HOME Page へ  抄録 Top へ  2000/11/16 木曜日 15:26 更新


 

  天孫降臨の絶対年代

第67号 (平成11年5月) 記載 

 本会会計監査・吉田堯躬氏の著書『「三国志」と九州王朝』の読者から著者に質問が寄せられ、当事者間に応答があった。吉田氏から著書の訂正になるのでとの掲載依頼があったため、ここに要旨を載せる。

  宮崎県東臼杵郡門川町 大和田始

 吉田氏の著書を読んでいるうちに、208頁に「古田説において『二中歴』から、天孫降臨の時期をBC57年においている」という記述があり、他方、250頁には、対談の中で古田さんが「吉田さんのBC57年は『二中歴』でしょう。あれが天孫降臨とイコールどうかは分かりません」と発言されています。  そこで改めて『二中歴』(『失われた九州王朝』補章など)を眺めてみました。  「年代歴」と題辞があり、つづいて「年始569年うち39年号無く干支を記さず」とあります。  継体元年を517年とし、それまで569年紀がつづいているとみれば、BC52年から紀年が始まったと考えられますが、BC57年が見えません。  39年の無号期間は最初の方と推測されます。そこで年代歴をみると、明要11年の註に「文書始めて出来る。縄を結び木を刻むこと止め畢む」とあります。また、継体ー法清の干支には「元」という冠詞がついています。足し算すると41年になるのですが、これが無号期間なのではないでしょうか。六世紀中頃まで倭国において文書がなかったという記述は信じがたいのですが。  そうすると、年始569年とは年号をつけ始めて569年、つまりこの年代歴がまとめられたのは1086年のことと言えるのではないでしょうか。  私は古田武彦さんの二倍年歴説を正しいものとして日本書紀を組みなおし、神武東侵の年次を確定できないかと考えており、年号のことに関心があり、疑問を呈する次第です。

  宮崎県都城市早水町 吉田堯躬

 拙著にお目を止めて頂き有り難うございます。拙著は九州王朝と題しながらその創設年代についてはじっくり考えていませんでした。BC57年の記述も古田氏の講演(昭和63年12月4日)の話をうろ覚えで書いてしまったものです。今回、古田氏の講演の要約を東京古田会ニュース第14号で確認しましたところ、次のようでした。

 従って、拙著のその部分は誤りです。BC52年に訂正します。また、古田氏が57年と述べているのは私の誤りを見逃しての発言で、九州王朝建国と天下りをイコールに出来るか、という問いだと思います。

 さて「元」の付された干支の意味や「二中歴」の制作年代については十分理解しておりません。その点、お返事できず申し訳ありません。

 (追記) 「文書始めて出来る」は、年代を始めて文書に記した意味ではないでしょうか。


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