HOME Page へ  抄録 Top へ 2003/09/23 火曜日 05:44 更新


閑中月記 第二十

   −吉山旧記−    古田 武彦

       二〇〇三、六月十五日  記

     一

 その年の一月七日だった。私は初めて「鬼夜」の火祭りを見た。福岡県の久留米市にある大善寺玉垂宮に伝承された、壮大な火祭りである。

 前年の大晦日にはじまり、年明けて七日に至り、その日に大團円を迎える。その日も、昼過ぎ、神社の奥宮からご神体の「」を奥殿に移し奉り、そこから夕方へ向けて徐々に夜祭の時間帯へと緊張感が高まってゆく。

 その大体の進行は、すでに本誌でも紹介されたから、今あらためて再説する必要もあるまい。要するに、夕方から真夜中の十一時頃に至るまで、延々と繰り広げられるその火祭りのは、私の見た火祭りの中でも類を見ない。

 その上、社中の各地域ごとに、昨年の火祭以後、準備のととのえられてきた数々の炬火(たいまつ)の巨大さ、そして何よりも長時間の火祭の進行のスケジュールと、それぞれのパートの役割とプログラムが、社中の各家々ごとに伝統され、今も守りつづけられている。その見事さは言葉に尽くしがたい。

 最後に、残された炬火のグループが社前の川の岸へと向かい、ようやく「祭の終り」を迎えたとき、私の胸中には、ざわざわとうごめき鳴りひびくものが宿されていた。それは宿に帰ってすごした一夜の後にも、なお消えることがなかったのである。

 

     二

思わぬドラマは次の年に来た。研究上の不可解な問題意識によって、私の心はしっかりとつかまれてしまったのである。

 午前中だった。この前、数々の御好意を得た御礼を申しのべると共に、この火祭をめぐる由来などお聞きしたいとお願いしてあったところ、それまでのお疲れにもかかわらず、鬼夜保存会会長の光山利雄さんが時間をとってくださった。近隣の小室だった。当方は私の他に福永、福田さん達を含むグループである。

 お互いの挨拶のあと、私は言った。「お祭を拝見して、私の感じたところを申させていただいていいですか。」

 「どうぞ。」

と光山さん。そこで私は言った。

 「前に、お祭を拝見して、私は深い感銘を受けました。これは何とも、大変なお祭だ、と思いました。」

 「そうですか。」

穏和な顔つきで応待される。 

 「私の率直な印象を申させていただければ、これはもう、縄文にさかのぼる渊源をもつものではないか。そう思いました。」

 「そうですか。」

と、光山さん。私には、研究上の経験、或いは記憶があった 。―― それは北陸、能登半島の御陣乗太鼓を見た、否、「聞いた」ときの印象である。

 際限もなく打ちつづくその太鼓の音は、人間が鳴らしている、と言うより、大自然の声のようだった。大海原が呼び、咆吼している。

それを感じさせた。体内にじんじんと響き入ってきた。―― 私はそれを「縄文の声」と感じた。観光の解説に云う「上杉謙信の軍勢の襲来に対し、これを打ち鳴らしたところ、上杉勢は 敵は大軍=@と錯覚して引き上げた」ことなどが渊源とは、とても思われない。私には何としても信じられなかった。それはたかだか「御陣乗」という 名前の由来=@にすぎない。私にはそう思われたのであった。

 幸いにも、その後、確証が得られた。証拠が見つかったのである。―― 真脇遺跡だ。そこから「鬼の面(土製)」が現れた。縄文時代の土面である。

 従来の芸能史はこもごも記していた。この御陣乗太鼓は「中国」など、大陸の仮面劇の伝播である、と。その模倣と見なされていたのであった。けれども、それは全くの「まちがい」だった。縄文以来の伝来だったのだ。

 当然、御陣乗太鼓そのものも、縄文以来の伝統に立つひびきだったのである。想起したのは、このときの記憶だった。

 

      三

− 以下『tokyo古田会news』91号参照 −


閑中月記 第二十三回

スミソニアン

古田武彦

 スミソニアンへ飛んだ。成田空港ホテルで夜ふかししたけれど、無事起床。一路十三時間、目指すワシントンD.Cへ到着。早速研究所の収蔵庫へ向った。二月六日の午後だった。

 迎えてくださったのは、メガーズ博士(エバンズ夫人)。白髪のノーブルな顔立ち。すらりとした痩身は全く変わりがない。にこやかにわたしたち十五名を迎え入れて下さった。

 南米エクアドルのバルデイビア出土の土器・土偶が数多くの箱に入れられ、机の上に置かれていた。博士は飽くことなく、それぞれの土器の特徴を説明される。わたしは用意してきた接写用のデジカメで、それぞれの特徴をもつ土器・土偶を撮影した。

次の日は通訳して下さるはずの飯塚文枝さんが若い眼でカメラを操作し、わたしはもっぱら助手役だった。

 次の日の午後、今回の旅行のハイライトをなす講演会が行われた。先ず、メガーズ博士。スライドを使っての的確な説明。さすがだ。次いで、わたし。

講演原稿はすでにパソコンで用意し、藤沢徹さんを通じて、飯塚さんの手もとに渡されていたから、講演者としては楽だった。飯塚さんの通訳も、よどみがなかったけれど、一回だけ、わたしの「話す」前に、次の個所の英訳が流れる、というハプニング。でも、研究所側の人々は無論、気付かない。御愛嬌だった。

   三

− 以下『tokyo古田会news』90号参照 −

閑中月記 第二十二回 

ウラジオストック (2003.1.7) 古田武彦

偶然と必然の神は姉妹である。いわゆる異卵性双生児のように表裏している。

 わたしが、こんなとてつもない¢z念にとりつかれたのは、昨年来の研究経験からだった。

 ことは十九年前(一九八四年)にさかのぼる。御存知、「国引き神話」。出雲風土記だ。

一に、志羅紀の三崎。韓国の慶州近辺である。

二に、北門の佐伎の国。北朝鮮のムスタン岬。

三に、北門の良波の国。ロシアのウラジオストックである。

四に、高志の都都の三崎。能登半島だ。

 従来は、二を大社町鷺浦、三を八束郡島根村農波(原文改定)のように考えてきた(いずれも、岩波)。しかし、出雲の一部を「引き寄せ」て、大出雲が出来上がるはずはない。蛸の足喰いだ。

 わたしはこれを「否」とした。対岸の沿海州にこれを求めたのである。縄文における「出雲〜ウラジオストック」間の交流。その焦点は、もちろん黒曜石だ。

一九八七年七月、黒曜石、鏃を求めてわたしはウラジオストックに渡り、その翌年五月、その答を得た(十日。早稲田大学実験室講演。ノヴォシビスクのワシリエフスキー氏)。

 それはズバリ、氏の持参された七十数個の黒曜石の鏃(ウラジオストック周辺、約100キロの五十数個の遺跡出土)の約五十パーセントが当の出雲の隠岐島の黒曜石だった。(四十パーセントが津軽海峡圏。函館の北の赤井川産。十パーセントは不明。)

 わたしの立場、わたしの論理による、この縄文神話の仮説はやはり正しかった。正確に立証されたのであった。

− 以下『tokyo古田会news』89号参照 −


閑中月記 第二十一回

中国往来(2002.11.11)  古田武彦

 中国から帰ってきた。

 今年の十月十六日から二十一日まで、山東半島の画像石群や仏教遺跡を巡った。いずれも、時間が足りぬほど、数々の見聞に恵まれたのである。

 なかでも、出発前から、わたしの関心の中心は曲阜だった。孔子やその門弟、顔回の生地だ。今は、儒教の、というより中国文明の聖地である。

    二

 論語の雍也篇に、孔子が顔回について述べた有名な言葉がある。

 「賢なるかな回や。一箪たんの食し、一瓢ぴょうの飲、陋巷ろうこうに在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や。」

 これに対する岩波文庫の訳(金谷治訳注)は次のようだ。

「えらいものだね、回は。竹のわりご一杯のめしと、ひさごのお椀一杯の飲みもので、せまい路地のくらしだ。他人ならそのつらさにたえられないだろうが、回は〔そうした貧窮の中でも〕自分の楽しみを改めようとはしない。えらいものだね、回は。」

問題の一句、それは「陋巷に在り。」である。通例は、右のように「せまい路地のくらし」といった形で理解されている。論語集註(朱熹著)などに収載された歴代の注釈類、また近年、中国旅行のさい、北京や上海、また曲阜などで買ってきた、論語の注釈類を見ても、大体、例外はない。

わたしが、新たな視点をもったのは諸橋徹次氏の『如是我聞、孔子伝(上・下)』(大修館書店刊)を読んだときだった。

「この辺は陋巷街という、正しく孔子の弟子の顔回が一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在ってその楽しみを改めなかったという陋巷そのものであります。」(八ページ)

右のように、諸橋さんは曲阜で「陋巷街」を見ているのだ。だとすれば、この陋巷、論語の中の「陋巷」も、固有名詞ではないか。つまり、地名ではないか。そう考えたのだ。

もちろん、紀元前六〜五世紀の地名が現在にまでつづいている、という保証はない。そんなこと、分り切っている。むしろ、現在地名が論語に基づいて、呼ばれている≠ニいう可能性も、当然無視できない。

けれども、問題の本質は次の一点にある。

「陋巷に住んでいたのは、陋巷に住むにふさわしい身分の人にだったのではないか。」

これだ。現代なら、永井荷風のように「江東のちまた」に身を隠し、夜な夜なバーやカフェに姿を現わし、それらの店の「遊女」と言葉を交わす。心を結び合わせる。そういう風流人も、ありえよう。そんなインテリもあったかもしれぬ。

しかし、あの周の春秋時代、魯の曲阜において、果してそんな光景が見られただろうか。そんな「住み人」があっただろうか。わたしには信じられない。

− 以下『tokyo古田会news』88号参照 − 


閑中月記 第二十回

 

狗奴国 (2002,9,14)古田 武彦

 

松本へ行った。八月の末。講演は九月一日である。かねて念願の、文庫本一つをたずさえての旅行スタイルを目指した。だが、果してそうなったか。

 講演は盛況だった。浅間温泉の本郷公民館で行われた。現地の歴史研究会の人々、女性の方々も少なくない。

 前回(安原)は、例の「姥おば捨て伝説」をめぐるテーマだった。信州で改めて当面した「塩尻」の地名問題の延長、そして展開だった。

「塩尻≠ヘ、そこが塩の交換の場だったから。」

半世紀前(昭和二十三年)、当地の松本深志高校(県立。旧制松本中学)に新任したとき、現地から来ておられた先生からお聞きした。いわば「通説」だった。

 この「通説」に疑いをもちはじめたのが、二年前、同校の同窓会(三回生)に呼ばれて向う途次である。現地の方々の各説にふれたのち、わたしの新たに到着したところ、それは

「しほ(塩)はし<vラス、ほ=i秀)である。しり≠ヘ、ふっくらした丘陵部の地形名詞。」

という帰結だった。肝心の「し」とは、

「人間の生き死にするところ。(陸上と海上とを問わない。)」

の意義。「なの・はにな・さらな等」また「ふか・こ・ち(つ)く」さらに「ほぢ・ま」などのし≠ナある。人が「死ぬ」というのは、この「し≠ノ帰る」ことだ。そういう、思いがけぬ帰結をえたのであった。

このような地名分析の手法が、あの「姥うば捨て」に向けられた。これを、従来、

「ばあさんを捨てる」

という意味にとっているのは、おかしい。なぜ、「じいさん」を捨てないのか。

 こういう「?」から、到達したところ、これ(「姥捨て」)はやはり「地名」そのものではないか、この問いだった。

その成果、いわば思考のいきさつ≠ヘ、今回公刊された『「姥捨て伝説」はなかった』(1)に、分かりやすくのべた。中学生、高校生にも読みやすい会話体の本としたのである。

 しかし、今回は一転、三国志の魏志倭人伝の新展開、否、急展開が主題となった。「倭人伝の全貌」がこれだ。

 

 焦点は狗奴国である。

倭人伝に登場する。倭国の女王卑弥呼と交戦する敵対国として著名だ。男王を卑弥弓呼という。卑弥呼がこれを魏朝に訴え、ために魏朝は

 @塞曹掾史(軍事司令官)の張政等派遣

 A詔書・黄幢の授与(難升米)

 B檄による告喩

という具体的行為に出た(正始八年、二四七)。「倭種における国家間対立に対する、大国干渉」である。

 いわば、倭人伝内で、もっともシビアーな軍事的事件だ。現に、このときの張政は、のち(泰始二年、二六六、神功紀)に、倭国(壱与)の西晋朝貢献に関与しているから、その「二十年間」(二四七〜二六六)の長期にわたる「倭国滞在」もしくは「倭国関与」の導入口となったもの、それは他ならぬこの

 「倭国、対狗奴国」

問題であったことが知られる。重大だ。東アジアの軍事状勢の一環として倭人伝を見るとき、これは避けて通れぬテーマ、いわば不可避の課題なのであった。

 

− 以下『tokyo古田会news』87号参照 − 


古田武彦 閑中月記 第19回

 

神籠石(こうごいし)談話 (2002.7.10)

梅雨ながら晴天つづき、この六月から七月にかけて、わたしにとっては多幸な日々だった。

もちろんこの齢としだから、相次いで知友の訃報に接する。それだけに身体元気の自分が、何とも有難い。もっとも、明日も知れぬこの身であること、先刻知りすぎている。

 久しぶりに鴬を聞いた。竹林の間から、帰ってきたわたしを待ってくれていたようだった。対馬・壱岐の旅でも、同じ声に接したけれど、気のせいか、トーンに微妙なちがいを感じた。

 帰ってから、ホメロス漬づけの日々。「漬け」といっても、ただ松平千秋のイリヤッド(岩波文庫)を、そばにおいているだけだが、楽しい。かつては土井晩翠の名調子の旧訳や呉茂一さんの旧訳(同じく、岩波文庫)の時代だったから、松平さんの新訳は新鮮である。ギリシヤ語の原文もそばにあり、ときに開く。これ以上の醍醐味はない。少年時代以来のいまだ見ぬギリシヤ≠ヨのあこがれを満喫している。

六月半ばから末にかけて、博多や仙台でいろんな方々と対談し、討論した。貴重な収穫となった。

 それらについては、改めて書きしるすこともあろう。否、それは未だ「途中」だ。これから、さらにじっくりと話し合い、語り合ってゆかねばならないことだから、今ここに断言したり、喋々ちょうちょうしたりするつもりはないけれど、一つだけ、キイ・ワードにふれておけば、例の「神籠石」問題。あの、西はおつぼ山(佐賀県)から東は石城山(山口県)まで、南は筑後山門(福岡県)に至る、累々たる軍事要塞群。

北はもちろん海。

 

その海の北方には朝鮮半島、そして中国大陸がある。新羅や高句麗や唐の一大軍事集団群。これらと戦った倭国側が、みずからは無防備であったとすれば全く不可解だ。すでに当誌の読者には周知のところだけれど、キッチリとまとめておこう。

たとえば、倭の五王で知られた五〜六世紀、有名な倭王武の悲痛な上表文(宋書倭国伝)、これをしたためた王者が、その敵手、高句麗や新羅の倭国本土への「来襲」を恐れ≠ネかったとしたら、それこそ不可解だ。

 また、あの「任那日本府の滅亡」(五六ニ或いは五六〇)という一大事件、その激震に対して、平然と「自己防禦」の気などもたず、そのあと自己(倭国)の心臓部への敵軍の殺到をも一切恐れ≠ネかったとしたら、まさに考えられぬ能天気、いや能足りん≠セ。そうではあるまいか。

「いや、『任那日本府』など、架空だ。」と言いつのる人があれば、次のもっとも決定的な事件≠ワで否定する人は、まさかあるまい。

 それは「南朝(陳)の滅亡」(五八九)だ。

 久しく、倭国が「宗主国」と仰いだ、南朝の天子の完全消滅。この一大事件に驚か≠ネかったら、この世に驚く≠烽フとてない。あの「倭の五王」の後継者(六世紀末の倭王)にとっては。

「驚いた≠ッれども、これに呼応する軍事的対応はしなかっただけ。」

 こんな子供だまし≠ェ通用するだろうか。否、当今、子供≠セって、そんなに甘くはない。先生方は、学校で、子供に問いつめ≠轤黷黷ホ、絶句しよう。もっとも、子供たちが教科書の「暗記」だけに夢中なら、これ幸いだけれども。この問題に「新しい歴史の教科書」も「古い歴史の教科書」も、一切関係がない。あれは、コップの中の嵐。明治以来、皆同じ、なのである。

 明治人も、大正人も、昭和人も、平成人も、何のちがい≠烽ネし。そのようにして百三十年間を、泰平にすごしてきたのだ。金太郎あめのように。

− 以下『tokyo古田会news』86号参照 −


古田 武彦  閑中月記 第18回

 

奴隷神 −「続佐原レジメ」− (2002.5.6)

    一

 四月二十六日、訃報があった。斎藤史(ふみ)さんである。九十三才。お会いしたことはなかったけれど、その痛切な調べに引かれていた。

 過日、隣町(長岡京市)の図書館で、御本人自選の歌集(注1)に触れ、早速当書肆に送付を依頼した。到着後、お礼の電話したとき、

 「今朝、四時、お亡くなりになりました。」

との声を聞いた。悲縁である。

 

 冬、二・二六事件新資料発見の報あり

 何が出るとも勝者の資料 弁護人なき敗者に残る記録とてなし

 歴史とてわれらが読みしおほかたもつねに勝者の側の文字か

             (昭和六十三年)

この昭和十一年の事件は斎藤作品の原点をなす。身近の人々が、或は処刑され、或は生涯不遇となられたからである。その事件が暗霧のように全作品の背後におかれている。鑑賞者、周知のところだ。

 だが、右の二首の歌うところ、古事記・日本書紀という、近畿天皇家作成の資料≠フ真相をうがつものであること、果して作者は知っておられたか。おそらく「否」であろう。(注2)

 「詩人は、みずからのべるところの真実を知らない」と言われているように。

 右の両古典は、白村江の敗戦のさいの中心王朝、倭国(九州王朝)の存在≠消し去っている。「勝者」たる大唐(北朝系)の意を迎えるため、かつて南朝に帰服し(倭の五王)、やがて南朝の滅亡と共に、みずから「日出ずる処の天子」を名乗った「倭国」(九州王朝)という「敗者」を、歴史から消し去った。

 代ってみずから「万世一系」めいた偽称≠行なった。それが両古典の、になった使命である。

 二首は、見事にそのような歴史の真相を突いた。

 七月十二日、処刑帰土。わが友らが父と、わが父とは旧友なり。わが友らと我とも幼時より共に学び遊び、廿年の友情最後まで変わらざりき。

 北蝦夷の古きアイヌのたたかひの

 矢の根など愛する少年なりき

            (昭和十一年)

 四年後の歌。

いふほどもなきいのちなれども生き堪えて誠実(まこと)なりしと肯(うべな)はれたき

            (昭和十五年)

 

      二

――― 以下『tokyo古田会news』85号参照 ―――


古田 武彦  閑中月記 第17回

佐原レジメ(2002.3.12)    

一  

二月二十一日、鴬が鳴いた。まだ寒の中、お水取り(三月十二日)はずっと先なのに、もう冬は終わったらしい。

その日、京都の花の家で上岡龍太郎さんと対談した。ここは嵐山に近い天竜寺、豪商角倉了以の邸宅だが、今は公立学校共済の宿舎になっている。午前十一時から六時間半の楽しい一刻だった。

上岡さんがある学者にわたしの学説についての評価をたずねると、いわく、「あれはエンターティメントですよ。」と。
 なるほど。今、日本列島各地で「聖徳太子展」が行われている。けれども、かつてわたしは法華義疏の顕微鏡撮影を行い、その第一巻冒頭部に、鋭い刃物での「切り取り」があることを発見し、その写真とともに報告した(1)。「所蔵者の名」のあるべき位置だ。

 以来、十四年、どの学者も、一切これを不問に付してきている。もちろん、右の「聖徳太子展」でも、一言もこれに触れない。従って、同所における、聖徳太子関係の諸書籍販売にも、一切その気(け)はない。(古田著『古代は沈黙せず』駸々堂、『聖徳太子論争』『法隆寺論争』〈共著〉新泉社、等。)

 故、坂本太郎さんのすぐれた学者的良心のおかげでなしえた、本邦唯一の科学調査とその詳細な報告論文も、一個の「エンターティメント」と「歪称」するとは。坂本さんの後を継ぐ♀w者たちも、堕ちたものである。

――― 以下『tokyo古田会news』84号参照 ―――

 

古田 武彦  閑中月記 第16回

荒神

(2002.1.12)    

垣根に椿の花が満開である。竹の林の間を抜ける冬の風に耐えて、いのちを目いっぱいにふくらませている。もう、春は近い。そんな思いにさえさそわれる。

歌集が送られてきた。平石眞理さん。東京の方だが、穂積生萩(なまはぎ)さん(『私の折口信夫』中公文庫の著者)と一緒に京都に来られた時、お会いした。穂積家所蔵の折口信夫書蹟展が北白川の京都造形芸術大学でおこなわれたときである。

そのときは、折口信夫の女性の愛弟子≠ニして著名な生萩さんに連れ添う、つつましやかな「つき人」といった印象だった。生萩さんの主宰する同人誌『火の群れ』には、一日、部屋の中で一緒に暮らす蝿の姿が丹念に愛情をこめて歌われていた。素々とした、そのたたずまいにも似つかわしく思われた。しかし、それは錯覚だった。うわべにすぎなかった。今回の歌集『どすこい董』()

には冒頭に

海賊の血潮はたぎる 大平洋 裸一貫祖父は越えけり

紀の国(和歌山県)の御出身である。

情強き紀州女の血の潮 逆まく海を叱りて立てり

圧巻は「逆まけ逆まけ」の題のもと、「大逆事件に処刑されし十二人の一人、大石誠之助を憶う」という序辞のもと、列示された歌だ。

慕わしや 貧者に厚き誠之助 南紀に焼ける墓石を抱けば

黒潮よ 逆まけ逆まけ熊野灘 大逆罪の墓標逆まけ

小さなる墓石の撰文やさしかり 心こめけん堺利彦

平成に天皇元首の声高ら 誠之助の墓朽ちゆくのみぞ

反逆は紀州の血なり 平石眞理 大石誠之助 処刑されんとも

部屋の隅に生きつづける小さな蝿のいのちに愛惜の念をこめる作者の心の耳は、遠く深い故郷の熊野灘のとどろきをひとときも忘れたことがないようである。

――― 以下『tokyo古田会news』83号参照 ―――


  

 

古田 武彦  閑中月記 第15回

文殊の旅

(2001.11.15)

 

  一

 犬も歩けば棒にあたる。今回の旅は棒だらけだった。それもすばらしい、日本の古代史の中にそそり立つ秘密の棒、また地中裏深くひそむ謎の棒、それらに次々とぶっつかった。すばらしい収穫の果実、鈴なりの秋の旅となったのである。

当初は、そんなつもりではなかった。

前号(81)に掲載されていた「丹後・但馬・若狭古代史の旅」の企画(第一面)を見てわたしは担当の高木博さんに連絡した。

「初日(一一月九日、金)のお昼休み、大江あたりでお目にかかりましょう。皆さんに御挨拶するためです。」

同じ京都府、言うなれば御近所≠セ。だから、お会いして、もし時間があれば、このあたりのお話でも。そう思ったのである。もちろん、わたしの頭には、翌日行かれる籠の神社のことがあった。『古代史の十字路万葉批判』(東洋書林)の第二章で扱った。万葉集冒頭の、いわゆる「雄略の歌」が実は、籠の神社を「作歌場所」とする大己牟遅(おほなむち)の命の歌ではないか、という従来の万葉学未想到≠フテーマである。その舞台だった。

この神社にまつわる、種々の貴重な研究経験があった。そのお話でも、と思ったのである。

 

   二

数日して高木さんから御連絡があった。

「第一日に、大江から城崎までバスに同乗していただけないでしょうか。そこで一泊して籠の神社まで御一緒していただけませんか。」

わたしは躊躇した。その金(第一日)・土(第二日)は、原稿執筆などの予定があったからである。

しかし、熟慮の末、承諾した。籠の神社で、有名な伝来系図や前漢式鏡・後漢式鏡を拝見できるためには、旧知の私が同道した方が妥当、そのように判断したからである。

けれども、事態はさらに転回した。

当日も迫った或る日、再び高木さんから要請が来た。

「全行程、御一緒いただけないでしょうか。」

 それは、同行されることになった西村俊一さんからの御要請だという。

 

――― 以下『tokyo古田会news』82号参照 ―――


古田 武彦  閑中月記 第14回

待望の一書

(2001.8.13)

 

   1

八月に入ってすぐ、東北から北海道へ旅した。京都は連日三十数度の、うだるような暑さだったから、青森から札幌への道は有り難かった。
 青森は、ねぶた祭の初日だったけれど、久しぶりにお会いする方々(青森、市民古代史の会)は、みな親切だった。熱意が身に沁みてきた。鎌田武志さんの蒔かれた、一粒の種子は着実に緑陰の蒼樹となっていた。
 札幌の朝の街路の散歩、それは最高だった。地元の方々が、短い夏の一週間か旬日に期待される”暑熱”とは程遠かったけれど、わたしにとっては何よりのプレゼントだった。
 待ちかまえておられた会の方々、そして一般の参加者のたぎる熱意が、二日間にわたって。わたしに疲れを忘れさせた(古田史学の会、北海道)。
 今年の三〜四月の富士市、藤沢市(江ノ島)の日々(古田会)をなつかしく思い浮かべながら、帰途についた。千歳から伊丹への飛行機の中で、わたしは多くの人々に支えられる幸せをかみしめていた。本来、たったひとりの探求だった。今も、それに始まり、それに終わっているのだけれど、まことに望外の幸せとわたしには言う他はない。

   2 

この五月下旬、ようやく待望の一書を入手した。『検証、日本の前期旧石器』(春成秀爾編、学生社、五月三十日刊)だ。出版社から直送してもらったのである。

 

――― 以下『tokyo古田会news』81号参照 ―――


 

古田 武彦  閑中月記 第13回

泰山の夢

(2001.5.14)

   1

鶯が鳴いた。ゴールデン・ウィーク明けの五月七日の朝だった・いつものように三月から鳴きつづける、といった年ではなかった。何か物足りなかった。それが、やっと鳴いた。安心した。

 代って、と言うべきか、今年は竹林の一角で茗荷が満開だ。思わず、こんな、似つかわしからぬ言葉を使ってみたくなるほど、一面に、競うように伸び立っている。わたしの大好きな、茗荷のシーズンが到来するのも、もう遠くはない。

  2

竹林の間の山道をたどりながら、いつか思い出していた。あの泰山の夜明けを。九日間に及ぶ研究旅行、各大学や各研究所の歴訪の中で、一つの変った経験、それが泰山上の一泊だった。そこから山頂へ八分、そこで日の出を見たのだった。荘厳というより、壮麗といいたい一瞬だった−−−。四月十五日(日)。

 

――― 以下『tokyo古田会news』80号参照 ―――

 

  


古田 武彦  閑中月記 第12回

悲歌の真実 −弟橘比売−  

(2001.4.4)

   1

東海から南関東への旅を終え、洛西の竹林に囲まれた自宅に帰り着いた。3月27日から4月2日まで、1週間にわたる日程だった。

その間に、講演2回(富士市と藤沢市)、それにはじめての試みとしての、高校生・大学生を中心とした「車座のレクチュア」もあった。富士市立自然少年の家である。関係者のご理解をえて、大成功の楽しい三日間となった。大学院生、中学生も加わっていた。
その上、主催者(古田会)のご配慮で、そのあと、熱海の「休憩の1日」が設定されていたのも、有り難かった。何回もお湯につかった。
 「これじゃ、百才まで死ねないかもしれませんね。」
そんな冗談が口をついて出たのである。

 

  2

翌朝(4月3日)、発見があった。昨夜遅く帰宅したののだけれど、旅行中に聞いた田遠清和さん(藤沢市、古田会員)の声が耳から離れなかった。

「あの、弟橘比売の歌おかしいですよね。」

もちろん、有名な

さねさし相模の小野にもゆる火の火中に立ちて問ひし君はも

の歌だ。

 

――― 以下『tokyo古田会news』79号参照 ―――

 

  


 

古田 武彦  閑中月記 第11回

転用の法隆寺

(2001.3.4)

   1

 もう「お水取り」もま近いまだひえびえとした朝夕である。

関西では、東大寺のこの行事(3月12日)が季節の目安とされている。かって東京へ移住したあとも、この時節になるとこのことをいつも想起して苦笑した。

千客万来どころか、竹林の間を吹き抜ける風だけが耳を打つ、冬の日々だけれど、新聞やテレビ、それに知己の人々の暖かい来信によって心を踊らせるニュースの相次ぐ昨今である。

その一つ、ひとつ、克明にしるしとどめたいけれど、今回は一先ず焦点を一点にしぼりこんでみよう。

それは、法隆寺の五重の塔成立年代をめぐる問題である。

 

  2

今年(2001)の2月21日、そのニュースは各紙の一面を飾った。法隆寺の心柱伐採は594年だという。奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの光谷拓実さん(発掘技術研究室長)の成果である。

 

――― 以下『tokyo古田会news』78号参照 ―――

 

  


古田 武彦  閑中月記 第10回 

 神の手の論証

(2001.1.4)    

   1

 年末から元旦にかけて、除夜の鐘につづく神社参拝。恒例の年中行事のはじまりである。

もっぱら、テレビで拝聴しつつ、ゆっくり休ませてもらう、それが我が家のならわしながら、

「あれは、見事な神仏習合の姿だな。」

新年の風呂につかり、竹林を眺めつつ、そう考えた。

もう何年か前、孫(長男)を連れて東寺へ行き、鐘の音をすぐそばで聞かしてやったことがある。

「生(なま)の、鐘の音を聞きたい。」

テレビっ子らしい、その要望に応えた二人連れである。昔は通い馴れた、西大路駅(JR)から洛陽高校への道だけれど、誰一人、人にも逢わぬ、裏の帰り夜道が珍しかった。今も、深く印象に残る。

 

  2

――― 以下『tokyo古田会news』77号参照 ―――

 

  


古田 武彦  閑中月記 第9回 

 さわやかな応答

(2000.9.6)    

   一

 竹林の間に心熱きお便りがとどき、わたしも燃えるひとときをすごす。そういう幸せに恵まれた。東京の近隣に住まれるYさんの信書である。

手紙だけではない。当の問題に関連する、自ら物された数編の論文も同封されていた。年に一回、この問題(アメリカの政治思想)に関する雑誌を発刊されているようであるから、やはりその道の“プロ”、専門的研究者なのであろう。

Yさんは年来の、わたしの著書の愛読者だという(多元的古代、関東の会員)。講演会にもお出でいただいている、とか。

今回、分厚いお手紙をいただいたのは、今年五月刊の『九州王朝の論理』(明石書店)の中に、次の一節を見出されたからであるという。

「たとえば、例のアメリカの独立宣言ですね。英語原文から解釈すると、わたしの読解力では、人間がみな平等だと言っているとは見えないんですが、まさに白人が平等で、黒人を奴隷として使役する制度・奴隷制は白人の当然の権利としか読めない。

それでそのことを断崖から飛び降りるような気持ちで書いたのですが - - - - - 。『その通り』とか『そんな馬鹿な』とか、反応を期待したのですが、あっても良いと思うのですがどっちもない。」

  (『失われた日本』<原書房刊>に関して)

右の本の第十六章「天は人の上に人を造らず(福沢諭吉への史料批判)」の中で、アメリカの独立宣言について論じた一節、その問題提起のことである。

従来の常識、わたし自身、高等学校でこの宣言について解説してきたとき、いつも採用してきた(信じこまされていた)理解と、真っ向から対立する立場だった。だから、わたしが右の問題提起を「断崖から飛び降りるような気持ちで書いた」とのべたのも、決して過言ではなかったのである。

この一文を読み、Yさんは専門家の目からわたしの立論の「非」を正そうとして下さった。これ以上の幸せはない。

 

  二

――― 以下『tokyo古田会news』75号参照 ―――

 

  


古田 武彦  閑中月記 第8回 

 火中の栗  

(2000.7.14)    

   一

 竹林の間の道を辿りゆくと、さまざまなイメージが反芻されてくる。真理の小道を歩む年老いた一牛にとって、それは珠玉の時間である。

 この二ヶ月間、あまりにも所得が大きかった。すぐれた先達やすばらしい後生の研究にふれ、無価の所得に心が輝いた。その一粒、ひとつぶを、機を失せぬうちに、ここにしるしとどめておこう。

 

   二

六月十六日()、朝日新聞の朝刊に三笠宮(崇仁) に関する記事が掲載されている。前日、東京都文京区のホテルで開かれた平山郁夫さん(日本画家)の古希の祝いに出席、そのあいさつの一節である。

 「戦時中、中国での日本軍の残虐行為を間近にして、身の縮む思いをしました。そのことを昭和天皇に報告したという経験もあります」

と。平山さんが日中の文化交流に貢献していることに関連しての一節だった、という。

けれども、このさい、何も右のような一節に「ふれねばならぬ」事情があった、とも思えない。また、「うっかり、ミス」で口をすべらしたものとも思えない。ことが、ことであるから、やはり「意識して」の一言だった。そのように率直に理解すべきであろう。

 日本軍の、中国大陸における「残虐行為」について、最近諸種の議論がある。従来の、たとえば朝日新聞社の本多記者の現地(中国内部)取材報告に代表されるような「日本軍、残虐行為」論に対し、これを「自虐史観」による“虚妄”と見なし、逆に、日本国家と日本軍の一連の行為を以って「アジア諸国の独立の契機」として再評価しようとする立場もある。その他、各論者に各説があろう。

 このような「状況」を見、そして考え、あえて三笠宮はみずから、「証言者」となろうとされたのではないか。いわば「火中の栗」を拾われたのである。八十四才の決断だ。

 

――― 以下『tokyo古田会news』74号参照 ―――

 

  


古田 武彦  閑中月記  第7回 

 難波の源流  

(2000.5.14)    

   一

 今年は鶯が鳴かない。3月24日と4月2日に聞いた。それ以後、5月中旬まで聞いていない。何か理由があるだろう。

 桜が十日近く遅れた。東京が満開とのニュースを聞いても、ここ洛西の地はまだだった。繊細な小鳥は南へとエリアを広げたのかもしれぬ。

 「植生」つまり“植物のエリア”から、思いがけない発見が展開してきたのである。懸案の「仁徳天皇の歌」だ。古事記の仁徳記に出ている。

 『新古代学、1号』で、富永長三さんが先鞭をつけられた。仁徳が淡路島に座して作った歌のように“語られているけれど、この地からは「おのごろ島」は見えない。

              おしてるや難波の埼よ出で立ちて我が国見ればあはしまおのごろじまあじまさのしまも見ゆさけつしま見ゆ