士山も顔を出してくる。 それも小田原駅まで来ると、金時山で富士山が隠れてしまう。
 小田原の手前、大山が右手後方に移動するころ、 平塚付近の印象的な風景として、丘の斜面に整然と並んだ三角屋根の住宅群を 取りあげないわけにいかない。 日向岡の団地である。 朝日を浴びると、カラフルでいっそう目立つのだ。 無国籍風のちょっと変わったデザインである。
 小田原駅周辺は富士山の代わりに箱根山が見えるが、 所詮富士山とは格が違いすぎ、 景観の点で損をしている。 富士山が近くなるのは、、 新丹那トンネルを抜けてからだ。 三島駅あたりからは、冬の晴れた日であれば、雪を被った光り輝く姿が見える。 しかしこれも、もう少し進むと愛鷹山にいったん隠れてしまう。 愛鷹山が後方に去ると、今度は富士山が裾野まで見えてくる。 東海道新幹線で一番の見所だろう。 日本のシンボルだけあって、何度見ても見飽きない。 晴れた日に、うっかり居眠りしてこの雄大な富士山の姿を見逃すと、 その日一日損をした気分になってしまう。
 その昔、このあたりを通過するときは、 製紙工場などが発生源と思われる悪臭が新幹線車内にまで入り込んできて、 不快な思いをしたものだが、最近はそういうこともない。 公害対策が進んでいる効果だろうか。
 その富士山が後方に退くころ、富士川の鉄橋を渡る。 この河川敷の線路のそばにテニスコートがあり、 早朝からプレーをしている人の姿を時折見かける。 富士山を背景にしたうらやましい環境のテニスコートだ。
 静岡駅近辺からは遠くに南アルプスの頂が顔を出しているのがわかるが、 距離が遠すぎて形がはっきりわからないのが残念だ。 安倍川を渡ると左にカーブして、列車がほとんど南向きに走る場所がある。 今まで右側に見えていた富士山が、 このあたりでは進行方向左側後方に見えている。 しかし、晴れている日の朝は左側から朝日を浴びるため、 ほとんどの窓にブラインドが下ろされている。 このため、進行方向に向かって右窓側の席から、 左側にある富士山を見ることはほとんど不可能である。 関西方面からの帰りに、 東京に向かって右側の席を取るとよく見えるのだが、 私の場合、明るいうちに上りの新幹線を利用する機会は、 ごくたまにしかない。
 掛川の駅を通過する際、 掛川城が見える。 山内一豊ゆかりのお城である。
 浜松駅を通過すると浜名湖にさしかかる。 このあたりが、東京−新大阪間の時間的なほぼ中間地点である。 浜名湖といえば、うなぎの養殖が昔から有名だ。 しかし近年はうなぎの養殖がビニールハウスの加温方式に変わったりしたことで、 静岡県より鹿児島県や愛知県のほうが出荷量は多いという。 かっては新幹線の沿線沿いの養殖池で盛んに回っていた酸素補給用の水車も、 最近は回っている姿をあまり見かけない。 放置されたままになっているかっての養殖池を見ると、 時代の移り変わりを感じる。
 もし夜だと浜名湖は真っ暗で、 どこに水面があるのかわからなくなるが、 浜松駅寄りにあるイオン(AEON)の巨大なショッピングセンターは大変に目立つ。 なにしろ周りは人家がまばらなのに、 ここだけは不夜城のように明るい照明で浮かび上がっているからだ。 夏の夜にはさぞかし多数の昆虫がこの光に吸い寄せられることだろう。
 話を昼に戻す。 豊橋駅あたりでは、山頂部が丸い恵那山が見えてくる。
 名古屋を越すと、木曽川、長良川、揖斐川という3本の大河をあいついて渡る。 遠くにありながら、ひと際立派な山容の独立した山は御嶽山である。 やがて関ケ原の山間を抜けると右手に伊吹山が見えてくる。 距離が近いせいか標高(1377m)に比べ迫力がある。 採石場によって山肌が削り取られているのが痛々しいが。
 この伊吹山を別にしても、 東海道新幹線の沿線で農村風景が一番美しいのは、 関ヶ原から米原あたりだと思う。 あまり大きな工場はないし、 多くの民家は黒い瓦に伝統的な配色の壁の組み合わせなので、 落ち着いた日本の伝統美を感じる。 晴れている時より、 むしろ雨で屋根瓦がしっとりと濡れているときのほうが、 より好ましい。
 米原の駅を過ぎて、在来線の東海道本線が右手前方彦根の方向に分かれると、 最近出来たフジテックの少々目障りなエレベータ研究棟が現れる。 そしてすぐに、低い山並みが迫ってくる。 春であれば、ギフチョウが舞っていそうな、丘を少し高くしたような山の懐に、 吸い込まれるように単線の線路が延びている。 一瞬のことなのでよほど注意していないと、 気がつかないうちに通り過ぎてしまう。 調べてみると、米原駅から彦根駅に続いている近江鉄道の線路だった。 運行本数の少ない地方鉄道だから、 新幹線の車窓からは電車が走っているのをまだ見たことがない。 右側の低い山並みが尽きると、彦根城が見えるが注意していないと見逃してしまう。
 そのうちに琵琶湖西岸、武奈ガ岳や蓬莱山など湖西の山々のゆるやかな山稜が見えてくる。 瀬田川を渡るころ、大津の街並み越しに琵琶湖の湖面がわずかに見えてくると、 京都はもうすぐだ。
 京都駅に着けば、右手に巨大な駅ビル、 左手前方に東寺の黒々とした五重塔が見えてくる。 いつかはゆっくりと京都見物をしたいものだ。
 京都駅を出てしばらくすれば、サントリーの山崎蒸留所が右側に見え、 新大阪駅も近い。
 こうやって東京から新大阪までの景色を車窓から見ていると、 雄大な山の景色もところどころで見えるが、 また人家の絶えることもないことにも気がつく。 東海道沿線は、人口の密集地帯であることを実感するわけだが、 日本全体からみれば、人家が密集しているのは一部の平野部で、 ほとんどは人の住まない山岳地帯なのである。 東海道新幹線の景色からは想像しにくいことだが、 飛行機から地上を見下ろすと、 東海道新幹線からの景色との違いがはっきりする。

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