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 相模の古社     田遠 清和

         

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 十月から十一月にかけて相模の式内社や関連古墳・博物館などを歩き回った。その間に筑波大学で行われた日本思想史学界で古田先生の発表を聞き、大前神社やさきたま古墳群を訪れ、また歴博で行われた「歴史を探るサイエンス」という特別企画展に出かけ、更に武蔵の古社を訪ねる旅にも参加した。きわめて充実した秋だった。

相模の延喜式内社については東京古田会の企画でバス旅行が実施された。(十一月二十三日)その報告の意味をこめて、相模式内社の問題点を記しておくことにする。

 

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相模の延喜式内社は全部で十三座ある。

@寒川神社(高座郡寒川町)

A川匂神社(中郡二宮町)

B比々多神社(伊勢原市)

C前鳥(さきとり)神社(平塚市)

D有鹿(あるか)神社(海老名市)

E大山阿夫利神社(伊勢原市)

F高部屋神社(伊勢原市)

G小野神社(厚木市)

H深見神社(大和市)

I大庭神社(藤沢市)

J宇都母知(うつもち)神社(藤沢市)

K寒田(さむた)神社(足柄上郡)

L石楯尾(いわたておの)神社(津久井郡藤野町)

これらの式内社の他に相模の国には、

@走水神社(横須賀市)

A足柄神社(南足柄市)

B六所神社(大磯町)

C高来神社(大磯町)

D吾妻神社(二宮町)

E皇太神宮(藤沢市)

F鶴ヶ岡八幡宮(鎌倉市)

G江ノ島神社(藤沢市)

H芹沢腰掛神社(茅ヶ崎市)

I用田寒川神社(藤沢市)

J宮前寒川神社(藤沢市)

K弥生神社(海老名市)

L平塚八幡宮(平塚市)

 等の主要な神社があり、幸いなことに今回あらためてこれらの神社を訪ねることが出来た。

これ以外にも、

@応神塚古墳(寒川町)

A真土大塚山古墳(平塚市)

B塚越古墳(平塚市)

C秋葉山古墳群(海老名市)

D神揃山(大磯町)

E相模国分寺跡(海老名市)

といった古墳や祭場・史跡があり、これらの神社の訪問が私の神社研究の端緒となった。

 

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今回の調査で、一番強く感じたことは、相模は「水の国」であるということだ。式内社のそばには必ず川がある。相模川(前鳥・寒川・有鹿・石楯尾)・酒匂川(寒田)・押切川(川匂)・鈴川(比比田)・玉川(小野)・引地川(大庭)・境川(深見)。どの神社も川に隣接している。また寒川神社の神域には「難波池」という泉があり、この泉を中心に神社が築かれていったことは明らかだ。寒川の「かわ」が泉を指すことは、柳田国男も指摘している。水が神社の立地条件を決定する。当然のことながら、それを強く意識させられたのが今回の調査であった。

 

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 二つ目は、時代の転変によって祭神が変えられていたり不明になっていたりするケースがほとんどなので、祭神論というものは、慎重でなければなるまいという認識をあらためて強く抱かされた点である。

 例えば、小野神社は「全国神社名鑑」(昭和52年刊)などで調べると祭神は「日本武尊」としか書かれていない。また「延喜式内相模十三社参拝の栞」(相模國式内社の会発行)

を見ても同じである。ところが「新編相模國風土記稿」には祭神が「下春命」とあり摂社に「アラハバキ」が祭られていることが明記されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト ボックス: 小野神社に祭られているアラハバキ神 


 また神社名も「閑香大明神」とあり「閑香」は「かんか」とも読めるが、実は「あいこう」が正しく中世小野神社を復興させた「愛甲三郎」の名にちなんだものとする説がある。愛甲は現在も「愛甲郡」という地名に残されているが、であるとするならば、この時点では、祭神は「閑香大明神」であったことになる。

 しかし延喜式には「小野神社」とあり、本来は小野氏が祭られていたとも考えられ、要するに本来の祭神はよくわからない。明らかなのは「日本武尊」は明治以降に変えられた祭神だということだ。これは「さねさし相模の小野」というオトタチバナヒメの有名な歌謡によって祭神が変えられたことが現地の由緒書きに明記されていることからもわかる。

 やや脇道に入るが、重要な問題なので述べさせていただくと、オトタチバナヒメの歌謡は走水での歌ではなく本来はこの地で歌われた野焼きの歌だと考えられることである。

 小野の地は旧石器・縄文早期から古墳時代まで続く古い土地柄である。現在からは想像もつかないが、小野神社が延喜式内社として列していることからも、古代の重要拠点であったことがうかがわれる。その土地が歌に歌われていたとしてもなんら不思議ではない。というよりも、地名を歌に詠みこむことは歌の技法の常道である。地名が詠みこまれているから、ここに違いないというのではなく、歌というものは地名を詠みこむものなのである。

 一般的には「小野」の「お」は接頭語で「小野」は野原と解釈することもできるが、同時に地名が詠みこまれていると取るのが歌の解釈にとっては通例だ。従って「さねさし相模の小野」とは現在の厚木市小野一帯を指す、ということにならざるを得ない。

記紀の編者は小野周辺の歌を盗ってきて無理矢理、オトタチバナヒメの劇的な入水死の場面に、無関係な歌を挿入したのだ。

 

 さねさし相模の小野の燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも

 

「いまは秋、さねかづらに赤い実がたわわに実った季節です。わたしたちは、その実を採りに、野に来ています。ここは早春の頃、若者たちが野焼きに来ていました。その時、わたしたちも見物がてら手伝いに来ていました。

そのとき、わたしに声をかけ、わたしの名を問うて下さった方、あの方は、今、どうしていらっしゃるのでしょうか。」

古田(「悲歌の真実・閑中月記・第十二回」)

 

 記紀では焼津での国造の焼き討ち事件を受けて、走水で歌われた歌であるかのようにされているが、それだと解釈ができなくなる。何故なら焼津は相模の国ではなく、今も昔も駿河の国だからだ。また海に面した走水の地を「相模の小野」と解釈することも無理があろう。この歌謡の解釈が分かれ「さねさし」の語が意味不明とされてきたのは、このような文脈上の矛盾点を多くかかえていたからである。

 ところが、ここ小野の地を歌の舞台にすれば、その矛盾がすべて解消される。この歌謡の本来の地は文字通り「相模の小野」であったのだ。そう考えたとき、はじめてわたくしはこの歌を理解することができたのである。

 付言しておけば、この歌の「さねさし」は「共に寝ようと誘う」という意味にも解釈でき、その意味で解釈したほうが東歌風とも言える。古田解釈は、高級な解釈とも言え、むろんこの解釈のほうをあえてわたくしは採用するが、もっと素朴な解釈も可能だという点を付け加えておきたい。

これに関連した問題についてここで触れておこう。それは「新・古代学」(第7集)の溝口貞彦氏の君が代論である。ここで溝口氏は「古田・君が代論」について、あれこれ論じているが、歌に地名・神社名・神名が詠みこまれていることの根本的な重要性が全くわかっていない。わかっていないばかりではなく「大言壮語」であるとか「非学問的手法」であるとか「根拠のない虚妄の説」だとか非難して何ら憚るところを知らない。歌についての根本的な理解を欠いた、不毛の論と呼ぶ他はあるまい。

 

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 さて、本題にもどって、祭神について、更に興味深い問題を論じておこう。本来の祭神がわからない神社が多いわけだが、寒川神社(相模国・一の宮)の寒川比古命・寒川比女命というのも明治期の比定にすぎない。平安時代には「続日本後紀」にあるように「相模国無位寒河神」とあるようにただの「寒河神」であった。また「文徳実録」「三代実録」では官位はあがっているが、やはり「寒河神」となっている。ところが江戸時代にはこれに八幡信仰が付加されたようで、祭神が八幡大菩薩や応神天皇に変えられている。(「諸国一宮神名帳」等)それが近代になって再び寒川神に戻されたわけだが、その際、男女神に分かれてしまった、というのが大雑把な流れのようだ。

 このように、祭神のすげ替えは大きな時代の節目には常套手段として行われていた事実を確認しえたことは今回の調査の大きな収穫であった。ここで想起するのは古田祭神論で、これは「日本書紀」成立時に卑弥呼は神功皇后に変えられたという大胆な仮説だが、これも十分にあり得ることと思われる。証拠はどこにもないが、相模の式内社を調べただけでも、多くの神社で祭神がすげ変えられているからだ。他の地域では、このようなことが行われなかったとは考えにくい。

 卑弥呼を祭った神社が日本国中ひとつもないという不可思議な問題を解明する一つの貴重なヒントとして、祭神すげ替え論はある。もっとも、卑弥呼はミカヨリヒメだという立場に立てば、筑紫神社には祭られていることになるが、これも本来であるならば、北部九州のもっと数多くの神社でミカヨリヒメは祭られていなければならないものと思われる。それが神功皇后に変えられた可能性は高いと考えることは不自然な着想ではあるまい。というのも日本書紀では倭女王が神功皇后のことのように書かれているからだ。祭神すげ替え論は興味深い仮説と言えよう。

いずれにせよ、祭神から歴史を追究するためには、慎重に論ずる必要があるに違いない。君が代論の場合一つではなく「千代」(地名)「細石」(神社名)こけむすめの神(神名)という三つの神名等がリンクしている点と、志賀海神社の山ほめ祭の存在、そしてその領域が金印や三種の神器の出土地であるという考古学的な事実が、論のリアリティを支えている。相模の国にも、いくつかの神社や寺で「さざれ石」なるものが祭られているのを見たが、そこが君が代本源の地とは、とうてい思えないのである。

 

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祭神について更に論じておけば、興味深いのは、前鳥(さきとり)神社(四の宮)に祭られている菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)だ。菟道稚郎子は応神紀と仁徳紀に、聡明で立派な皇太子として登場する。王仁(わに)の弟子となり、皇太子であるにもかかわらず天皇位を仁徳にゆずるために自殺し果てた殊勝な青年として印象的に描かれている。

 記紀でこれほど立派な人物として描かれている事例はまれだろう。その菟道稚郎子命が祭られている神社は、京都府宇治市の宇治神社・宇治上神社の他はほとんどないようで、その数少ない神社が前鳥神社ということになる。

 菟道稚郎子は「新編相模國風土記稿」でも祭神となっているので、祭神が変わっていないと思われている数少ない事例の一つとされている。

そのため、神社の西1キロほどの所にある真土大塚山古墳は、菟道稚郎子の墓ではあるまいかという説が研究者の間で囁かれてきた。この古墳からは、京都府椿井大塚山古墳出土鏡の同笵鏡が出土している。何故、菟道稚郎子を祭った神社が平塚市にあるのか理由は全くわからない。記紀には何も記されていない。

テキスト ボックス: 真土大塚山古墳出土鏡。(椿井大塚山古墳と同笵鏡)レプリカ (平塚博物館蔵)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また菟道稚郎子には高麗の国の使いが持ってきた上表文に怒って、使いを責めそれを破り捨てたというエピソードも残されている。

 その高麗からの渡来人の本拠地が平塚市の西隣である大磯町にある。高麗山を神体山とする高来(たかく)神社がそれだ。高麗人の痕跡が、菟道稚郎子命を祭った神社のそばに残されている点が奇妙と言えば奇妙だが、この問題にも明確な答えはない。

記紀の記事があてにできないのはこうした事例からも明らかだ。現地伝承と記紀の記述とは、この場合なんら関連性がない。というよりも記紀は何も語ってはいないのだ。にもかかわらず、奇妙な事実だけが現地には残されている。何故、菟道稚郎子命はここに祭られているのだろうか。

 

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 さて、相模の国の式内社の問題で、最後にぜひとも触れておかなければならないのは国府祭のことである。国府祭は普通「こくふさい」と読むが、地元では「こうのまち」と呼びならわされている。

これは全国的にも極めて珍しい祭りで、寒川神社(一の宮)と川匂神社(二宮)とが、一の宮争いをした故事を神事にした祭りである。仲裁に入るのが三宮である比比田神社であり、大磯町の神揃山(かみそりやま)という祭場で毎年五月五日に行われる。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
神揃山祭場

 

 

 

 

 


わたくしは実際の祭りを見ていないのでなんとも言えないが、総社である六所神社、四の宮・前鳥神社、五の宮・平塚八幡宮の六つの神社が参加して行われる壮大な祭りのようだ。

相模の国の国府は平安時代末の時点では現在の大磯町(旧・余綾郡)だったことが明らかにされている。万葉集東歌に

 

相模路の余綾(よろぎ)の浜のまさごなす 児らは愛しく思はるるかも

 

と歌われたあの余綾である。ところが、国分寺跡が海老名市にあることから、古くは海老名に国府があったとする説や、比比田神社の近くだったとする説・前鳥神社説など、諸説紛々として決着を見ない。そうした国府の移転に伴って一の宮が変わったことをこの国府祭は伝えているわけで、この祭りは興味が尽きない問題を孕んでいると言える。

更に、ここでもう一つ注意を引くのは「国府」を「こう」と呼んでいる点だ。この地名ですぐにピンとこられた方もいるだろう。例の稲荷山鉄剣問題で磯城宮(しきのみや)がある栃木県藤岡町大前神社の周辺の字地名が甲(こう)と呼ばれている。甲は国府(こう)であり、藤岡町には六所神社もあった。あったというのは、現在では藤岡神社と名前を変えられているからだ。

 「六所」とは「録所」の意味であり管内の神社を記録し統括する役割を持った神社のことを六所神社と呼ぶ。その六所神社があり「こう」という字地名があることから、下野国・三鴨の地(藤岡町)には国府があったと考えられてきた。わたくしもそう思う。

 つまり、磯城宮の地(藤岡町)は国府の痕跡があった重要拠点だったのだ。しかも「天国府」という字地名すら今に残されている。

 埼玉の地名発祥の地である「さきたま」の勢力と、国府があった(あるいは当時国府だった可能性もある)下野の勢力。これが無関係であったとは考えられない。同じ利根川水系でわずか二十キロ余りしか離れていない地にある磯城宮を無視して雄略天皇や大和の磯城と関連づける通説の手法は、歴史の偽造以外の何者でもないと言えよう。そもそも雄略は磯城宮を本拠にはしていない。記紀にすらないことを、でっちあげたのが通説だ。

 国立歴史民族博物館やさきたま古墳群にある資料館では古田説が一切無視された展示がなされているが、これは国民を無視した、イデオロギーに偏った、悪質な展示と言う他はあるまい。この問題は14C放射能測定の問題とも関連している。歴博に出かけた折りに、考古学編年と14Cの測定値とを対比した表が展示されていないのを訝しく思ったので、わたくしはあえてその理由を質問してみた。

 担当者の回答は「わたくしは考古学者を尊敬しておりますから。」というものであった。

 事情を知らない人が聞いたら謙虚な答えに聞こえたかも知れない。だが、わたくしには、そこに権力に立つ者の傲慢な奢りの声しか聞こえなかった。

 国民に真実を知らしめることこそが、本当の意味での考古学者への「尊敬」だ。しかもここからは、14C測定者の先人に対する尊敬や国民に対する尊敬の念は一切感じられない。密室で歴史を操作する者たちの陰湿な奢りをこの回答に読みとったのは、わたくしだけではあるまい。

 更に「稲荷山古墳を14C測定する予定がありますか。」という質問をしたところ「いまのところその予定はございません。」という回答をいただいたにすぎなかった。この問題を国会の場で追求する政治家が、わが国にはいないのだろうか。

それはともかくとして国府祭は極めて興味深い祭りであり、それは相模の国一国を超えた問題を提起している。国府の移動が何故行われたのか。何故それは、いまに伝わらないのか。九州王朝説と関連するのか否か。今後の楽しみな研究課題と言えよう。

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 さて以上、駆け足で三点ほど重要な問題点に触れた。言い足りないことが多いが、ここでいったん終わらせていただく。会員の皆様もぜひ、興味を持って相模国の式内社問題に取り組んでいただければと願う次第である。尚、参考文献としては「相模の古社」(菱沼勇・梅田義彦著・学生社)がある。

つい先ほど、除夜の鐘が鳴り響き、新たな年が始まったばかりだ。今年が先生にとって、そして会員の皆様方にとって、よい年になることを切に祈りつつ筆を置かせていただく。

 

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「弥生時代の開始年代」 国立歴史民族博物館講演録 その3   要約 高柴 昭

 

「弥生時代研究の新展望」 (前半) 春成秀爾 (考古学研究部 教授)

 

考古学の立場から今回発表された弥生時代の新しい年代測定の結果に付いてのコメント(感想、意見)を述べたいと思います。

 

これまで紹介ありましたように、弥生時代の始まりについて、早期が前九世紀ないし前十世紀、前期の始まりが前八世紀、細かく言えば前七百八十年辺りに来るのではないかという暫定的な呈示をしました。

 

新たに測定した岡山市の南方遺跡、此方は前期の終りと中期の初めとの境目の遺跡ですが、中期の始まりがいつかと言うことをはっきりさせたくて測定を依頼しました。判定では前380年辺りに来ているのではないかということです。まだ測定値が少ないので断定的なことを言う段階ではありません。又、奈良県の唐古鍵遺跡から良好な試料を多数提供されたので、前末中初がいつ頃かという事が恐らく今年の秋頃には結果が出るのではないかと思っています。

新しい研究の成果で、これまでの常識を覆すと言うことはしょっちゅうありますが、土中から新しく眼に見えるものがイキナリ出てくる場合はすんなり受入られやすいと思います。今回の場合は事情が少し異なり、見た目にははっきりしないが、分析の結果そういう数字が出たと言う形ですので、中々納得出来るものではないと思います。

 

私も弥生時代の始まりは紀元前四〜五世紀ということで理解していました。自分もそう考え、そういう年代感を広めてきた一人であります。今回、同じ研究グループの中でそういう数字が出た訳で、私自身は内部にあって、むしろ抵抗勢力的な存在であります。(笑)

 

(この測定結果が)本当ならば、自分のどの部分に間違いがあったのか考えなければなりません。必ずしも私が言い出した事ではありませんが、それまでの研究者の意見を租借しながら自分の考えを固めて今まで書いてきた、そういう立場からすると、新しい結果が出ても即飛びつくと言うよりは寧ろ慎重であります。今尚、半信半疑であります。(笑)

同僚もいますので半分信じ半分期待していると言う立場であります。

只、今回の数字が出てきて私が真っ先に頭に浮かんだのは、奈良文化財研究所の光谷さん、年輪年代の方から弥生時代の実年代を出してこられました。年輪年代は一番安心できる年代測定法で、炭素年代は肉眼で見えないが、年輪年代は年輪の数を数える方法だから分かり易いと思います。

光谷さんが多くの研究者の期待にこたえるべく数字を出して来られました。ところが考古学の予想から見れば皆百年から二百年古いデータが出て来た訳です。光谷さんは考古学者に歓迎して貰おうとして数字を出すのに、考古学の研究者は、これはおかしいと、例えば、先ほど出て来た岡山市の南方と言う遺跡では木材が出て来た。その中から一番良い材料を三点選んで年輪を計ったところ、考古学者の期待というか年代感からいうと百五十年ほど古く出ました。

そこで考古学の方ではどう考えたかというと、(溝の中から出て来たのですが)その建物よりもっと古い時代の建物の一部を再利用したのだろう、それがそこに流れ込んできたのだろう。或は更に、百五十年〜二百年前に埋まっていたものが洪水の際に洗い出されて、新しい時代の地層の中に入ったのだろう。そういうことで折角だされた年輪年代の結果を、考古学の方では実は棄却した。三点計って三点とも棄却した。そういう例があります。

 

或は、前期の終わり頃の例ですが、木で作った棺桶の年輪年代を計ると、光谷さんの長年の経験によると、確かな事は言えないけれど、前期の終わり頃が多分前四百年頃ではないか、と言う風になりました。これも前期の終りを前二百年頃と考える我々からすると二百年ほど古くなる訳です。考古学の専門家ではなくて年輪年代の専門家が出したものである、ということで、知ってはいるけれども飛びつかない、飛びつけない、そういうものであります。

今回私が、矢張り深刻に受けとめざるを得ない、と言っているのは、一つは年輪年代と(今回の結果が)非常に整合性がある、ということです。ですから今回の結果を聞いて喜ばれたのは光谷さんですね。(笑)

これでようやく自分がやって来た事が一般に認められる、ということで喜ばれました。

弥生の始まりが前八百年頃と言う数字が出たましたが、中国ではどうなのかといいますと、中国でも、夏、殷(商)、周の三つの時代の年代を、現在一生懸命計っているところでう。これも新しい処はハッキリするけれど古い処はハッキリしない。殷と商との境をハッキリさせたいということで、中国でも年輪年代を使って文献上の記録と合うかどうかの精査を進めているが、それによると、(藤尾が先ほど説明したように)文献上の記録と同じになるようです。

三百年前の物が計ってみると八百年前になるということは中国ではありません。世界的にもそれはありません。年代学の専門の今村さんに聞くと、炭素年代がずれるとしても数十年で、何百年もずれると言うことはないそうで、例外は別にして、安定した処では大体横一線と言うか縦一線に並ぶと言います。そうするとアジアの中で日本だけが計った時に何百年も古くなると言う事が一体あるのかという問いかけが、考古学をやっている私自身にも来ます。非常に難しいと思っています。

 

この結果を発表してから、色々疑問の意見や反対の意見が出されていますが、中でも大きいのは鉄器の例です。弥生時代前期に鉄器が出ています。もし弥生時代前期が九世紀まで遡ると、中国でも鉄器は殆ど普及していないのに何故日本にそれがあるのか、年代が古く出過ぎているのではないか、という意見があります。

そこで私も、弥生時代早期或は前期の鉄器について、どういう状況で出土したのか調べてみました。

遺憾ながら、出方が悪いと言わざるを得ません。ある層から出て来たと書いてありますが、図面になく、写真も撮られていない、結局文章の中でだけ「この層から出て来た。ほぼ間違いない」という表現に留まっています。

或は、熊本県の齊藤山と言う処から鉄の斧が出ている、これは有名ですが、今発掘の報告書を見ると、鉄が出てきたと言う地層は、崖の上の層がずり落ちて来た層の中に入っている、そして、小さな貝塚の中にありますが、貝塚の廻りを取り囲んでいるのが腐植土、即ち畑の土なんです。これではとても使えない。

 

東北地方で捏造が問題になった。これまで出土状況・発見状況が十分に観察されていない、記録されていないということが問題になりましたが、そういう点を踏まえて弥生時代早期の鉄器の出方を見ると、これを使えるとは言えません。これはおかしい、と言う材料として使うには不適格であると言わざるを得ない、同じ考古学者が掘り出したものだが頑張れないと思います。私は、そういうことで、あやふやな鉄器を材料にして新しい年代測定を否定するのは良くない、適当でない、もっと研究すべきと言った方が良いと思います。

年輪は年輪の方でもっとデータをキチンと出していくのが一番良いし、直ちに鉄器を使って反対すると言うのは良くない、もっと性根を据えてお互い勉強するのが大事なことだと思います。   (つづく)

 

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肥後・阿蘇の古蹟を尋ねて    平田 博義

 

 十一月三十日から三日間、肥後、阿蘇史跡巡りの旅に参加した。学術的には程遠い、興味を感じた個所を取り上げた旅の感想文である。

 

 第一日目。チブサン古墳を含めた装飾古墳群を廻る。保存状態は良く、管理も行き届いており、遠賀川流域の無残な状況とは比較にならない。

 チブサン古墳の装飾、円、同心円、三角、四角の模様と赤、黒、白、緑の色調。模様と色の取り合わせは、言葉に出来ない感動で、唯凝視するのみである。

 入場券に印刷されたニっの同心円と、その下の黒い三角形を男性群は乳房と下腹と、女性群は目と口と異なった見方していたのは面白い。

 それらの色の元の材料は何を使用したか質問すると、学芸員は、黒は凝灰岩をその物を残した。白は白粘土、赤はベンガラ、緑は緑泥石か緑泥片岩との事であった。

 然し、岩は布や紙と異なり、色を浸透させる、つまり染色は不可能だ、使用した岩石に直接塗布する。

 同行した連れが「岩にベンガラを直接塗布しても塗った時は良いが、長い年月の間に水が入り剥がれ落ちる。剥離する筈だ。それが現在迄色が残るには何らかの粘着剤というか定着剤が必要ではないか」という。

染色不可能な岩に色(顔料)をどう定着させ剥離が起こらない様にしているのか。この点も学芸員に質問したが判らないとの事である。「漆はないか」と重ねて質問したが首を傾けるのみである。

 北海道南茅部町垣ノ島B遺跡から漆塗りの装飾品が出土して、約九千年前のものと確認されている。日本列島の人々は漆の特性と使用法を熟知していた。

 装飾古墳が出来て千五百年。色を残す(剥離を防ぐ)技法は一体何だろう。分析する事は不能なのか。漆の使用も一技法とは考えられないか。

 次はトンカラリン遺蹟である。江田船山古墳から三百米程の所にある。四百五十米以上にわたって断続的に隊道が作られている。何の目的で何時作られたか種々議論のある所だが、結論は出ていない。或る所は、方形の切石をきちっと積み上げ蓋をして、完全に人により形成された隊道の所がある。人が横になってやっと潜り込める所だ。その一方で、自然侵蝕によってできた地隙に、無雑作に天井石で覆った個所がある。其処は歩いて通る事ができる。歩いてみたが、昔の人の意識、思考には到底至る事は出来ない。或いは、現在連続しているように見えるが、嘗ては別の目的で作られ、時代も異なるような築造形態である。石積みの個所は時代的にも新しくみえるのだが。

 

 ニ日目は、玉名市の横穴古墳から始まる。

 その前に古代の地形と現代の地形とは懸け離れたものであったと云う。現在の地図からは全く考えられない。古墳時代の海岸線は現在の陸地に入り込んでいた。現在JR玉名駅のあたりが津(港)であった。更には菊地川と繁根木(はねぎ)川の間は、可成り奥迄海であった。改めて、その時代の地形を正しく認識した上で判断しなければ重大な誤ちを犯す事になると考えた。

 横穴古墳はこのニっの川沿いの崖地にあった。海から上がればすぐ崖地の墳墓であったろう。一っの横穴には、奥と両側と三っの棺が置かれる様に作られている。代々死者を順次その中に埋葬したという。

井寺古墳の直弧文は薄明かりで余り判然とは見えないが、あの幾何学的模様は何を表現し、何を人々に、神に、死者に訴えようとしたのだろう。定規とコンパスで正確に画いたような円形と直線、それを交叉し切断する。

 連れの者が星座ではないか云う「現在、ギリシャ神話を基にして星座が作られ夜の空を区切る。それが当然の様に考えら受け止めている。然しそれ以前の人々はカシオペアもオリオンも知らない。その人々が夜空の星の輝きを追って、自分達の星座を画いたのが直弧文であり、或いは装飾古墳の幾何学模様ではないか」と星座という発想は一顧する価値はありそうだ。

 

 三日目、阿蘇。肥後一の宮阿蘇神社と国造神社を廻る。

 阿蘇神社の祭神健磐竜命は、神武の孫となっていて十二宮迄ある祭神は皆神武の末裔とされている。「御主神健磐竜命は一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当たられた」とし「皇室につぐ家柄」を誇っている。もっと始源の伝承があろうと考えられるが一切抹消して、唯豪壮な神殿が目につく。

 国造神社。祭神速瓶玉(はやみかたま)命であり、阿蘇神社祭神の御子神である。ここも天皇家と結びついて、阿蘇神社の下風に甘んじているようだ。

 境内末社には子細のありそうなものがある。本殿を取り巻く石垣がある。その中に本殿に向かって石畳をはさんで、向かって右側には鯰宮(祭神大鯰の霊)左側が門守社(古来より「蛇の宮」と呼ばれていた)がある。

 鯰と蛇に守護されている神が、果たして神武の子孫であろうか。景行紀、肥後風土記逸文にある「阿蘇都彦・阿蘇都媛」は完全に消滅されている。跡形もない。

 境内にある上・下御倉床古墳は円墳で隊内、隊道、外陣、内陣が完全に残されている。誰を葬ったのか不明だ。或いは鯰と蛇に守られている人かと想像される。

その円墳の頂上に登る。木が繁茂して視界は遮られている、見通しは悪いが、当時は中岳等の中央火口群の山裾迄の原野一望でき、人馬の往来もはっきり知れたであろう。

 阿蘇神社より国造神社の方が古いと考えられ、伝承を堀りかえせば正しい由緒が発見できるのではと思われた。

 

 阿蘇の火口は残念ながら噴煙の関係で登れなかった。

 阿蘇のカルデラは海抜五百米程である。その中に立って考えた。外輪山は南北二十四キロ、東西十八キロである。この大陥没地帯が出来る噴火以前の山は、どれ程の高さだったろう。

 中岳が千五百米。とすると富士山に劣らぬ高さだったのではないか。その巨大な山の土砂、岩石は、幾度か繰り返された噴火で何処へ吹き飛ばされたのか。云い表す事のできない、想像する事のできない量の土砂が、想像できないエネルギーによって日本列島に散って、その結果現在の地形ができあがって行ったと云えるのではないか。

 この阿蘇山の活動、自然の力の大きさを考えると、装飾古墳、古蹟も吹き飛んで行ってしまいそうに感じた。

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事務局だより

 奈良の唐招題寺の平成大修理で本堂須弥壇下に古い須弥壇と思われるものが三ケ発見された。内一ケは調査の結果奈良時代のものと分かった。

  元々唐招題寺の本尊は三尊像ですが一般的本尊の両脇に従仏があるという形式では無く三尊が独立した立派な仏像なんです。

 もし後から須弥壇を造り直したり、増設したりしたら何の為でしょう、調査の過程にて全体ではなく一部だそうです。

 そこで考えられるのは本尊安置の追加の為に須弥壇を増設したのではないのかと考えますと、九州には廃寺が多く、廃寺跡に観音堂がだけがあったり全く痕跡を残していない廃寺もあります、長い歴史の中、戦乱や火災にて焼失したこともあるでしょうが堂宇百塔などと語られた寺が痕跡すら残っていない。

 本来あった本尊はどうしたのでしょうか、七大寺日記に本尊のことの記載があり短期間にて本尊を作成安置されたとある、まさに分解して運んで作成安置した為に一般には通常の建立に比べて非常に短期間に建立されたと思います。

  鑑真の来日の意味は何かと自問自答すれば従来の仏教(九州王朝の国家宗教としての)を新たな考えと権威付けの為に鑑真は来日を要請されました、鑑真は時の為政者の考えなど考える余地無く、自らの信ずる仏教の姿を追い求めたが、それは為政者の考えとは最終的に違い、戒律の施行と大和国家宗教としての建国の道具になり下がった仏教と為政者に利用されたと分かった時、深い絶望の果てに終わったのではないでしょうか。

 

 今号には古田武彦氏のご了解を頂いて、多元的古代研究会・関東様、古田史学の会様のご協力にて古田武彦氏の『言素論』を始め栃木県藤岡町の『磯城宮』の調査報告等や日本思想史学会でのレジメ等を掲載できました。ご報告すると共にご便宜頂きました両会にお礼申し上げます。

 

古田武彦と古代史を研究する会では会員の募集を随時しております、古代史に興味のあるご友人がおられましたら当会への入会をお奨め下さい。

 

案内とお知らせ

 

中国からみた日本の古代」 発刊

           沈 仁安著 

藤田友治・藤田美代子訳 

古田武彦解説 ミネルヴァ書房刊行  

電話:075−581−0296

 

研究旅行のご案内

 

                     伊豆諸島の式内社と縄文遺跡を訪ねる旅

(テーマ:縄文遺跡と式内社と黒曜石露頭見学)

 

期間:平成16年3月5日(金)―3月7日(日)

集合:竹芝桟橋 午前 720

 

見学予定:(神津島)神津島郷土資料館、物忌奈神社、阿波命神社、砂糠崎/黒曜石露頭見学  (大島)波浮比当ス神社、春日神社、大宮神社、下高洞遺跡、大島郷土資料館、鉄砲場・岩陰遺跡、波治加麻神社、大島町火山博物館、貝の博物館

 

神津島の見学は路線バス、大島は貸切バス使用

費用:45,000円  民宿に分宿 (個室希望1泊1500円増)

 

共催:多元的古代研究会・関東

  古田武彦と古代史を研究する会

 

旅行企画手配:(株)トラベルロード 

電話:042−599−2051 Fax:042−599−2054

申込は各会事務局又はトラベルロード迄お願いします。(担当 高木)

 

本年前半の研究旅行案(予告)

1、出雲・隠岐見聞 

2、珍島海割れとソウル、扶余、木浦、光州、公州史跡巡り  

 

定例研究会(改新の詔を読む会

・次回:229日(日)堀留

 

編集後記           高柴 昭

古田武彦氏が切り開かれた所謂多元史観によって封印が次々に解かれ、最早、記紀が示す古代史の姿は改変されたものである、ということを疑うことは難しいと思います。その後も、多くの研究者により新しい発見等が重ねられ、通説の矛盾点が数多く明かになりつつあります。誠に喜ばしいことでありますと同時に、一歩を進め、今や古代史を修復することに多くの挑戦がなされています。

この点に関しては、文献、神社等の伝承、考古学的出土物、遺跡・遺構、等の科学的研究から古代史を修復するための多くの仮説が出てくることは歓迎されることであり、その発表の場は確保されなければなりません。同時に、出された仮説に対して、質問、意見、反論等が行われ、それらに対応していくことにより、仮説に対する検証作業が進み定説に近づいて行くものと考えます。その意味で、仮説を発表した方はそれに対する質問・反論等が出た場合には、たとえ時間が掛っても応えて行くことが求められていると思います。その際、互いの人格が尊重されるべきであることは言うまでもありません。

当ニュースは、研究を深化させ、それらの発表の場として、更には意見交換の場ともなるよう今後とも務めて行きたいと思います。

 

 福永氏には解答の続きを期待しておりましたが、残念ながら今回は原稿を頂けませんでした。会員の皆様に対するけじめをつけた上で冷静に議論の場に復帰されることを期待したいと思います。

 

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