T o k y o 古 田 会 N e w s

 

 −古田武彦と古代史を研究する会− 94号 2004年1月

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代  表:藤沢 徹

 

編集発行:事務局 〒167-0051  東京都杉並区荻窪1-4-15  高木 博 

TEL/FAX 03-3398-3008

 

郵便振替口座 00110−1−93080   

年会費 3千円

口座名義 古田武彦と古代史を研究する会

 

 

 

目 次

新年のご挨拶   会長  藤沢 徹

閑中月記          古田 武彦

コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜   茅ヶ崎市 大越 邦生

三輪山伝説        梨田 鏡

伊勢神宮の重層性   室伏 志畔

言 素 論 ―ロシアからの報告―  古田 武彦

稲荷山鉄剣銘文の新展開について ―「関東磯城宮」拓出と全面調査―  古田  武彦

                                           大前神社碑の調査研究   (安藤)

                                           相模の古社       田遠 清和

「弥生時代の開始年代」 国立歴史民族博物館講演録 その3

弥生時代研究の新展望 春成秀爾  要約 高柴 昭

肥後・阿蘇の古蹟を尋ねて  平田 博義

事務局だより       高木 博

案内とお知らせ

新古代学第7集の発刊

伊豆諸島の式内社と縄文遺跡を訪ねる旅

中国からみた日本の古代 発刊

・ 本年前半の研究旅行案(予告)

・ 定例会議・勉強会

編集後記    高柴 昭

 

 

新年のご挨拶 古田武彦と古代史を研究する会     会長  藤沢 徹

 

 明けましておめでとうございます。よいお年を迎えられたこととお慶び申し上げます。

 会員みなさまのご支持のお陰で当会は昭和五七年の発足以来二十二周年を迎えることができました。有難うございます。

 昨年二月には米国メリーランド州スミソニアン・ミュージアム・サポート・センターにおいて、古田武彦先生とスミソニアン博物館のメガース博士(エバンズ夫人)のシンポジュウムを主催することができました。日本の古代史学者が誰もできない快挙でした。九州の縄文人が太平洋を渡った事実がはっきりしました。(古田会ニュース90号参照)

 六月豊島区立大塚ホール、八月富士市民センター、藤沢市労働会館で古田先生の講演会を主催。

 九月は友好団体と共催で「古田武彦と行くウラジオストク・ハバロフスクの旅」を実施。先生は日露極東シンポジュウムで研究発表を行いました。(古田会ニュース93号参照)

 東京古田会では会員主導の勉強の旅を実施しました。十月は本棒さんによる「60年振りの大戸神社の神幸祭を見に行く旅」、十一月は田遠さんによる「相模の古社巡り」でした。

 会としては一月「大善寺玉垂宮の鬼夜を見る旅」、四月「天津司の舞と山梨博物館の旅」、六月「岩宿遺跡とかみつけの里博物館の旅」、七月「慶州/伽耶史跡巡りの旅」、十二月「肥後見聞録(装飾古墳、トンカラリン遺跡と阿蘇神社)」を主催しました。それぞれ有意義でした。

 さらに、毎月第四土曜日には「改新の詔を読む会」で会員の研究発表の後、日本書紀持統紀を読みました。このように会の勉強会の実績は着々と進んでまいりました。

 去年五月には日本考古学会を揺るがす事件が起きました。佐倉の国立歴史民族博物館の春成秀爾教授、今村峯雄教授、藤尾真一郎教授が新しい放射能測定の結果、弥生時代の開始が五百年遡り、BC1千年の殷末周初にあたると発表したのです。

 衝撃を受けたのは古代史学会も同じでした。しかし、既得権益構造を死守したい人々は、鉄の渡来も遡る筈がないと言う口実で懸命に抵抗しています。

 なにしろ古田先生に論破された好大王碑の改ざん問題を未だ主張しているRさんもいるくらいです。

 まだまだ日本には反古田、古田無視、軽視する勢力が学会、ジャーナリズム、古代史研究者を占めています。私たちは友好団体と協力を密にして、古田先生の創造的歴史学を守り、微力なりとも研究などで貢献して行きたいと思っています。

 先生は今キリスト教の聖書研究に取り組んでいます。1945年エジプトのナグ・ハマディで発見された

新約外典の「トマス福音書」にある「イエスが女を男にして昇天させる」記事と大乗仏典の類似表現との関連です。今年は又新しい成果にびっくりさせられるでしょう。

 ご健康も順調に回復されているとのことでなによりと存じます。しかし、当分ご静養に務められるとのことで、講演会などお休みされるとのことです。ご了承お願いいたします。

 去年の会員名簿流用事件では、会員のみなさまにたいへんご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。二度とこのようなことが起きないよう一同心を引き締めて行く所存です。

 それにつけても、古田会ニュースには今まで書いたことのない方にどしどし投稿していただきたいのです。会は会員から成り立っているのです。

 沢山いい内容を持っているAさん、Kさんお願いします。

 財政の赤字もみなさまの絶大なご協力のお陰でなんとか解消することができました。これからも会員の増加も含め会の活動内容を拡充する一方、経費節減に努力して行きたいと存じます。ところで、本年度の会費納入をお願いする時期となりました。よろしくお願い申し上げます。

 

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閑中月記    第二七回  国家の選挙     古田武彦

                             

     一

 嵐山の紅葉も、もう過ぎた。今年は天候の不順で、今を盛りの日々がなかった。いや、

少なかったようである。

 おくれながらの、その山々。私の住む、京の西山、長岡丘陵から見れば、東端に当たる一帯。この細道を散策しながら、私は考えにふけっていた。

 他(ひと)は、年寄りの冷や水と嘲笑(わら)うかもしれないけれど、一老人からの率直な問いは、場合によっては「スフィンクスの問い」にも似たものであるかもしれぬ。思えば、あのソクラテスも、私より約六才若い、ヨーロッパ大陸の東隅の「一老人」にすぎなかったのであるから。

 

     二

 先日(十一月九日)、選挙があった。わが国衆議院議員の選挙である。「マニフェスト選挙」などと言われ、各党が日本国民に対する「公約」を競った。結果は、野党の民主党の躍進と報ぜられたけれど、同時に自民党、公明党などの与党が「絶対多数」を保持するという、いわば予想通りの結果だった。社民党や、共産党は惨敗したという。

 しかし私には、そのような「結果」に関心はない。十分な関心が持てないのである。なぜなら、そこには「選択」が存在しないからである。それは、何の「選択」か。無論、「歴史の選択」だ。日本国家の成立、という歴史に関する選択である。

 これに対し、「選挙は現代の政治と政策のあり方を問うためのものなのだ。歴史など、関係がない。まして古代史など、選択の外だ。」そのように反論する人々があろう。そのような反論の声は、百も承知だ。何一つ、錯覚はない。だが、本当にそうだろうか。

 では、政治とは何だろう。それは国家にかかわるものではないか。この問いに対しては、誰人も「イエス」と答える他ないのではあるまいか。私にはそう思われる。

 では次に、国家とは何だろう。それは歴史とは無縁のものだろうか。昨日、今日できたばかりの政治組織、それを国家と呼ぶのだろうか。反体制そのもののような革命激発の落とし子ででもない限り、「歴史と無縁の国家」などというものはありえないのではあるまいか。

 否、どんな落し子であっても、それを「歴史と無縁」と見るのは、皮相の観察、表面の判断に過ぎない。そのような「激発」を呼んだ原因が、その「歴史」に蔵されていること、当然だ。その上、深く観察すれば、その落とし子そのものにも、「深刻な歴史の刻印」が十二分に印刻されているはずだ。なぜなら「国家」や「反国家」の、そのすべてが、限りなく歴史的存在であること、明白だからである。私にはそう思われる。

 

     三

 私の言いたいのは、こうだ。国家は、みずからの歴史によって、その存在意義をもつ。

「歴史抜きの国家」など、単なる行政組織にすぎない。国民の「忠誠」の対象などにはなりえない。まして「いのち」を託すべき存在などとは、なりえないこと、当然である。             

 選挙がすんで、早速、痛ましい事件が報ぜられた。イラクにおける、年若き二人の外交官の死である。外交官という、国の「」に殉じた死であること、疑いがない。

 今後、さらに、自衛隊のイラク派遣ともなれば、当方の「望む」と「望まざる」とにかかわらず、このような「国命に殉ずる死」は一人、二人、三人と、次々その数を増してゆくことであろう。そのような「」を発する国とは、何か。果たして「歴史抜きの行政組織」なのか。それでは「命を捧ぐる」に足りぬ。そう思うのは、私だけだろうか。やはり、国家とは、単なる「行政組織」以上のもの、「歴史を背景に持つ」厳然たる存在でなければならない。私にはそう思われるのである。

 

     四

 明治維新以降の「歴史」、それは偽りの歴史、偽瞞の歴史である。すなわち、明治以降の国家は、虚瞞の国家であった。――――

不幸ながら、私にはそのように断ずる他はないのである。

なぜなら、明治維新における「錦の御旗」の中心におかれたもの、それは「天皇制」だった。周知のところだ。

 その「天皇制」を立証するために、「国史学」が講ぜられた。東京帝国大学の教授となった栗田寛は、「水戸学」の伝統に立った。そして「反天皇」や「非天皇」の要因はすべて「歴史」の中から排除されたのである。

 かえりみれば、江戸時代には、人々の「認識」は、まだ健全だった。たとえば新井白石、あの著名の幕府の政治家にして歴史家。彼は水戸藩内の彰考館に対して「問い合わせ」の手紙を出しているという。それはいわゆる「九州年号」に関する問い合わせだった。無論、いわゆる「水戸学」には、これを受け容(い)れる度量はない。「天皇中心の国史学」が、その生命にして眼目だったからである。

 白石はもちろん、それを知っていた。知った上で、あえて問い合わせの書簡を寄せた。

「貴家の、打ち建てている歴史学では、理解しがたい問題があるのではないか。」との問いであろう。白石は、九州の中に「年号を持つ」べき王権、ハッキリ言えば天皇家に先在する中心王朝の存在を予感していたのではあるまいか。それでなければ、わざわざ逆の歴史観の持ち主であることの自明な、彰考館に対して、このような書簡を送りはしないであろう。

 しかし、彰考館はその「問い」を無視したようである。「白石書簡」(案文か)

は残されているけれど、彰考館側からの「回答書簡」は残されていない。

 そして明治維新のあと、水戸学の「申し子」たる栗田寛は、「天皇家中心史観」の国史を以って東京帝国大学の中心柱とした。そして明治初期には、なお保持されていた、「九州年号」関係の記事を全く抹殺してしまったのである。

 右の新井白石の書簡について、わたしは古賀達也さん(古田史学の会)の研究によってこれを教えていただいた。

 有名な、白石の「邪馬台国、九州」説、すなわち「筑後山門」説は、右のような白石の歴史思惟の潮流の上にあったのだ。これに対し、現代の研究史の学者たちは、「白石の思惟の全体」を切り捨て、「筑後山門」という一点のみを「断章取義」して利用してきたにすぎなかったのである。

 わたしは嵐山の枯葉と紅葉の道を辿りながら、深い歎息を吐かざるをえなかった。

 

     五

 戦争中、多くの日本人は死んでいった。兵士は戦場で。一般人は町の中で。それらの犠牲は、思い出すにもいたましい。わたしの少年時代、そして青年時代である。

 けれどもその人々の「死」を悼み、無駄にせぬとは、決して「敗戦前の国史大系」を美化することではない。天皇家の祖先が天からこの地上へ降りて来られた、などという、荒唐無稽の歴史を「再認」することではない。当然のことだ。

 同じく、外交官の二人の「死」や今後の自衛隊の(不幸なる)「死」を無駄にせぬために、と称して、「明治維新」以降、そして「敗戦後」も生き続けている「虚妄の歴史」を守りつづけてはならない。それは逆に、その人々の「死」に対する侮辱である。

 「歴史」を正しい歴史に返す。「象徴」などというアメリカ原産の「偽妄の言葉」によって飾り立てず、真実の歴史、多元の真実の歴史を、国家の認識として打ち建てる。

これ以外の道はない。

 言いかえれば、「七〇一」以前は九州王朝。筑紫(福岡県)を中心とする王朝だ。白村江の戦以後、唐の「占領」軍が筑紫にくりかえし、来訪した。大和にあった勢力(近畿天皇家)はこれに協力し、そのため「七〇一」以後、晴れて「中心の権力者」となった。これが歴史の実像である。「君が代」も、その中で、その「九州王朝」の中で生まれた。明治以後、明治維新の新国家がこれを転用した。ハッキリ言えば、「盗用」したのであった。これが歴史の真相である。

 

     六

 現代の選挙は「オール与党」の選挙である。「天皇中心の国史」という、栗田寛によって偽置された「水戸学」風味の偽りの歴史の支持者たちの寄り集りである。どの政党を見ても、他の選択肢は全くない。全く、影すらないのである。

 そのような「コップの中の選挙」、それをあたかも民主主義であるかのように、人は「呼号」しているだけなのである。 そのような「偽りの歴史」と「偽りの国家」の下で、「国の命」に殉ずる若者のいのちは不幸なるかな。真にいたむべきは、その一事である。

 「国家はアヘンである。」わたしはそうつぶやきつつ、嵐山のふもとの、トップリと暮れゆく空の下で、ひとり帰途についた。夜である。

 

――二〇〇三、十二月九日――――

 

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 伊勢神宮の重層性   室伏志畔

 

 伊勢神宮に対する論者の切り口は様々で、この国の文化の重層性を改めて感じないわけにはいかない。前号で古田武彦は伊勢神宮の内宮と外宮に注目し、元伊勢と呼ばれる丹後半島の付け根にある籠神社に触れ、また「伊勢神宮の成立」でも詳述している。そこで籠神社に祭祀される「等由良比売」と豊受大神の二神に注目し、その奥宮に陰陽石を見て、伊勢の二見ケ浦にある一対の日の出岩を踏まえ、内宮と外宮の成立は陰陽信仰に基づくとし、その起源を旧石器・縄文時代に求めた。そして現在の内宮の天照大神の祭祀は垂仁天皇下の祭祀形態の変容としている。おそらくそれは伊勢信仰の古層に届く視点であろう。

またそこで古田武彦は、大阪での「続日本紀研究会」での〃つかみかからん〃ばかりのその成立論争に触れ、戦後史学の立場から直木孝次郎はその成立を天武天皇の時代とし、田中卓は『日本書紀』の垂仁紀の遷宮説を譲らなかったという話に触れる。

 ところで私の伊勢神宮論は、『伊勢神宮の向こう側』(三一書房)に詳しいが、その成立を天皇制の成立とパラレルとし、持統朝における天武体制の変質を通して成立したとするものであった。これは持統天皇の伊勢行幸をもって伊勢神宮は成立したとするもので、その創出に対し大三輪朝臣高市麻呂が冠を投げうって二度も諌言するという異例の事態は、これまで物部氏の掌中にあった国家祭祀権を中臣氏のものとするため、三輪信仰からの皇祖神の独立が伊勢神宮の成立であったとするものであった。

 しかしこれを書いた動機は、古田武彦が倭国から日本国への八世紀初頭の転換を説くなら、その共同幻想の改定についても云うべきなのに、倭国と日本国の主神を共に天照大神と同値しているのを不審とするところにあった。たとえ日本国が倭国の傍流であったとしても、いかなる国家も新たな精神的内容と基礎をもつことなくして成立することはありえないからである。この立論を古田史学の鬼子と呼ぶ人があった。

それゆえ私の伊勢神宮論は伊勢に向かわずに九州へ向かう背理を成し、私は筑後の高良大社が、現地ではタカガミ(高神)さんと呼ばれることから、倭国の建国者・天孫・邇邇芸命は、九州では高神・高皇産霊命流れとするのを、記紀は天照大神系譜にねじったとするほかなかった。

さらに『古事記』が邇邇芸命に冠した、通説が美称とする「天邇岐志国邇岐志」について、私は天を天領域、邇は美称、岐を壱岐、志を地名と考え、通説の「アマニキシ、クニニキシ」の訓みを「天のニキシの国のニキシ」とし、彼の本貫を壱岐の志とした。果たして壱岐の地図を広げると、一大国の跡地である原の辻遺跡から二、三キロのところに志原を見出した。原は原っぱの意味ではなく志の中心を意味すると思われた。つまり邇邇芸命は一大国のサラブレッドであったのだ。その壱岐では月読命が高神と共に、かつては壱岐の箱崎の地に祭祀されていたが、おそらく廃神毀社にあって、現在のように高御祖神社と月読神社に分祀されるに至ったらしい事情も読めてきた。もはや私は倭国主神を日神の天照大神ではなく、月神の月読命とするほかなかった。

 伊勢には皇大神宮を中心に二百数社の神社が密集するが、その中で内宮の四摂社と外宮の十摂社は格が高いとされているが、そのいずれにも月読命が祭祀され、皇大神宮と同様に二〇年毎に式年遷宮が行われている。さらに皇室は不慮の事態が起こるたびに、月読宮に使者を立て奉幣を行っていることを知った。このことは天照大神を中心とする現在の神統譜は、月読命を中心とする倭国の神統譜の頂点を、天照大神に入れ替えて成立したことを語り、倭国から日本国への転換に先立ち神統譜の整備がはかられていたのだ。

その後私は、大和朝廷の開朝を、白村江の敗戦後に唐の占領下に入った倭国を見切り、近江に逃げた天智政権を討った壬申の乱後の天武の飛鳥浄御原宮入りに始まるとし、大和朝廷の前身を「もうひとつの倭国」である豊前に求めた。とするとき崇神天皇の三輪信仰への転換は三諸山である香春岳信仰とするほかなかった。これは記紀の語る神武東行が、その筑豊の北に開いた遠賀川流域に、今も濃厚に名を留める物部系地名の氾濫を見ることによっても裏付けられよう。そして大芝英雄は筑豊の湿地帯にあった伊勢信仰の渡遇宮の近畿への東遷を語っているのを私は知った。

 

 とするとき、垂仁天皇下の点々とした倭姫命の巡行は何を意味するのであろうか。私はこれを、大和の三輪山に昇る太陽信仰であった春日信仰を主宰した大倭の、大氏一族の伝承を垂仁天皇の治世に取り込み造作したものと今は考えている。というのは春分の日の日の出線上に様々な神社が並ぶが、大倭の倭姫命の巡行出発地と思われる桧原神社がその線上にあることを認めるなら、その東端に伊勢斎宮の滝原宮を見るほかない。つまり現在の伊勢神宮は伊勢の陰陽信仰の上に、春日信仰を被せ、倭国の神統譜を日神・天照大神を中心に書き換え、中臣氏差配の下に立ち上げたとするしかない。

 奈良にある藤原氏の総社である春日大社を、私は春日信仰の中心と思っていたが。実はそれは、大和飛鳥に今も多く散在する物部系春日神社の総社の簒奪の上に創出を見たのである。三輪山を真東に仰ぐ大倭の中心線上に、春日造の多神社を見ることができるが、それ地は元、春日宮と呼ばれたと『多神宮注進状』にあり、今、太安麻侶に始まる五十一代目の多忠記が宮司を務めるが、その御神体は七十二体の物言わぬ木像である。私はそれを天武崩御直後に始まった大津皇子の変の犠牲者七十二人の鎮魂社として今はあると思っている。というのは大津皇子の変は、天武の外戚であった物部氏の中心にあった大氏を排する近江朝残臣によるクーデターで、ここに持統を繋ぎとして天智を戴く新たな天皇制の創出があったので、その完成こそ七二〇年の『日本書紀』の成立であった。

この陰で天武系藤氏と物部系大氏の血統の根絶やしが行われたが、それはわずかに万葉集に、藤波や玉藻刈りの歌としてその痕跡を留めた。それは大氏の血統が出雲王朝の末裔であったなら、天武系藤氏は天孫に始まる倭国本朝の幻想的継承者の末裔であったことに関わる。この出雲王朝と倭国本朝の根絶やし上に、「あおによし奈良の都は咲く花の薫うがごとく今盛りなり」と歌われたが、この花はこれに続く歌が藤であることを見るなら、この藤は天武系の藤氏の姓を盗んで、今やその藤氏の中心に居座った藤原氏の繁栄を歌うものであったのはいうをまたない。ここに皇室は姓を失い、また様々な借り物としての伊勢皇大神宮の成立は、平安時代に至ると、天皇の即位報告をする宇佐神宮が豊前からそそり立つのは、そこが大和朝廷の前身地である以上当然であった。

     (H一五.一二.五)

 

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以下は古田武彦氏及び多元的古代研究会・関東様の了解を頂き転載するものです。

 

    言 素 論 ―ロシアからの報告―    古田武彦

 

      一

 「旅行と生命とどっちが大事ですか。」

 医者はわたしに聞いた。ロシア旅行の一週間前、八月の下旬だった。京都の郊外、桂の総合病院である。

 顔面を突如襲ったけいれんに対し、緊急入院がすすめられた。当然、九月二日からのウラジオストック行きは断念すべし、との宣告である。点滴生活だ。

 わたしはおことわりした。すでに海外旅行の出発は数日先に迫っている。それを止めることはできない。その旨を告げたわたしに対し、右が医者の詰問だったのである。それに対してわたしは静かに答えた。

「もちろん、旅行です。わたしにとっては生命がけの旅ですから。」

 

      二

 航路は順調だった。二十名の方々と共に、関西空港から飛び立った。他の航路との関係で、やや発進時間が遅れたものの、無事二時間の後、目指すウラジオストクへ着いた。あっけない・速さ・だった。今年の三月以来、ホーム・ステイとしての滞在をふくむ、さまざまの・手続き・問題などで腐心してきただけに、こんなにつつがなく、現地に到着できたのが信じられない思いだった。

 ウラジオストク・ガヴァニホテルの一夜をすごした翌朝、日露極東シンポジウムの会場へ向かった。九月三日、会場は研究所(アカデミー)の一室である。目下、改装中とのことで手ぜまだったけれど、部屋いっぱいの人々に囲まれた中で、日露双方のあいさつのあと、第一発表者としてのわたしの研究発表となった。

 今回の発表は、いわば・気楽・だった。なぜなら、すでに六月中、発表内容をワープロ化して世話役の藤本和貴夫さんのもとへとどけてあった。先方でロシア語訳してもらうためである。

 わたしは当日、その発表内容を、部分々々に分けて、ハッキリと読めばいい。そういう役割だった。通訳のクルラーポフ・ワレリー助教授(極東国立総合大学)も、すでにそのロシア語訳のノートを手もとにおき、それを各部分にわけて、読んでくださるのである。聞く人が、ロシア人であれ、日本人であれ、発表内容は明白である。もちろん、わたしの方も、ワープロ化したものを、出席者全員におくばりしてあった。

だから、研究発表といっても、一種「儀礼」化した観は否めなかったけれど、それだけに、わたしの発表の内容と、わたしの研究の意図は、よくロシア側に伝わった。それは今回のわたしにとって、「不可欠の狙い」だった。それが達成されたのである。

(編集部注:この発表内容は、前号に収載。)

 

      三

 三週間の滞在中、最初の第一週は集団の皆さんと一緒だった。「古田武彦と行くウラジオストク、ハバロフスクの旅」の一行である(トラベルロード)。

 わたしは九月三日(第二日)と九月四日(第三日)の二日間シンポジウムに出席した。次いで、九月五日(第四日)、アルセニエフ郷土誌博物館と極東大学付属博物館をたずねたあと、ウラジオストク航空五〇三便でハバロフスクへ向かった。ハバロフスクのヴェルサーリホテルに着いたのは、深夜だった。

 九月六日(第五日)には極東美術館と郷土誌博物館をたずねたあと、九月七日(第六日)には期待のナナイ族の拠点、シカチ・アリャンに向かった。

 有名な、アムール河畔(黒竜江)の古代絵の地へ行く。折しも水かさ多く、その水位に没している個所が多かったけれども、二個所でそれを見た。案内して下さった方(現地の学校の先生)は「運がいいですよ。」と言って下さった。

 この岩絵に関しても、これは後日、大きな認識の基礎、その手がかりとなったのである(後述)。

 

      四

 ナナイ族の踊りを見た。彼等の集会場に「三つの太陽」の幕が張られていた。その前での踊りは、絶妙の印象を与えられた。

 わたしはかつて、大阪の国立民族学博物館の専門家による国際シンポジウムにおいて、この「三つの太陽」の説話を聞いた。荻原真子さんからだった。今回の説話の要旨は次のようだ(別述)。

 昔、太陽が三つあった。男と女が小舎に住んでいた。女が「暑い。」と言った。男は外に出て、石を拾って投げ、一つの太陽を殺した。女は、まだ「暑い。」と訴えた。男は再び外に出た。もう一回、石を拾って投げ、もう一つの太陽を殺した。

 太陽は一つとなり、大地は住みやすくなった。

 わたしは感動した。これ以上ない、簡潔さ。そして力強さである。

 「これこそ、神話だ。」と考えたが、実はそうではない。この説話には「神」がいないのである。この説話のもつ、ポイントは次の点だ。

 第一、この説話には「弓矢」が出現しない。通例の「射日神話」のような「弓矢」はいまだ出現していないのである。すなわち、「弓矢以前」に成立した説話なのである。

 第二、右にのべたように、この説話には「神」が出現しない。通例の「射日神話」では、弓矢を射て太陽を落とすのは、神、或は神人の役割である。しかし、ここには「神」も「神人」も出現しない。すなわち「神や神人、以前」の説話である。人間の世界に「神」や「神人」という概念の生まれる時期、それ以前に成立した説話なのである。

 第三、この説話では、「女」が発意し、まず意志を言う。訴えるのである。それをうけて「男」が行動する。このスタイルは古い。

 わたしが日本の「国生み神話」で立証したように、「女、先唱」

(「あなにゑや、えをとこを。」〈日本書紀、第四段、第十・一書〉)が古い型式だ。「旧石器・縄文神話」なのである。

 古事記や日本書紀本文(及び第一・一書等)のような、「女、先唱」否定、そして「男、先唱」主義の神話は、新しい。すなわち「弥生神話」なのである。

 以上のような分析から見れば、この「三つの太陽」神話は、まさに「縄文神話」、否、さらに古い「旧石器神話」の様相を蔵しているのである。

 わたしの「神話分析」にとって、重要な基石となった、あの「三つの太陽」説話は、ここシカチ・アリャンの地の説話なのであった。

 その現地に来て、この「三つの太陽」の幕を前にして、ウリチ族と・隣・する、このナナイ族の踊りを見せられたのであった。

 ここには、言いようもなく、古い文明の痕跡がある。わたしはそう考えた。

 

      五

 新たな発見があった。

 踊りが終わって、質問が集中された。その中で、一つの印象に残ったテーマをのべよう。

 シャーマン風の踊りについて、「シャーマン」のことをナナイ語では何と言うか、と聞くと、

 「サマ」

 或は

 「サマン」

とのこと。人によって、やや発音が異なる。語尾の「ン」音の聞こえる場合とない場合がある。

 わたしには、思い当たる日本語があった。「神さま」である。通例の日本語では、この言葉は、神棚の上にある、「姿も形もなき」存在である。

 けれども、津軽(青森県)ではちがった。「神さま」とは、人間だ。いうなれば、「神さま」と呼ばれる・職業・の人がいるのである。病気や困りごとなど、庶民が「問題」をかかえていたら、この「神さま」をたずねて・教え・を受けるのである。そのとき、「神さま」は、「祈り」をささげているうちに、やがてシャーマン風の・憑き物・状態に入る。そのあと、さまざまの「お告げ」を与えるのである。

 沖縄にも「やぶ」と呼ばれる・役割・の人があり、同じく、庶民の信仰をあつめている存在である。

 恐山(おそれさん)では「巫女(いたこ)」が有名であるが、「神さま」(男性)もまた、土地の人々には、なくてはならぬ存在なのである。 わたしは思う。この「神さま」の「さま」は、ナナイ語の「サマ」(或は「サマン」)と同じ言葉なのではあるまいか、と。なぜなら

 第一、地域的に、津軽とシカチ・アリャン(黒竜江中流域)は、同じくアジアの東北部に位置し、大局的に見れば「近隣」の地であること。(黒竜江の河口は、樺太の対岸であり、日本海にそそぐ。)

 第二、両者とも「シャーマン」の風俗・信仰に根ざしていること。

 第三、発音が「共通」もしくは「類似」していること。

 右によって、両者が単なる「偶然の一致」や「偶然の類似」とは思われないからである。…わたしは、そう考えた。

 

      六

 こわい問題を眼前にした。

 わたしたちが手紙を書くとき、「〜様」とあて名を書く。疑わずに書く。だが、あの「さま」とは、何だろう。

 同じような用法の「〜殿(どの)」の場合、「との」は・御殿(ごてん)・であるから、「(わたしとちがって)御殿に住んでいらっしゃる方(かた)」の意であろう。

 とすれば、「〜様(さま)」も、「(わたしとちがって)シャーマンとしての力をお持ちの方(かた)」の意ではあるまいか。

 もちろん、これは今の段階では・片々たる一仮説・にすぎず、断言や断案とすべきものではない。しかし、わたしの心裡に対しては、忘れえぬ印象となった。

この「さま」問題は、今回のロシア訪問の第六日目だった。わたしの三週間の滞在予定の、未だ三分の一にも足らぬときだった。けれども、わたしの今回の訪問にとって、思わぬ「さいさき」よき一経験となったのであった。

 

 〈後跋―第一回目〉

 書きはじめてみると、・書き残し・たテーマの多いのに気づく。たとえば、日露極東シンポジウムの(ウラジオストクにおける)二日間の経験など、書きしるしたいことは少なくない。けれども、わたしが追い求めて海を渡ってウラジオストクを訪ねた、その主要なテーマ、「古代日本とロシア極東地方との(言語を中心とする)交流の探究」という問題に主点をおきつつ、先ず書きすすめてみたい。

 もちろん、今回の訪問で、探究目的が決着したわけではないけれど、当初・望み・としたところを、はるかに上廻る収穫の数々を得たのであった。各会の方々、そして日本や現地でお世話いただいた多くの人々のおかげである。

 また日本に帰ってきてあと(十月一日)、京都のホテル(東急)で、五時間にわたって、わたしの「言語探究」の経緯をお聞き下さった小山敦子さんに感謝したい。小山さんは、東京大学国文学科を第一回女子学生として卒業(わたしと「同期」か。)、以後、アメリカの各大学の言語学教授を歴任された。源氏物語に対し、最新の言語学上の手法を駆使して、ヨーロッパ・アメリカの各学会でそれらの研究成果を次々に報告してこられた方である。世界の言語学界の動向について幾多教えていただいた。今回のわたしの研究方向について、国際的な言語学上の視野に立ち、深い理解とはげましを与えられたのであった。

 ―二〇〇三、十月二十一日―

 

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以下は古田武彦氏及び“古田史学の会”、“多元的古代研究会・関東”各会様の了解を頂き転載するものです。

 

二〇〇三年度 日本思想史学会 報告 レジメ

稲荷山鉄剣銘文の新展開について ―「関東磯城宮」拓出と全面調査―      古田武彦

 

一、                             埼玉稲荷山古墳の銘文ある鉄剣は、当古墳の副室から出土した。然るに、肝心の主室の被葬者には全くノータッチのままで、問題の副室の被葬者(「乎獲居臣」)は、はるかに遠い大和の「中心権力者」(「獲加多支鹵大王」)との「関係」のみを誇示(「虚示」)したとされている。これは冷静に見て不自然ではないか。

 

二、                             右の読解が(岸俊男、大野晋氏等によって)なされたとき、実は当古墳の内部が右のような「主室、副室」の関係の、二(あるいは三)墓室のあることは、(当読解者等には)全く認識されていなかった。これは事実である。そのような状態の中での読解が今に至るまで、依然二十五年間ひきつづき、「定説」のように位置づけられ、教科書にも採用されている。これは不合理ではないか。

 

 

三、                             近年、年輪年代測定や14C放射性炭素年代測定によって、従来の「考古学編年」が少なくとも「約一〇〇年前後」、さかのぼって「訂正」せられねばならぬ状況となっている。(約七〜八割)(1)。従って二十五年前(一九七八)、この鉄剣銘文の「辛亥」年を以て、「四七一」年に当て、倭王武の時代(南朝劉宋の順帝の昇明二年、四七八頃)に相当する、としてきた、そしてこれを大和の雄略天皇に当ててきた従来説は、(新しい14Cや年輪の年代測定に対応させて)学問的に再考慮・再検討されねばならぬこと、必然である。然るに、最近(二〇〇三年九月二十七日(土))の埼玉県の県立さきたま資料館のシンポジウムでも全くこれが顧慮されていない。これらは学問的な誠実性を公人として欠くものではないか。同時に、大学や高校等の学校教育上においても、「率直に事実に対面することを回避せよ。」と、若者たちに教えていることにならないか。不当である。

 

四、                             さらに、当銘文にある「斯鬼宮」を雄略天皇の宮の地に当てた従来説の場合、疑点があった。なぜなら古事記・日本書紀において、「磯城」に宮居をもつ、とされているのは「崇神・垂仁」の二天皇であり、雄略天皇(「長谷」)はこれに妥当していない。当初からこの問題の「矛盾」が“隠され”てきた。各シンポジウムでも、(当初の講演を除き)この問題に対する反対意見の持主(たとえば古田)に対しては、その学的討議者から、常に「排除」しつづけてきた。不公正である。

 

 

五、                             古田は栃木県藤岡町の「磯城宮」をもって、この銘文の「斯鬼宮」に当ててきたが、最近、藤岡町の三つの字地名に疑問が出された。地元研究者(石川善克氏)(2) から、明治十年の文書によって同地の字地名三個が「改名」されている事実が報告された。(「飯塚・小池・大崎→登美・豊城・佐代」)。そしてこれを以て記・紀・新撰姓氏録の姓氏名による「改名」と解されたのである。しかし次の二点から、この解釈には「不審」がある。

 

@                                           記・紀や、ことに新撰姓氏録には、たとえ「豊城入彦命」関連に限ってみても、数多くの姓氏名が出現する。その中から(たとえば)「佐代」といった姓氏名を“抜き出す”べき必然性がない。

A                                           「豊城」は、いわば「良き」有名人であるが、「登美」は(「登美毘古」のように)神武天皇に敵対した「逆賊」として著名の有名人である。隣り合った「字地名」として、故意に、このような正・反の両地名を記・紀等から“採用”すべき必然性がない。従ってこの「三・字地名」の「改名」を以て「明治のイデオロギーによる改名」とみなすのは、不合理である。

 

六、                             その上、今回、大前神社(栃木県藤岡町)の明治十二年の石碑に対し、周密に(三回にわたり(3))全面拓本を採取し、その立碑状況、及び碑文執筆者(森鴎村)の学風等を精査したところ、この「其の先、磯城宮と号す」の一句を以て、「明治期のイデオロギー的創作」のことと見なす見地は、全く不可能であることが判明した。その理由は

@            鴎村の学風は、着実かつ実証的であり、隣国(水戸藩)の水戸学のような学風とは全く異なっている。(『鴎村先生遺稿』、『同、続篇』)

A            鴎村には「里社改号記」(続篇)の論文があり、猥りなる「神社の改号」に対し、その不当性の非難が周到に強調されている。

B            当日(明治十二年四月三日)には、当神社に村民等の寄付者(三千余名)たち数多くの参列者の前で、落成式が挙行され、この石碑が披露されている。すなわち、右の一句は「村民周知」のところとみなす他はない。

C            当時の宮司(鈴木徳成)は旧幕時代から明治に至る、当地の旧家の名士である。 鴎村は彼の尊敬する学者であった。

 

七、                             もっとも注目すべきは、左の一点である。「明治十二年には、問題の稲荷山の鉄剣銘は全く知られていなかった」。それ故、「大和の磯城宮」と書かず、ストレートに「斯鬼宮」と書かれている鉄剣銘の宮名として、この関東の(約二十三キロメートル近くの)「磯城宮」の名を無視することは、研究者が客観的立場に立とうとする限り、許されない。右を平然と「無視」してきたのは、逆に、明治以降の、また敗戦以降の「天皇家中心史観のイデオロギー」を至上の基準とする、現代の学風を赤裸々に証言するものではあるまいか。

 

八、                             この問題は、次の諸点への研究をうながすこととなろう。

@                                           この大前神社の周辺には「境宮」「鷲宮」「北宮」「宇佐宮」、有名な「宇都宮」といった「宮」号名が他にも分布している。

A                                           「天国府」(あまこふ)のような近隣地名は近畿には存在しない。逆に関東には「国府津」の類の地名が少なからず分布する。(「甲府」もその一か。)。また「常陸国風土記」には「天降る」の類の表現が頻出している。これらにつき、「近畿中心主義のイデオロギー史観」から決然と脱出し、新たな史料批判と客観的な多元史観による冷静な研究が深く広く期待せられているのである。(4)

 

   (二〇〇三年十月五日 記)

 

(注1)、多元 No.56,57 参照

(2)、「大前の地名」、藤岡史談、第六号(平成十二年)

(3)、高田かつ子、長井敬二、下山昌孝、笠原桂子、小松孝子、安藤哲朗氏のご協力

(4)、当問題については、古田『関東に大王あり』(創世記、現在は新泉社刊)参照

 

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大前神社碑の調査研究

 

 本号の「稲荷山鉄剣銘文の新展開について」にものべられているように、「藤岡史談」所載の石川善克氏の論文「大前の地名」で、磯城の宮の地名は新しいという示唆を受けて、『関東に大王あり』当時では行われなかった碑の全面的調査を行った。七月二十九日、古田氏を始め、六名(右発表・注・参照)が大前神社の碑面の拓本取り、周辺住民からの聞き込み、現場調査などを行った。また藤岡町教委で石川氏や町史編纂委員とも会い、そこで碑文の撰者鴎村士興について聞き、『鴎村先生遺稿集』の存在についても知ったほか、多くの収穫を得た。

 その後拓本の読解については本会の「発表と懇談の会」(長井氏)でも取り上げ、古田史学会報の編集の席でも議論されて、古田史学の会代表水野氏も釈文に積極的に加わられ、またインターネットで『鴎村遺稿集』を入手して古田氏に送り、「鴎村の全体から碑を読む」ことになった。釈文が進むにつれ、再三の碑面の調査が必要になり、三回目の調査で、最終的に明白な字、やや読める字、不明な字を決定した。

 思想史学会の発表で古田氏が(冗談で)言われたように、「近代金石文の研究は、古代史よりよっぽど面白い」ものであった。

 しかし残された問題もあり、「明治十二年」と「戊寅」とが一致しない(「戊寅」は明治十一年、しかし『遺稿集』では年数と干支とは一致しているので、鴎村が別の暦に従っていたとはいえない)などもその一例である。前記の読み下し文はそれに対する古田氏の解決案である。

 また、近年発行された『藤岡町史―資料編・近現代』には、当碑の記事はない(他の石碑類についてはかなり克明に記録されている)。『鴎村先生遺稿集・正続』にも載せられていない。これらが漏れたのはいかなる理由によるものか、別の意味で興味ある事象である。

ここに碑面の全釈文と古田氏による読み下しを掲載する。(安藤記)

 

 

大前神社碑文

 

 
  テキスト ボックス: 大前神社拝殿新築應募諸君姓名抜萃碑
下毛野都賀郡大前神社其先号磯城宮早既列式内國幣社而来千有餘年徳之幽明及祠之葺壊時有變遷然村民相率春秋祭祀不少懈焉是雖由式内名祠抑將神靈異他之所致也明治維新之際縣廰改撰郷社神徳更著遠近帰依参拝日多因勧募集金新築拝殿其功踰歳而竣乃卜本年四月三日落之□資金凡千圓強喜捨人員凡三千餘名其中特擢抜群多資者数百人列序其姓名以永定祭日禮拝之順次鐫諸石面以傳不朽云明治十二年歳次戊寅三月下浣     鴎村士興拝撰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


大前神社碑文の古田武彦氏による読み下し

 

大前神社、拝殿新築、應募の諸君姓名抜萃の碑 

下毛野の都賀郡、大前神社。其先、磯城宮と号す。早く既に式内國幣社に列す。而来(じらい)、千有餘年、徳之幽明なる、祠之葺壊(穰か)の時に及び、」變遷有り。然れども、村民相率いて、春秋の祭祀、少しも(おこた)らず(焉)。是れ、式内の名祠に由ると雖ども、(そもそ)も神靈の他に致す所に異るを()ってなり。

明治維新之際、縣」廰の郷社を改撰し、神徳更に著し。遠近、帰依(きえ)参拝すること、日に多し。因りて勧募集金し、新たに拝殿を築くに、其の功、歳を踰えて竣す。(すなわ)ち本年四月三日を卜して、」之を落す。(○資〈費か〉)金凡そ千圓強、喜捨(きしゃ)の人員凡そ三千餘名。其の中、特に抜群の多資者数百人を擢んで其姓名を列序し、以て永く祭日を定む。」禮拝之順次、諸(これ)を石面に(きざ)み、以て不朽に傳うと云う。

明治十二年(〈落之〉)  歳次戊寅三月下浣    鴎村士興拝撰

 

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