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古代の霧晴れて-国譲りと国戻し-

                                                              立川市 福永晋三

      はじめに

 大どんでん返しが待っていた。

 二〇〇〇年八月二〇日、飯岡由紀雄氏の運転するワゴン車に同乗し、地下鉄南阿佐ヶ谷駅に面する青梅街道から、高木博氏に見送られて、北九州へと旅立った。宿を一切予約しないで、北九州の神社と遺跡を心行くまで巡る旅である。中心のテーマは、「神功皇后は四世紀に実在した邪馬台国創始の女王である」という、破天荒な我が仮説の検証にあった。飯岡氏がこれに立ち会われ、主に神功皇后ゆかりの神社を訪れつつ、氏と会話する中から、古代史の大どんでん返しが現れたのである。標題がそれを表しているが、標題も飯岡氏の発案によるものである。

 

    一 倭国の易姓革命と神功皇后のクーデター

 倭国は、漢の時代の委奴国から隋・唐の時代のタイ(人偏に妥)国・倭国まで連続した王朝であるとするのが、多元史観の基本的概念だった。いわゆる九州王朝説である。

 九州王朝は、出雲王朝を倒して起こり、白村江の敗戦後、大和王朝に併合された。そのように理解されてきた。それは、近畿天皇家(大和王朝)一元史観にとってあまりに衝撃的な一大仮説であった。斯界が結局は沈黙を決め込んだほどだ。

 多元史観の一員に過ぎない筆者が、アマチュアの身をも顧みず、万葉集・日本書紀に取り組み出した。「我思う、故に我あり」の精神をもって取り組むうち、「九州王朝一元論」に異見を唱えざるを得なくなった。それが筆者の「倭国の易姓革命」説である。

  委奴国    天孫降臨によって成立。出雲王朝から王権を奪取。倭国の創始。漢王朝に朝貢。「漢委奴国王」の金印(伝志賀島出土)。紀元前五二年?〜紀元後三世紀初頭。

  邪馬壱国    委奴国の乱後、卑弥呼の共立によって成立。王家の交替。魏・晋朝に朝貢。「親魏倭王」印(未発見)、銅鏡百枚(未確定)。壱与の死後、再び内乱か。三世紀初頭〜三六八年。

  邪馬台国   神功皇后(倭王旨、玉垂媛)のクーデターによって成立。倭の五王がこれに続く。水沼の皇都を造営。東晋以降の南朝に朝貢。都は太宰府とも呼ばれた。この国のとき、「日本」と称したか。七支刀の銘文、高句麗好太王碑。三六八年〜五三一年(日本の天皇及び太子皇子倶に崩薨す《百済本紀》)。

  タイ国      九州王朝の成立。磐井の滅亡と九州年号に関わる王朝。多利思北孤のとき絶頂期を迎え、倭京(平城京)を建設し、日出処天子と称し、隋と対等外交。薩夜摩のとき、唐と戦争。敗戦後、筑紫都督府(再び太宰府となる)が置かれ、薩夜摩の死後・唐軍の撤退後に大和王朝に併合された。

           五三一年(発倒)〜七〇一年。

 右の仮説の契機は、万葉集の次の歌だった。

 皇は  神にし座せば 赤駒の 匍匐ふ田居を 京師となしつ(四二六〇)

  大王は  神にし座せば  水鳥の  多集く水沼を  皇都と成しつ(四二六一)

 未だに大方の支持を得られないが、わたしと家内の伸子とは「邪馬台の京師」=「水沼の皇都」の造営を詠んだ挽歌と解した。この「水沼の皇都」から、古賀達也氏が久留米の大善寺玉垂宮がその皇都であると見出された。続いて、高木博氏と東京古田会が中心となって、昨夏の久留米シンポジウム、玉垂宮調査、今年正月の「鬼夜」見学と、集中的に筑後地方の調査を敢行。これらに同行する傍ら、昨夏、玉垂宮調査に加わる前に、単独で遠賀川流域の神社と遺跡・田川郡香春町・御所ヶ谷神籠石・宇佐八幡宮・宗像大社・宮地岳神社・香椎神宮・太宰府と調査して回った。「鞍橋の君」「熟田津」「豊国の香春」に関する万葉歌の調査が主目的だったが、実は、神功皇后紀が重大な歴史事実を記録しているとの予測(「邪馬壱国南遷して邪馬台国と称す」)があり、その検証も兼ねていた。

 玉垂宮調査に合流して、『吉山旧記』に出会う。「邪馬台の京師」=「水沼の皇都」の造営について、《(玉垂命が)肥前水上桜桃沈輪(鬼)を退治し、その居館を焼き払い、その後に新御殿を建てて筑紫を治めた》と記してあった。わたしにはそう読み取れた。それより少し前、「七支刀と玉垂命」において、倭王旨は初代玉垂命(玉垂媛)であり、大帯比売(オホタラシヒメ)ではないかとのテーマを、古賀達也氏が提唱された。一見すると先行説である。だが、わたしの仮説とはある決定的な違いがあった。遷宮と遷都の違いである。わたしの遷都説には初めから「倭国の易姓革命」説が横たわっていた。

 それを示す転機がついに訪れた。大善寺玉垂宮の地(水沼の皇都)において、わたしのこれまでの思惟がようやく結実した結果からである。

  《神功皇后(播磨風土記の大帯日売〈オホタラシヒメ〉命)こそ四世紀に実在した倭王旨と同一人物であり、三世紀以来の邪馬壱国(鬼)を滅ぼし、邪馬台国を創始した女王である。また、水沼の皇都を造営した玉垂媛とも同一人物であり、後世、応神とともに八幡神(弓取りの神)と崇められた。》

 今年、「『鬼夜』に秘められた古代史」でこのテーマの嚆矢を放ち、「『日本紀』と『万葉集』の齟齬」で神功皇后のクーデター(邪馬台国の成立)を予告した。この神功皇后の易姓革命を検証する旅に出て、古代史の大どんでん返しに遭遇したのである。

 

      二 大国(おほくに)こそ始源の王朝

 北九州に入る前の八月二十一日、古田武彦氏のお宅にお邪魔した。竹林に隣接した閑静なお住まいであった。この時、氏から、大どんでん返しのヒントが与えられた。

 一、 大和のある神社の末社に、ボロボロの大己貴(オホナムチ)神社があり、この神に挨拶してから、そこの大祭ははじめて行われる。

二、 弥生の土笛「陶ケン(土偏に員)」は、福岡県宗像市など玄界灘から京都府丹後半島までの日本海沿いの弥生時代の遺跡で発見された。(中国では、綾羅木郷遺跡の土笛に似たものが、商代の二里崗遺跡、山東省の竜山文化の遺跡で発見されている。〈福永〉)この笛の音色(宮・商・角・徴・羽の五音か〈福永〉)を伴奏にして、古今和歌集仮名序に曰う、「素戔嗚尊よりぞ、三十文字あまり一文字は、詠みける」、つまり五七調の定型が始まったのではないだろうか。

 多くのお話しから、右の二点に留意した。その場で、お答えしたのは、同じ仮名序の割り注にある「えびす歌」についての私見だった。

 下照姫の歌が神代紀では「夷曲(ひなぶり)」とされ、それを紀貫之は「えびすうた(夷歌)」と訓読したのではないかとされる。周王朝に朝貢した倭人(漢代の表記)は「東夷」と呼ばれた。従って、出雲王朝を指して東夷と云ったのではないか。この「夷人(いじん)」が「倭人」に書き換えられた可能性もある。ちなみに周代の山東半島に「夷」の地がある。「東夷」は、我が国では恵比須の国であり、都(出雲)をヒナと呼んでいたのではないか。国譲りの後、博多湾岸に都を置いた委奴国、すなわち天孫族の時代になって、「天離る夷(ひな)」の枕詞が生じ、かつての栄えた都が「鄙(ひな)」に逆転したのではなかろうか。ヒナは本来「日向(ひなた)」と同義であろう。出雲王朝は、輝ける「日の国」だった。

 この後、恵比須神や蛭子(ひるこ)神の話が続き、出雲王朝を再認識したところで、古田氏にお別れし、予定外の天橋立に寄って一泊となった。

 天橋立に向かう車中で、飯岡氏が気づかれたのが、出雲の「四隅突出型墳丘墓」の本質である。「あれは、八隅を表しているんじゃないか」。衝撃が走って、頭が混乱した。混乱から覚めたら、

 《八隅知之 我大王》がついに解けた。「やすみしし わがおほきみ」が解った。

 出雲王朝の実態が、万葉集と古墳の形状にくっきりと明確に残されていたのだ。出雲王朝の本来の呼び名は「大国(おほくに)」であり、「大八洲」であったと思われる。その大八洲すなわち八隅を知らしめる王こそ、「大王(おほきみ)」であった。大王は神となってなお、生前の領土「大八洲」を象形化した《八隅墓》におやすみになっているのである。大己貴、大穴持、大国主の神々の名も、すべて「大(於保)」と云う《固有名詞》を冠するものであったのだ。出雲王朝は現代に、その実在を誇っていたのである。

 筆者は、「おさかなる えみし」(『九州王朝の論理』)の拙論において、吉野ケ里遺跡の弥生前期環濠集落こそが天孫族に滅ぼされた「お佐嘉の 於保室屋」であると論じた。これより早い時期に、「多元」二七号(一九九八年一〇月)での発表で、「佐嘉の於保氏」は「大王(おほきみ)」に縁の深い悠久の名門ではないかと論じた。その於保氏一族のご家紋は「十二日足」であった。その直後(一一月)に、吉野ケ里遺跡から九州初の銅鐸(出雲系)が出土したのである。

  大国こそ我が国の始源の王朝だった。周に朝貢したこの国は、周と同じような封建国家(景行天皇紀に記録有り)を樹立して、中華の天子を宗主と仰ぐ礼儀の国であった。『論語』に「子九夷に居らんと欲す」や「道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」とあるのは、孔子も含めて、戦乱の続く当時の中国人のよく知る憧憬の平和の国であったのだ。文化水準も高く、五七調の歌も誕生していた。銅鐸に見られるように共通の祭祀も行われていた。大王は八千矛の神でもある。旧暦十月すなわち神無月には全国の神が出雲の大王に詣でた。人々の伝承こそが最も正しい歴史事実を反映していたのである。

 大国の版図は、東は日立の国から西は白日別(筑紫)・豊日別(豊国、大分)・日向・大隅の国までと、周辺の八十島とであり、「日」と「大」をキーワードにして「倭(夷)人百余国」を成していたと思われる。この広範な版図の中で、国譲り以後の「倭国の易姓革命」が繰り広げられたようである。この概念なくしては、日本書紀という文献の語る歴史と、全国各地から出土する遺跡の語る歴史と、人々の伝承の語る歴史を解明することは、結局、できないのではないだろうか。

 

      三 国つ神《対》天つ神−国譲りと国戻し

  大王は 神にし座せば 水鳥の 多集く水沼を 皇都と成しつ

 神功皇后こそ四世紀に実在した、邪馬壱国を滅ぼし邪馬台国を創始した女王との仮説を立てた。その出発点の歌にこそ「大王」の称号があるではないか。出雲の大王ではない。確かに邪馬台国の女王を指している。やはり「大帯日売(播磨風土記)」を指しているのだ。そうに違いない。一足飛びにとんでもない仮説が立ち上がった。

 ? 大国(出雲王朝)が始源の王朝であり、主神は日神、または国つ神。

 ? 国譲りで大王の王権を奪取。下剋上。天孫降臨を経て委奴国建国。倭国の創始。主神は月神または天神、天つ神。日ナの出雲から月神の天満(そらみつ)倭(やまと)へ、筑紫博多湾岸に都は遷った。大国の分裂。

  ?  内乱により、卑弥呼を共立。邪馬壱国の成立。天神系の王朝。同じころ、神倭磐余彦が、現近畿の銅鐸国家(出雲系)に侵入。東の倭(やまと)分王朝の拠点を建設。邪馬壱国は吉備の国辺りまでが版図か。

  ?? 大帯日売のクーデターにより、日継ぎの国の邪馬台国成立。国つ神の王朝の復活。飯岡氏が「国戻し」と命名。八幡神の強力な武力による平和が実現。律令制国家への移行の形跡が窺われる。水沼の皇都に遷った。大倭(おほやまと)王の居す都である。この国が「日本」を名乗ったか。日本旧記などの倭国史や万葉集の最古の編纂はこの王朝で行われたか。五〇七年、大伴金村が男大迹(おほど)王を越前より迎え、近畿に入る。倭国分王朝(天神系)倒れ、大国の再統一か。

 ?? 五二八年、筑紫の君磐井が物部麁鹿火に倒され、分裂。天神系の筑紫の君葛子が、物部麁鹿火に糟屋の屯倉を割譲し休戦。天神系の多利思北孤が聖徳太子の時代から国を復興。筑紫を統一し、五八七年、東では蘇我馬子(大臣)が物部守屋(大連)を滅ぼす。五九二年、崇峻をも殺害。東西五月行の再統一を果たしたか。それが「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す」統治であろうか。六〇〇年遣隋使、この時タイ王、タイ国と称したか。六〇三年冠位十二階を制定。翌年憲法十七条の制定。六〇七年遣隋使、日出処天子を称す。六一八に倭京に遷都。

 国譲りと天孫降臨の一回きりの易姓革命で古代史は安定したのではなかった。絶えず、国つ神と天つ神との間の血で血を洗う戦の連続であったと見るべきだった。

  大国以来、中華の天子を宗主と仰いだ礼儀の国は、周倒れて秦・漢、魏晋南北朝と易姓革命の起こる度に、宗主をいずれにすべきかで中国同様に易姓革命を経ないわけにはいかなかったのかも知れない。魏・西晋は周の制を尊んだ。東晋は秦・漢の制に復した。それらに微妙に呼応して、我が国では天神と国神の相克があったようである。倭国も万世一系ではいられなかった。

 

 八月二三日、神功皇后ゆかりの神社を訪れる旅は、穴門豊浦宮を探すべく、忌宮神社へ行く途中、下関市の赤間神宮の本体と思われる亀山八幡宮に遭遇する。赤間神宮も元は八幡社である。宮司さんに確認した。末社に天神社がある。すぐ近くの亀山八幡宮に行った。大昔は赤間神宮も含めて島であったこの宮は、関門海峡(穴門)に臨む要衝の地である。幕末、長州が砲台を置いた所でもある。古代の要塞は戦略の拠点であるから革命の度に争奪戦が繰り広げられたと考えてもおかしくない。

 先の仮説の回答がそこにあった。邪馬台国の八幡社が中心だが、末社に恵比須神社があり、宮地嶽神社があり、そして熊鷹稲荷神社があったのだ。今回の旅の終点には、羽白熊の終焉地を予定していた。安の野(今日の甘木市)である。その羽白熊鷲がいきなり、一時代の王者、神としてしかも熊鷹の名で出現したのだ。わたしは、この熊鷲を邪馬壱国の最後の王と見当をつけていた。ここの熊鷹大神を見て思い出した。

 古田氏と二人で旅したとき、福岡県筑穂町の老松神社の宮司さんと古田氏が話し込んだときのことだ。わたしは二人をビデオに収めていた。

 「わたしが宮司を兼ねている大根地神社は、神功皇后が羽白熊鷹を退治した所です。」 
 「羽白熊鷲じゃありませんか」

  「いえ、羽白熊鷹と伝えられていますが」

  この記憶が、下関の地の熊鷹稲荷とつながったのだ。神功皇后が実在なら、倒された羽白熊鷹も実在する。関門海峡を隔てた二か所の伝承が「熊鷹」であれば、日本書紀の「熊鷲」があるいは書き換えだったのである。いずれにしろ、熊鷹の実在も信憑性が増した。  忌宮神社に到着。宮司の三河内百合彦氏に仲哀の无火殯斂(ほなしあがり)の地を教えていただいた。神社の五、六〇〇メートルの真向かいに日頼寺があり、そこにかりもがりの地がある。昔は長府の人達は絶対立ち入ってはならない禁足の地だと伝えていたとの由。日頼寺に行って、仲哀のかりもがりの地を実見した。神功皇后は仲哀の死を秘した。そうすると、穴門豊浦宮はどうやら亀山八幡宮であるようだ。やはり実在した。

 (旅の報告と数々の発見は、次回に分割するよりなさそうである。今回は、大どんでん返しの二、三だけ紹介したい。次回は、次の章の書き直しから始めたい。)

 

    四 記紀と万葉集

 倭国の易姓革命が、国つ神と天つ神との相克にあるとするとき、古事記・日本書紀、万葉集の成立の次第が、実に微妙に複雑になってくる。近畿天皇家が日本列島の代表の王者となってから、先の書物は《最終的に編纂》された。元の史料が倭国のそれであり、近畿天皇家一元史観のイデオロギーに立って編纂されたとしよう。

 まず、倭国の元の史料は、天神系の国で編まれたのか、それとも国つ神系の国で編まれたのか、その違いが現れる。前者だと国つ神系の国の歴史が歪められ、後者だと天神系の国の歴史が歪められる。どちらも自らの正当性を主張するからだ。

 次に、近畿天皇家においても、天智朝・天武朝の相克がある。それが倭国の国つ神と天つ神との相克の延長上にあると仮定するなら、記紀は実に複雑怪奇な史書であると言えよ

う。試みにそれぞれの冒頭の神の名を並べてみよう。

 

 古事記 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。神産巣日神(かみむすひのかみ)。宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。天之常立神あめのとこたちのかみ)。国之常立神くにのとこたちのかみ)。豊雲野神とよくもののかみ)。

 日本書紀(第一段本文) 国常立尊くにのとこたちのみこと)。国狭槌尊くにのさつちのみこと)。豊斟渟尊とよくむぬのみこと)。

          (同一書第四)  国常立尊くにのとこたちのみこと)。国狭槌尊くにのさつちのみこと。

          (同高天原神  天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)。高皇産霊尊たかみむすひのみこと)。神皇産霊尊かむみむすひのみこと)。   

 

  古事記天つ神系の立場で書かれた史書である。常に天つ神(月神)が国つ神(日神)に先行する。日本書紀国つ神が主流であり、天つ神が別系統の神であることを明示していた。

  大どんでん返しは、まずここにあった。

 《日本書紀は、邪馬台国すなわち大倭王時代の史書が基盤となっていた。》

 筆者は、日本書紀に「特設」された「神功皇后紀」を追究して、ついに、邪馬台国創始の女王(大帯日売=倭王旨=玉垂媛=八幡神)を突き止めた。神功皇后こそが邪馬壱国を滅ぼし、邪馬台国を創始した女王だったのである。この女王の王朝下に「日本旧記」や「日本世記」などが編まれた。それらが、天神系の委奴国・邪馬壱国の歴史を貶めたものであることは、今や想像に難くない。天孫族が倒したはずの「夷・土蜘蛛・熊襲(国つ神)」の呼称が、逆転して、滅ぼされた邪馬壱国(天つ神)の神々の名に置き換えられた。特に、直前の邪馬壱国の記録は相当に歪められたようである。近畿の大和王朝が日本書紀に編み直すとき、四世紀邪馬台国の女王の記事を干支二運(一二〇年)繰り上げて、三世紀邪馬壱国の女王と重ね合わせざるを得なかったのが、それを物語る。邪馬壱国の女王の魏晋への朝貢記事が、畢竟、神功皇后紀の分注にしか過ぎないことも理解できる。

 邪馬台国はタイ国が「継体」したようだ。古賀達也氏に、玉垂命が端正元年(五八九)に没し、多利思北孤が即位したようだとの推論がある。一方、邪馬台国は紀氏、タイ国は天氏の姓が認められる。はなはだ複雑な過程が見られるが今後の課題とする。

 以上、神功皇后紀を徹底的に追究して、日本書紀の本質を射貫いたようだ。

 《日本書紀の神代紀から推古天皇紀までは、邪馬台国の史書の改竄である。ただし、時空間を分断されて配された個々の記事は、すべて歴史事実である。

 

 大どんでん返しの二つ目は、

 《万葉集は、邪馬台国(大倭王)の勅撰倭歌集を始源とする》ことである。

  拙論「『万葉集』の軌跡」では、日出処天子たる多利思北孤の勅撰までしか踏み込めなかった。だが、邪馬台国を徹底的に追究してゆくうちに、倭の五王の南朝への朝貢記事、漢詩と倭歌の古くからの認識、及び古今和歌集真名序のもう一つの「古の天子」条とが、完全な一致を見たのである。

 「古の天子、良辰美景ごとに、侍臣の宴筵に預かる者に詔して、和歌を献らしむ」。

 これは、日本書紀の顕宗天皇の三次の「曲水の宴」を指していたのだ。特に、「二年(四八六)の春三月の上巳に、後苑に幸して、曲水の宴きこしめす。是の時に、喜(ねむごろ)に公卿大夫・臣・連・国造・伴造を集へて、宴したまふ。群臣、頻りに万歳を称ふ。」の記事が注目される。四八六年は南斉の武帝の時代であり、邪馬台国は倭王武の時代である。つまり、五世紀の水沼の皇都に都した倭王武こそ古今和歌集真名序に云う初めの「古の天子」であり、次に書かれた「昔、平城の天子」は七世紀の倭京に都した多利思北孤のことであったのだ。したがって、一九九三年から九四年にかけて発掘された、久留米市朝妻町(旧御井町字朝妻)の「曲水の宴」跡と見られる遺構は、水沼の皇都で天下を統治した「倭王武」ゆかりの跡だったのだ。平安時代の醍醐天皇の御代に、紀氏はなお歴史の真実を記録していたのである。

 『万葉集』の編集も『日本書紀』同様、邪馬台国の時代に始まったとするなら、残念ながら天神系の委奴国・邪馬壱国の「倭歌」の多くは、例えば「古歌集より出づ」の中に題詞を失って紛れていよう。記紀歌謡の多くが『万葉集』と重複しないのも、史書と歌集の性格の違いによるものらしい。

 現『万葉集』は、菅原道真公が「文句錯乱」「字対雑糅」した草稿を綜緝したとの考えに、筆者は立つ。その菅公が、万葉歌の左注にもっぱら日本書紀を引こうとしたことの慧眼に、今は敬服している。

 《万葉集は、主に邪馬台国の創始、すなわち日本書紀の仲哀天皇・神功皇后紀から並行して編集されている》

 

      五 解けた万葉歌

 第一回目の報告として、巻第一の初めの数首を解明しておく。二番歌の反歌以下はすべて我が国初の説である。『万葉集注釋』(澤瀉久孝)と日本古典文学大系『万葉集』とを用いていく。

 

  一 〈瓊瓊杵尊〉 籠もよ み籠もち ふくしもよ み掘串もち この岡に 菜摘ます娘 家告らせ 名告らさね

   〈木花開耶姫〉 そらみつ 倭(やまと)の国は おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 我許せば 告らめ 家をも名をも  

 天孫降臨を背景とした歌劇である。天神系倭国創始の歌でもある。ニニギノ命の歌はこれ一首。大山祇神の娘が強気で尊大なのは、大帯日売すなわち神功皇后が被さっていよう。邪馬台国の歌集において、天孫は脇役であり、大山祇神の娘がヒロインである。邪馬台国では喝采を浴びたオペラであろう。富永長三氏の解釈が最も近かったようである。「そらみつ ヤマト考」と題して、次回に詳述の予定。

 

  二 倭には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ (豊)秋津島 倭の国は

        反歌

  一五  わたつみの 豊旗雲に 入り日さし 今夜の月夜 さやに照りこそ

 国東半島の東側のつけ根近く、別府湾をのぞむ海岸に奈多八幡宮が鎮座する。驚愕の宮だった。ここから国道西側の見立山の中腹か頂が、この歌の国見の場所であろう。高さ二〇〇メートル弱の山である。神社の東にひろがる奈多海岸は、良質の砂鉄産地であり、見立山の山麓一帯に古代の一大製鉄遺跡がひろがっている。鉄製産の跡を示す鉄滓やタタラ炉趾とみられるガラス状に焼けた炉壁が数多く出土する。は、この炉の煙であろう。

 国見の王者は、邪馬壱国の女王卑弥呼と思われる。奈多八幡宮の祭神は、神功皇后・応神天皇を除けば、比売大神である。また、この神社こそ宇佐八幡宮の前身と考えられる。長歌の終わりに「豊」字の欠落があったようだ。

 「消された邪馬壱国」「王権の鍵の豊国」の題で、次回に詳述する予定。

 

  三 やすみしし 我が大王の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄せ立たしし

  みたらしの 梓の弓の なかはずの 音すなり 朝獵に 今立たすらし 夕獵に

  今立たすらし 御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

    反歌 

  四 たまきはる 内の大野に 馬敷きて 朝踏ますらむ その草深野

 四八  ひむかしの 野にほのほの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡る

  四九 日なみしの 皇子の命の 馬副へて 御獵立たしし 時は来向かふ

 題詞の中皇命は、タラシナカツヒコ天皇(仲哀天皇)を指すようだ。オホタラシヒコオシロワケ天皇(景行天皇)、ワカタラシヒコ天皇(成務天皇)と共通のタラシヒコを取るとナカツ天皇となる。仲哀八年(一九九年、干支二運下げて三一九年)の九月、橿日宮から出て、「強ちに熊襲を撃ちたまふ。得勝ちたまはずして還ります」の記事を背景にしていると仮定するとき、これらの歌は、ただの獵ではない。熊襲狩りである。日神系の大王(仲哀)が、天神系の熊襲を撃ち取る歌なのである。中弭は、二〇〇〇年の考古速報展にも出た、数少ない弩の引き金を指すのであろう。弩を放って、熊襲を射殺する。戦の場所は、福岡県筑穂町内野。馬敷(ましき)の地名があったので、「馬敷きて」と仮に訓読しておく。草はまつろわぬ民草を意味する。草薙の太刀の草と同義だ。

 藤原定家卿の「長歌短歌之説」には、四八番・四九番の歌が出てこない。宙に浮いた両歌の落ち着き先を探したら、ここに来た。東の野に陣取る熊襲に火を放った。秋の草野だから、火勢は強く立った。生き残った月神を祭る熊襲が西に逃げ出す。逃げ行く先は、唐津湾。魏志倭人伝に著名のルートと逆の、松浦→壱岐→対馬→伽羅の逃亡ルートであろう。さらに、日嗣の皇子を連れて掃討戦に出ようとする。皇子は香坂王であろうか。仲哀の戦病死後、暗殺されたとしたら、「赤い猪に食い殺された」の謎も解けようか。

 

  八 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出な

 左注の「御船西征して始めて海路に就く」が唯一正しかったようだ。女帝は、神功皇后。三韓征伐の船出の歌だった。前の歌群のように、熊襲(邪馬壱国軍)と戦闘して、仲哀は賊の矢に当たり、仲哀九年(三二〇)の春二月、橿日宮に崩じた。南の熊襲を討ち果たすために、作戦会議が開かれた。西の松浦(唐津湾)に拠る熊襲(仲哀記の分注に勝門比売の名がある)を撃ち、渡海して三韓(卑弥呼の設けた彌摩那国か)の邪馬壱国軍を制圧しないことには、いつ背後を突かれるかという虞れがあったようである。武内宿禰らに擁立された神功皇后は、作戦どおり、まず渡海の軍を編成した。その場所こそ熟田津であったのだ。そこはどこか。長年の謎がようやく解けた。やはり、福岡県鞍手郡鞍手町の新北でよかったのだ。なぜなら、そこは筑紫物部氏の本拠地であるからだ。

 仲哀九年の「冬十月の己亥の朔辛丑に、和珥津(わにのつ)より発ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起こし、陽侯(うみのかみ)は浪を挙げて、海の中の大魚、悉く浮かびて船を扶(たす)く」という記事が背景にあった。

  また、仲哀八年の春正月に「岡県主(をかのあがたぬし)の祖(おや)熊鰐(わに)が三種の神器を捧げて帰順していた。

さらに、神代紀第十段一書第一に「時に、豊玉姫、八尋(やひろ)の大熊鰐(わに)に化為(な)りて」ウガヤフキアエズを生み、海郷(わたつみのくに)に帰ったという伝承がある。

  鞍手町新北のすぐ南に「八尋」の地名が残されている。右の記事をすべて集約するとき、「八尋のワニの津」「ニギタ津」が同じ津であることが判明したのである。「熟田津」「新北津」でよかったのだ。

 周辺の遺跡や神社も、この歌の歴史的背景を証明しているようだ。遠賀川流域は、剣神社や八剣神社など物部氏に関わる神社が多数あり、それらの境内にある古墳や鞍手郡に多数ある横穴式古墳群からは、鉄剣・鎧・馬具が出土している。

 この「物之部能 八十氏」(万葉集二六四)すなわち「遠賀軍団」(太宰府から印が出土)を招集した神功皇后の、自信に満ち溢れた御製歌だったのである。

 (以上から、二六四番歌の「氏河」が遠賀川あるいはその支流であることも判明した。これも次の機会に詳述する。「人麻呂は邪馬台国の宮廷歌人」)

 こうして、船出した神功皇后軍は、松浦県の熊襲を屠り、海北に向かったようだ。

 神功皇后紀に松浦県玉島里での鮎釣の話があり、万葉集八六九番で「帯日売 神の命の 鮎釣らすと 御立たしせりし 石を誰見き」という不気味な歌を、山上憶良が詠んでいる。石とは四肢を切り落とされた敗者(賊)の無残な末路の姿を云う。愛宕の「宕」も同じく「石ころにする」意で「殺す」の語源である。愛宕を「あたご」と読むのは「敵殺し」のつづまった言い方であったようだ。あたごろしの目にあった人を哀しんで祀ったから「愛宕」の字になった。先の歌の石こそは「勝門比売」の最期の姿なのだ。神功皇后はこの石の上に立ったのである。古代の戦の残虐さが歌われていた。山上憶良の「松浦川に遊ぶ序」以下の一連の歌も深い悲劇を秘めているようだ。

 

      し づ ま り し   お ほ な み さ わ げ   わがせ こ の   い たたし かねつ いつか し が もと

  九 莫囂円隣之 大相七見爪湯気 吾瀬子之  射立為兼   五可新何本

  (しづまりし おほなみさわげ わがせこの いたたしかねつ いつかしがもと)

   静まりし 大浪騒げ 吾が背子の い立たし兼ねつ 厳橿が本

 静まっていた大浪よ、今こそ騒げ。天孫降臨後、静まっていた大国の臣たる物部氏よ、今こそその力を発揮して天神族を平らげよ。吾が背の君(仲哀)が賊の矢を受けて再びお立ちになることのできなかったここ橿日宮の厳橿の本で、弔い合戦を誓っておくれ。

 

 「この歌難解で古来有名。特に上二句が難読。」と、岩波書店の日本古典文学大系の頭注にある。諸訓が示されているが、結局、歌の大意さえ示されない。諸訓の中では、「静まりし 浦波さわく」をあげた澤瀉久孝博士の解釈が、最も歌の意味に近かったようだ。だが、一元史観の枠の中では、到底、歌の背景、歌の真意には至り得なかったようだ。土台、神功皇后架空説では無理だ。

 これらの旧説に対して、本稿で展開した数々の仮説は、この「莫囂円隣歌」の解明のためにこそあった。そう言っても過言ではないようだ。特に、《邪馬台国の王朝下に万葉集も日本書紀も作られた》との仮説を導入したら、若干の修正を施しただけで、字句の異同から歌の主題、歌の背景まで、すべてが一挙に解明したのである。

 「大相」は大国につかえた臣、ここは物部氏を指す。「爪湯気」は「さわく」でなく「さわげ」、「兼」も「けむ」でなく「かねつ」と読むべきだったようだ。

 「熟田津」の歌の左注の謎の文句、「天皇、昔日より猶ほし存せる物を御覧し、時に当たりて忽ち感愛の情を起こす。所以に歌詠を製りて哀傷したまふといへり。」は、この「静まりし」の歌について書かれていたものであったようだ。

 なお、付言するなら、邪馬台国の人々にとっては、王朝創始に関わる歌として、誰ひとり知らぬもののない、「天皇の御製歌」であったと思われるのである。

 《大どんでん返し》が右の歌にも起こった。一介のアマチュアが錚々たる古今の学者連を向こうに回して、奇想天外のしかし最もリーズナブルな新訓を施したのである。

                                                                    (つづく)

                                                      二〇〇〇年九月一二日記了


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