『想いは言葉に乗せて』


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四*練習試合(後編)



 美術室に行くと、わたしたちが一番乗りだった。切り裂かれてしまったわたしの絵が乗っていたイーゼルは片付けられていて、それ以外はなにも変わっていなかった。なんだか胸がぎゅっと締め付けられる。
 決意はしたものの、やっぱりこの空間にいると辛い。
 今日はサッカー部の練習開始よりも早く来ていたので、外に目を向けてもまばらにしか人が見当たらない。
 クロッキー帳を片付けているところに行って今まで描いてきたすべて取り出そうとして、そこでも異変に気がついた。どれだけ探しても、わたしのクロッキー帳が見当たらないのだ。

「……巡」

 震える身体を抱きしめ、離れた場所で準備をしている巡の名前を呼ぶ。

「どうした?」

 あまりの出来事に、棚に身体を預けて、かろうじて立っていられる状態だ。

「わたしの……クロッキー帳が」

 声が震えている。
 巡は慌ててわたしの側に来て、椅子に座らせてくれた。そしてわたしの代わりに棚を探してくれている。

「……ないな」

 ここにクロッキー帳を片付けているのは一昨日、巡も見ている。

「くそっ」

 巡は声を荒げ、棚を叩く。わたしと巡しかいない美術室にその音が響く。反射的に身を縮める。

「……ごめん、驚かせた」

 大丈夫と首を振りたかったけど、出来なかった。
 巡は長めの前髪をつかみ、きつく目を閉じている。あまりにも険しい表情に、身動きが出来ない。
 とそこへ、わたしたちの横の窓がこつこつと叩かれた。顔を上げて外を見ると、そこにはなぜか土井先輩が立っていた。突然の出来事に、頭に血が上る。顔が真っ赤になって、今のわたしはゆでだこみたいになっているような気がする。
 巡も顔を上げた。
 土井先輩は窓を開けるように鍵を指さしている。わたしは動揺していて、動くことができない。巡が鍵を開けてくれた。

「皆本、来たぞ」
「おはようございます、土井先輩。忙しい中、すみません」

 巡と土井先輩の会話に、いつの間にこの二人がこんなに親しい仲になっていたのかと驚く。

「今日は午前中はフリーなんだ。おい、皆本。おまえ、おれを呼んだ責任をとって、今からやる練習試合に出ろ」
「えっ。やっ、オレ、足手まといに」
「ほー、知らないとでも思っているのか? いいから出ろ!」

 土井先輩の有無を言わせない言葉に巡はぶつぶつと文句を言いながら、クロッキー帳がおさめられている棚から一冊取り出し、わたしに手渡してきた。

「これ、オレの。とりあえず、間に合わせになるけど、今日はこれを使えばいい」
「え、でも」
「いいから、受け取っておけ。おまえ、これからの出来事で絶対にクロッキー帳がほしくなるから」

 巡はいたずらっ子のような笑みをわたしに向ける。

「皆本、早くしろ!」
「はーい」

 巡は気の抜けた返事をして、窓を閉めるとわたしに敬礼をして、美術室を出て行った。
 一人残されてしまったわたしは、巡から渡されたクロッキー帳を呆然とみていた。
 閉じた窓越しからでも聞こえる、ホイッスル。
 すでに癖になってしまっているわたしは、定位置に椅子を持ってきて、ぼんやりと外を眺める。
 いつもなら挨拶をして準備体操を始めるというのに、今日はなんだかいつもと様子が違う。
 フィールドの中央にサッカー部員が集まり、マネージャーがなにかを手渡している。見覚えのあるそれに、まさかという思いが駆け巡る。
 赤と青。
 あれは、以前、練習試合の時に見た、ゼッケン。
 遠目からでも土井先輩と巡はしっかりと分かる。土井先輩はあの時と同じ赤。巡は青。巡はいつの間に着替えたのか、白いTシャツにハーフパンツ。靴もサッカーのスパイクというわけではないけど、スニーカーだ。こうやって見ると、巡は身長もあるしバランスの良い体格をしているみたいで見ごたえがある。デッサンの対象としてもなかなかいいのではないだろうか。
 わたしは思わず、巡から借りたクロッキー帳を開き、鉛筆を走らせていた。
 巡と土井先輩が並んで立っている。なにかを話しているらしく、二人とも笑顔だ。
 フィールドに広がり、準備体操が始まった。
 わたしは夢中で土井先輩と巡を描く。
 巡は本当にわたしのことがよく分かっている。
 準備体操が終わると、赤と青のゼッケンをつけた人たちがフィールドの真ん中に集まってくる。巡はわたしが見ているのが分かっているのか、こちらに向かって親指を立てて不敵な笑みを浮かべた。
 真ん中に顧問の先生。
 甲高いホイッスルが鳴り響き、試合が始まった。
 久しぶりにフィールドで見る土井先輩の動きは、相変わらず美しかった。他の部員より明らかに群を抜いている。土井先輩にボールが渡ると、だれもカットすることが出来ないでいる。敵チームのフィールドの半分ほどドリブルして、待機しているフォワードにボールをキックする。ボールを受け取ったフォワードは少しだけドリブルをして、シュートを放つ。
 白と黒のボールは白いネットを揺らし、あっという間に赤チームは一点を先取した。
 巡を見ると、悔しそうな表情をしている。負けず嫌いな巡はきっとそれで、闘争心を激しく燃やされたのだろう。Tシャツの袖をめくり上げ、日に焼けていない白い肩をむき出しにしている。その表情が悪ガキのようで、そこだけクローズアップしてクロッキー帳に描き込む。
 赤チームは土井先輩がいることで攻守のバランスがよいみたいで優位に立っている。きっと、土井先輩の適切な指令が行き届き、みんなの動きがいいのだろう。
 一方の青チームは巡という想定外の人物が入ったことに戸惑っているようで、どうすればいいのか悩んでいるようだ。そのせいでみんなの動きがばらばらで今一つのようだ。
 それでも両者の力はそこそこ拮抗していて、ゲームスタート時に赤チームに一点を許して以来、ぎりぎりのところで攻防している。
 ゲーム時間の後半になり、巡の動きがいきなり、良くなった。それまで遠慮があったのか、様子を見ていたのか。それは分からないけれど、赤チームが持っていたボールをカットして、そのままの勢いでドリブルを始めた。赤チームが巡のボールをカットしようと迫ってくるのだが、これがまた面白いように翻弄してかわしていく。巡はいつの間に練習をしたのだろうか。
 青チームのゴール前だったはずなのに、あっという間にフィールドの真ん中を抜け、赤チームのゴールの手前までやってきていた。そのままシュートをするのかと思ったら、少し前にいた同じチームのフォワードにパスをした。その人は受け取ると素早くシュートをした。
 赤チームのゴールキーパーが腕を伸ばす。ボールに触れそうになりながら、腕の間を通り過ぎ、白いネットを揺らした。

「やった!」

 わたしは思わず、小さくつぶやく。
 これで一対一になった。
 フィールドの真ん中あたりに立っている土井先輩は悔しそうな表情を浮かべている。
 そこで試合時間は残り五分くらい。これで勝負がつかなければ、PK戦になるのだろう。そこまで持ち込んだ巡ってすごい。
 どちらも負けていられないと思ったようで、青チームはさっきまでのぎこちなさはどこへ行ったのやら、連携が取れだしたようで展開が読めなくなってきた。青チームはやはり、土井先輩をマークしているようで思うように動けていない。一方、巡はというと、やはり赤チームにしっかりとマークされてしまったようだ。
 お互いが譲り合わないせめぎ合いが続き、残り一分が見えた頃。土井先輩が動いた。
 近くにボールが来たのを知った土井先輩はガードしている青チームをあっという間に翻弄して抜き去り、ボールをカットした。それを見て、巡もあっさりとガードを外し、土井先輩に迫る。巡は土井先輩のドリブルをカットするためにスライディングをしたが、あっさりとかわされる。それでもすぐに立ち上がり、土井先輩を追いかける。
 二人は並んで走り、巡が少し土井先輩を追い越した。
 しかし。
 土井先輩はそこで強くキックをして、ゴール前に待機しているフォワードに渡す。そのままシュートされ……見事、ゴールキーパーを抜き去り、ゴールの中に吸い込まれた。
 そしてそこで、無情にも終了のホイッスルが鳴り響いた。
 ──すごい。
 わたしは今の光景を忘れないうちにとクロッキー帳に鉛筆を走らせる。
 巡が土井先輩のドリブルを遮るためにスライディングした場面。
 カットできなかった時の悔しそうな表情。
 土井先輩を追いかける姿。
 並んだ時の表情。
 抜き去った時の二人の表情。
 土井先輩がキックしたときの動き。得意げな表情。
 どれもこれも素晴らしくて、無我夢中で描き込んだ。
 そして気がついたら──巡から借りているにもかかわらず、クロッキー帳全部を使い切ってしまった。
 そこでようやく、冷静になった。

「あ……」

 借りておきながら夢中になりすぎた。

「奏乃、いい絵が描けたか?」

 首からタオルをさげた巡が声を掛けてきた。

「巡……そのっ」

 わたしの手の下にあるクロッキー帳を素早く抜き取り、巡は目を細めてぱらぱらとめくっている。

「おっ、すごいじゃん。これだけ描いてくれたら、オレ、頑張った甲斐があるな」
「あの……ごめんね、巡。借りておきながら、その、使い切って」

 謝罪の言葉に巡は驚いたように目を見開き、わたしの顔をのぞき込む。

「なにを言ってるんだ。むしろ、描いてなかったら怒るところだ。オレさま自らが身体を張ったのに、奏乃が絵に残してくれなかったら、努力が水の泡だろう!」

 それが巡流の慰め方だと知り、涙が出そうになった。それを悟られたくなくて、わたしは顔を逸らす。

「じゃあまた、巡のクロッキー帳を全部、使い切ってやるんだから」
「おー。そうしてくれ。奏乃、おまえは絵を描いているときが一番、楽しそうだ」

 昨日はもう、絵を二度と描きたくないとまで思ったのに、巡はそんなことを言ってくれる。
 お礼を言いたかったけど、激しく照れくさくてなにも言えなくなる。

「昼を食べたら、どれにするか決めよう」
「……うん」

 さー、飯だ! と言いながら巡はクロッキー帳をわたしに渡してきた。ありがたく受け取り、胸に抱える。
 巡は本当にいつも、こうやってさりげなくわたしを助けてくれる。
 それがどうしてだなんて、そのときのわたしは考えも及ばなかった。



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