HOME Page へ、月報13年3月


松ぼっくりがあったトサ

立川市 福永晋三

神功皇后紀特設問題を追求し、神功皇后の四世紀実在説を打ち出し、その検証の旅を飯岡氏の助力を得て実施した。古田会ニュースでもまだ全容を紹介しきれないほどの成果を収めた。

今回は、右の本流から離れて、ある支流をさかのぼりたい。それは、木瓜(もっこ)と呼ばれる家紋の源流である。通説とは全く異なるが、どうやら隠された古代史の源流の一をまたも突き止めたようである。

通説の木瓜紋

角川書店の『日本家紋総鑑』の総説は、「九〇〇年にも及ぶ歴史と伝統をもつ我が国の家紋は、世界に誇り得る文化的遺産である。」という一文で始まる。が、著者の千鹿野茂氏は、家紋の源流として、縄文土器や銅鐸の文様をすぐ次に掲げられている。

代表的な木瓜紋(『日本家紋総鑑』より)


 


そして、山鹿素行の説も紹介されている。

「旗に紋を描いたのは聖徳太子の時代、すなわち推古天皇即位(五九三年)の頃であり、武家が家々の章として用いたのは源頼朝の頃(一一九〇年頃)という。」

私の推量では、家紋の源流は縄文時代にさかのぼって良いと思われる。縄文土器にあれほどの意匠を施した人々が、布と染料を手にした段階で紋章を描けなかったとは到底思われない。起源は相当に古い。旗の語源は、国語音韻史上でも有名なパタ(パタパタの擬音)であり、P音であることは論証済みと言っていい。縄文にさかのぼり得る。古代中国の旗印も、紀元前の春秋戦国時代に存在したことは想像に難くない。だが、布の物証は得難い。得難いからといって、我が国の家紋の歴史をことさら新しく考えるのも不都合だろう。今の私には、弥生時代に家紋の存在した可能性があれば、それでひとまず十分である。

わが福永家も紋は横木瓜である。薩摩の島津家に仕えた武家であることは間違いない。この家紋に四十年来、関心をもたずに過ごしてきた。この三年ほど、福岡県の神社を見て廻って、急に関心が深まった。吉武高木遺跡のそばの飯盛神社や高良大社のご神紋木瓜である。殊に、後者のお宮には巴紋と木瓜紋が並んでおり、久留米シンポジウムのあったときに、高良大社の関係者にお尋ねしたら、「巴は八幡神のご紋で木瓜が当社のご神紋である」とのお答えをいただいた。

木瓜紋は、日本で一二を争うほどの多種多様の紋章を誇る。先の二社の創建年代から推測しても、起源は通説よりも古い。古いが、その由来とかなりたちとかは、不明な点が多い。特に何を図案化したかについてははっきりしていないのである。

『日本家紋総鑑』の「木瓜」の項をしばらく借りよう。

木瓜(もっこう)・?(か)

木瓜紋は?の紋で木瓜は当て字である。正確には?紋である。?とは木の上に作られた鳥の巣にたいして地上にある鳥の巣のことで、形が巣の形に似ている。そして昔の?紋は現在のように整った形でなく、中に小さな丸が数多く描かれている。これは巣の中の卵といわれる。?紋が何故、木瓜紋と呼ばれたかについてはいくつかの説がある。

@平安時代に寺院や役所などの御簾や御帳の周囲にめぐらした絹布の帽額(もこう)にある文様を「御簾の帽額の文」と呼び、この帽額の音から転じたという。

A木瓜は木瓜(きうり)すなわち、胡瓜(きゅうり)の切断面を象ったものである。

Bバラ科に属する木瓜(ぼけ)の切り口を象ったものである。

これらの説のうち、最も信用できると思われるのは@の説で、ABは文様の形はやや似ているが、胡瓜の切り口は3室3子房であり、ボケの実の切り口は5室10子房であり、明らかに異なる。

この後、中国の文様との比較論が続くが今は省く。Aについては、博多山笠で有名な櫛田神社に、祭りの間胡瓜を口にしない習わしがあることと関連する。お櫛田さんのご神紋も五瓜の木瓜である。

木瓜の正体

急転直下の解明が訪れた。二〇〇〇年一〇月一四日土曜日の午前八時十五分頃の出来事である。飯岡由紀雄氏が突然、

木瓜は、松かさの開いた方向から見た形じゃないか。」と投げかけて来られた。彼もまた、木瓜紋に執着していた。私が間髪入れずに答えた。

「そうだ。松ぼっくりだ。松ぼっくいともいうし、木瓜の漢音はボックヮだ。古くは呉音でモッケ、すなわちもっこと呼び、次がボックヮでぼっくい→ぼっくりとなり、元の意味が薄れたから、ぼっくいになったんだ。元々もっこだけで松かさのことだったんだ。」

各種の国語辞典に当たった。もはや、どれも珍説にしか見えなかった。もっともおかしかったのは「松ふぐり」の転化説。詳細は言わぬが花。元来松かさであるとの説はついに見当たらなかった。だが、この元来松かさ説は、何より実物を見つめ、多種多様の木瓜紋と比べるとき、あまりにも直接的・具体的で、論証は蛇足にさえ思われるほどであった。ぜひ、読者も松かさを手にしていただきたい。百聞は一見に如かずの好例である。

木瓜紋は、例に三瓜から五瓜のものを挙げたが、『日本家紋総鑑』には八瓜の木瓜紋まである。植物学の事典を見ると、松かさは「球果」と呼ばれている。そして、赤松や黒松など、種類の違う松の球果もそれぞれ大きさや形状が少しずつ違うのである。それらを輪切りにした形を較べれば、そしてそのうちのどの範囲までを図案化したかを考えたら、三瓜から八瓜までの木瓜紋があるわけが、容易に分かったのである。


 


 


結局、『日本家紋総鑑』のAの「木瓜の断面」の部分だけが、どうやら正しかったようだ。残る謎は、松かさであった「木瓜(きうり)」がどうして「胡瓜(きうり)」に変わったかである。それが、意外な方向から解けた。答えは、「松ぼっくり」の童謡にあった。文献から探すことができずにいたとき、同僚の峯村幸恵さんの記憶していた歌詞を教えていただいた。その歌詞にヒントがあった。

松ぼっくりがあったトサ/高いお山にあったトサ/それがコロコロ転がって/お猿が拾って食べたトサ

古代人は松かさをその形から「木瓜(きうり)」と呼んだが、食用にはしなかったはずだ。だが、「瓜」と名付けていたからこそ、童謡の中で、お猿さんを馬鹿にして、お猿さんに食べさせてしまったのである。もちろん、お猿さんも食べはしないであろう。その「きうり」が後世、人間と河童の好きな食用の「胡瓜」にすり替わった。それが、お櫛田さんに伝えられた習わしの発祥であろう。櫛田神社も創建年代不明のお宮である。そこのご神紋の名が、古い形のまま「きうり」と呼ばれていたのではないか。それが、木瓜の起源が薄れるにつれて「胡瓜」に変わっていったのではなかろうか。そしてその断面も《やや》木瓜紋に似ていたのである。これらが広まってしまったから、ついに新顔の「胡瓜」が「きうり」になったのであろう。あるいは、故意にすり替えられた可能性も無くはないが。(飯岡氏は「お猿」に「猿田彦」が懸けてあるのではないかと疑問を持たれている。)

木瓜紋はどこの家紋か

気が付けば、木瓜(もっこ)は「きうり」であり「松ぼっくい」であった。このように簡明な事実が、長年誤解されたままだった。問題はここからである。

木瓜紋はその起源が相当に古い。木瓜紋は松かさを図案化したものである。この二点と、先の福岡県の神社のご神紋と、鎌倉以降の武家の家紋との流れを合わせて考えると、深い謎に到達する。いつ頃、どの氏族の家紋として、現れたか。なぜ、木瓜紋は多数の氏族に多種継承されたのか。

飯岡氏や私は、「松ぼっくい」の「」に重点を置いて考えた。先に挙げた木瓜紋の中に、一つだけ種類の違う紋を出しておいた。それは「五瓜に荒枝付き三階松」である。外は松かさ、中は松の木という紋が何種類かある。木瓜が松かさと分かった今、これらは結局、「松」の共通項で括られる紋章なのである。その「松」が与えてくれるヒントはおよそ次のようだ。検証はこれから積まねばならない。

古代製鉄では、砂鉄と松(現代のコークスに当たる)が原料であった。山でも海岸でも松林の近くに製鉄所があったといっても過言ではなかろう。「松」の紋章は古代製鉄に係わりの深い氏族が考えられる。この「鉄」から作られた武器や甲冑を「厳物作り」とか「物の具」とか言う。「」である。これらを身にまとい、太刀や弓矢を用いた戦闘集団を武士と呼ぶ。武士は古くは「もののふ」であり、万葉集などではあきらかに「物之部」と書かれている。すなわち「物部」である。

我々はさらに「筑紫物部氏」を凝視している。彼らが木瓜紋を最初に生み出した氏族ではないかと推量している。少し、横道にそれる。

一九九七年三月に、万葉集八番歌の「熟田津」は、福岡県鞍手町の「新北」ではないかとの説を発表した。私と家内の伸子に、文章での発表の機会はないままだった。伸子の場合は、当時、明らかに掲載を拒否された(東京古田会ではありません)。私の場合は、現地調査をするつもりであったから、発表は一応の結果が出てからと考えていた。調査は、その後三年もかかった。結果の出ないうちに、あちこちで勝手に引用され、あげくの果てに、一方的に福永説は間違いだとの批判まで受けた。今も、その憤りは消せない。だが、災い転じて福と成った。その「新北」を調査しているうちに得た副産物、それが「筑紫物部氏」の存在だった。「新北」と「鞍橋君」の調査の結節点、それが「筑紫物部氏」だったのである。

その土地の名は「筑豊」、私の生まれ故郷でもある。かつての炭鉱地帯である。石炭が掘られ、閉山した後も、古墳などの遺跡が発見された。筑豊こそ、筑紫物部氏の夢の趾。調査当初の剣神社や八剣神社を巡る中で、神社の境内に「鎧塚」を見たり、各地の歴史資料館に鉄剣、馬具、鉄鏃の出土物を見たりして感じた。一律に五〜六世紀の遺物とされていた。二〇〇〇年にやっと、直方市の水巻古墳群を訪れた。鞍手町の古月古墳群とそっくりの横穴式石室古墳群である。筑豊に横穴式石室古墳群は多い。そこからは、男子の遺骨しか出ない。女子の遺骨は出土しない。そのうえ、男子の遺骨(一つの穴に二体の例もある)の横に鉄剣が置かれていたケースが散見する。そして、水巻古墳群の脇には製鉄の跡まで残されていたのである。一つの遺物が出土したら、当時は五倍から十倍あったと考えてよいとするなら、筑豊に出土する多数の鉄剣、馬具、甲冑の十倍の状況を想定してみよう。筑豊地方は古代の大軍事集団の居住した所と言えないだろうか。都合、五次にわたる未熟な調査ではあるが、「筑紫物部氏」の里を確認できた。

物部氏の祖はニギハヤヒとされるが、そのニギハヤヒの祭られている神社が、鞍手郡宮田町の天照宮である。十八の年まで、初詣でした神社である。現在の宮司の長屋氏のご母堂が、私の中学校の国語の先生であった。一九九九年にお伺いしていろいろなお話しをお聞きした中に、「長屋氏は今も、男子のお墓と女子のお墓は別々にあって、別々に葬られることになっている。」というのがあった。横穴式石室古墳時代の風習が今なお続いているのだろうか。

奇縁に導かれて、私の古代史の追求は、故郷に回帰することになった。幾多の問題はすぐには解決しないが、わが故郷は、意外なしかも確実な糸口を与えてくれそうだ。二〇〇一年も筑豊の調査は続く。

2001年3月 tokyo 古田会 news 第78号 初出

本流に少しばかし戻ろう。『日本家紋総鑑』によれば、木瓜紋を用いた代表氏族として、日下部氏、伴氏、紀氏が挙げられている。「伴氏は道臣命から出て、大伴氏と称していた。」との解説まで付いている。紀氏は、水沼の皇都で天下を治めた天子の姓と考えられる。高良大社のご神紋が木瓜であることは、決して偶然ではないのである。 

2002年1月8日 図版と終わり4行を追加


HOME Page へ、月報13年3月