【とおる】~理想の世界~(後編)


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     *


「これが【理想の世界】とは、笑えるな。なんという自己犠牲。美しきかな、犠牲愛」

 アルバイトの帰り道、いきなり後ろから声が聞こえた。どこかで聞いたことのある声にオレは驚いて振り返る。そこには、栗色の癖のある髪に茶色の瞳の新井先生が立っていた。

「自分の欲望のままにあの女を組み敷けばいいじゃないか。ここは夢の世界。現実世界にはまったく影響がない。現実世界と同じように我慢することはない」
「な……にを」

 新井先生の言っている意味が分からない。
 理想の世界? 夢?
 こんなに苦しくて、痛くて、辛いのに。これが夢なわけ、あるわけないじゃないか。

「現実でもう一度、あの苦しい思いをしたいのか」

 新井先生は目を細めてオレを蔑むように見ている。

「自分の欲望のまま、願えばいい」

 欲望のまま……?

「りさという女がほしいのなら、そう願えばいい。ここはおまえの夢の世界。思った通りになんでも叶う」

 それだけ言うと、新井先生は去って行った。
 ここが夢の世界だって? りささんと繋いだ手のぬくもりは本物だった。夢なわけ、ないじゃないか。
 夢ならば──もしもこれが夢でオレの願いどおりになるのなら、りささんからオレに逢いに来てほしい。
 そんなこと、ありえない。りささんは幸せなんだ。オレのことなんて……。

「とおるくん!」

 聞き覚えのある、あれほど聞きたいと願っていた声でオレの名前が呼ばれた。これは、本当に夢なんだ。
 振りかえるとそこにはりささんが笑顔で立っていた。
 逢いに来てくれるだけでいい。願った時はそう思っていた。でも、それは有り得ないし無理だと思っていたのに。
 りささんは、オレの目の前に現れた。
 これが夢ならば……。
 りささんに駆け寄り、抱きしめる。少し見下ろすと、りささんの顔があった。
 視線が合った。りささんは瞳を閉じた。ごくりとオレは息を飲み、そのまま顔を近づける。夢の中で何度も練習したじゃないか。
 恥ずかしい話、実はキスをするのは初めてだ。
 付き合っていた子がいなかったわけではない。だけど、手を繋ぐまではいけても、なかなかキスができないでいた。
 それを理由に振られていたけど、相手に対して好きという気持ちはあったけど、そんな軽い気持ちでキスをするなんてとてもではないけどできなかった。
 でも、りささんは違う。妄想の中で何度もキスを交わし、その服を何度も脱がした。
 そうして初めて交わしたキスは……カッコ悪いことに前歯ががちんとりささんにあたってしまった。

「ごっ、ごめんっ」

 ちょっと痛そうな表情をしたりささんに申し訳なくて、謝ったら笑われた。

「とおるくん、もしかして……初めて?」

 図星だったので素直にうなずいたら、なんだかとてもうれしそうな表情をされた。

「じゃあ、おねーさんが手ほどきをしてあげる」

 りささんは積極的にオレの手を引き、そういうホテルがたくさんある場所に連れて行かれた。
 当たり前だけど初めてだ。
 ドキドキしているオレをしり目に、りささんはひとつのホテルに入り、パネルを見て選ぶ。鍵を受け取ってエレベーターに乗り込む。
 オレたち以外のカップルと乗り合わせるのは嫌だな、と思ったけど、幸いなことに二人きりだった。
 ずっと繋がれた手は、とても温かくて……これが夢なわけない、と何度も自分に言い聞かせるが、そう思えば思うほど、この自分にとって都合のいい展開は明らかに夢なのを知る。
 むなしい気持ちもあったけど、現実世界ではそう願っても有り得ないことだったので、自分の妄想の赴くままにする。
 鍵を開けて室内に入る。
 もっと艶めかしい部屋を想像していたが、以前、遠征の時に泊まったことのあるビジネスホテルのようだった。
 それでもベッドは明らかにそういうことをすることを前提とした大きさだった。

「一緒にシャワーを浴びようか」

 思った以上の積極的なりささんの言葉に、こちらがどぎまぎしてしまう。
 りささんはお風呂と思われるところに一人で消えていった。
 どうすればいいのか分からず、所在なく入口にたたずんでいた。

「ほら、中に入って」

 お風呂場から戻ってきたりささんに中に入るように腕を引かれる。力強く引っ張られ、バランスを崩してしまった。
 床の上に、りささんは倒れ、その上に覆いかぶさるようにオレがいた。
 りささんの少しうるんだ瞳に自分の中の理性が音を立てて崩壊していく。本能の赴くままに任せる。りささんの唇を奪い、服の上から柔らかな山を揉む。

「そういえば、昼間に妊娠検査薬、買って行ったよね」

 思い出して思いきって聞いてみた。

「どうして知ってるの」

 戸惑った声が下から聞こえる。

「あの薬局でオレ、アルバイトしているから」

 知り合いに買うところを知られたとは思っていなかったらしいりささんは、急におろおろとする。

「使ったの?」

 こくり、とりささんはうなずく。

「結果は?」

 ここまで来ておいて、今更聞くのもどうかと思ったが、聞かずにはいられなかった。

「駄目だったの。遅れていたから……ちょっと期待したのに。たぶんね、私が駄目なんだと思うの」

 がっかりとしているりささんになんと言えばいいのか分からず、オレはただ、りささんを抱きしめた。

     *

 お風呂に一緒に入り、泡でぬるぬるになる。りささんの手で全身をなでられ、初めての感覚に全身が震える。
 これが夢だっていうのか?
 こんなにも触れられている感触はリアルなのに。
 アンリアルな状況だけど、感覚は妙にリアルで。
 夢なわけない。
 オレはそれが『アンリアル』ではないことを知るために、りささんにしがみつく。

「どうしたの、とおるくん?」

 少し戸惑ったような声。石けんの匂いが鼻腔をくすぐる。皮膚をぬめる感覚。りささんの柔らかな皮膚。初めて触る乳房。

「あっ……はぁん」

 だけど。
 これが『リアル』ならば、今のこの状況は大変まずいわけだ。
 やはりこれは『アンリアル』。
 オレの夢、オレの欲望──。

「りささん、好きだよ」

 夢でもいい。りささんを感じることができれば。
 現実ならば絶対にりささんの
「ナカ」
を感じることなんてできないのだから。
 お風呂からあがり、初めて触れる女性の身体に戸惑う。

「大丈夫、私が教えてあげるから」

 そういうりささんはいつものりささんではなく、妙に艶めかしい。心臓が早鐘を打つ。

「そう、そこを──あぁあっ」

 りささんに言われるがままにオレは触れる。恐ろしくて優しく触るが、りささんにはそれが物足りないらしく、もっと強く、と言われる。
 言われるがままに指を這わす。
 ナカは熱くてねっとりとして……指にまとわりついてくる。
 オレだって男だし、そういうコトには大変興味がある。サッカー部の部室にはその手の雑誌が転がっていた。オレたちはそれを囲んで読んで……一足お先に経験をしたヤツの体験談を交えながらの猥談。
 『百聞は一見にしかず』だが、体験してもよく分からない。
 だけどひとつ言えたことは。最初はやっぱり『みこすり半』だってこと。
 りささんは『充分よ』と言ってくれたけど。

「とおるくん、また、ね」

 りささんはそう耳元で囁いて、夜の街へと消えていった。

     *

 それからというもの、オレとりささんはたまに身体を合わせる仲となった。
 大学では付き合ってほしい、という告白を何度か受けたが……分かっている。
 これは夢で……オレの願望で……。
 自分の思う通りにことが進むのはよくわかっている。告白してきた女の子たちと付き合ったって問題ないわけで。
 でも、首を縦に振ることはできなかった。
 こんな不毛な関係、終わりにしよう。
 いくら夢でも……現実では母さんと……きっと、りささんも待ってくれている。

「りささん、今日は話が……」

 いつもの場所で待ち合わせをして、いつもならそのままホテルへと行くところをオレはそう切り出した。

「偶然ね。私も話が合ったの」

 りささんの表情はいつも以上にうれしそうだ。
 頬が心なしか赤い。
 そんななにげないところが年上の女性なのにかわいい、と思えてしまい、言いだせるのかな、と不安になる。
 カフェに入り、飲み物を頼んでそれをトレイに乗せて席へ座る。店内はほどよくざわついていて、これから話す内容を思うと好都合。

「とおるくん、話ってなに?」

 席に座り、お互い、飲み物を一口飲んだ時点でりささんが早速そう切り出してきた。

「りっ、りささんから先に」

 できるだけ先延ばしにしたくて、りささんに話の主導権を渡す。

「あ、私からでいいの?」

 なんだか今日はいつも以上に機嫌がいいというか明るくて、違和感を覚える。
 浮かれている、という言葉がぴったりなくらい、ご機嫌だ。

「この間、買っていった検査薬をね、使ったの。ほら、二回分のを買ったから、ひとつ残っていたの」

 その一言に次になんと言われるのか想像がつき、心臓が止まりそうになる。
 これは──夢、なんだ。
 オレの望むままの展開のはずだ。
 それならば、次にりささんから発せられる言葉は……。

「あのね、とおるくん。陽性だったの」

 嘘だ。
 有り得ない。
 オレの願望が現れるのなら、そこは
「陰性」
であり、煩わしい避妊なんて考えなくてよくて──。

「もちろん、とおるくんとの子どもよ」

 りささんの憎いくらいの明るい声に目の前が真っ暗になった。

     *

 先ほどまでのざわめきが急に聞こえなくなった。
 明るい店内だったはずなのに、自分の身体さえ分からなくなるほど、今まで見たことのないくらいの闇。闇と身体が溶けあってしまったような、境界線が分からないほどの漆黒。

「なんだ、逃げてきたのか」

 聞き覚えのある嘲笑う声。だけど自分の身体を認識できなくて、声のする方へ向くことができない。

「馬鹿だな。妙なところでリアリティを求めるからああいうことになるんだよ。どうせ夢なんだろう? だったらずっとあの女と繋がったままでいればよかったんだ。リアルだのアンリアルだの。考えるだけ馬鹿らしい」

 この声は、本当にあの新井先生なのだろうか。

「おまえたち二人しか存在しない世界を用意してやったから。ここでずっと、あの女の身体を貫けばいい」

 拒否をしたいのに、声も出ない。
 首を横に振りたいのに、身体への力の入れ方も忘れてしまったかのように、動かすことができない。

「願っただけで思い通りになるこの世界。ほら、行って来いよ」

 あんなに身体が分からなかったはずなのに、闇と自分の境界があいまいだったはずなのに、その一言でオレの身体はこの世に甦った。

「い……やだ」

 ようやく出た、拒否の言葉。目の前には新井先生が眉をしかめてオレを見ている。

「なにいい子ぶってるんだ。おまえの頭の中はあんなのではすまないほどのえげつない妄想が詰まっているじゃないか。全部あの女相手にすればいいだろう。文句は言われない。むしろ喜ばれるぞ。おまえがそう、望んでいるのだから」
「違う!」

 必死で否定する。あれは違う。そうならないからこそ思う、願望というのもあるのだ。

「俺が見たいんだよ。行って来いよ」

 新井先生に乱暴に背中を押され、一瞬後にはどこかにいた。



「とおるくん……私といいこと、しましょ?」

 裸体のりささんがオレに絡みついてくる。そのお腹は驚くほど大きくて、一目で妊婦と分かる。

「ほら、お腹の子も、とおるくんに会いたいって。いつものようにほら、私を貫いて? そうしたらとおるくんに会えるんですって。うふふ、やらしい子よねぇ」
「うわあああああ!」

 なんだ、これは。
 オレはこんなの──望んでいなかった!

「助けてくれ! ここから──出してくれ!」

 オレは閉じ込められた透明の壁を叩く。
 向こうには、憎々しいほどの青空が広がっている。

「ここを、出してくれ!」

 後ろからりささんがオレの腰に絡みついてくる。容赦なく服を脱がされ、握られる。
 あぁ……。だめだ。
 もうそれだけで固くなり、求めている。だけど怖くて振りかえれない。

「とおるくん……私もあなたのこと、大好きよ」

 いっそのこと、オレはこの世界で壊れてしまえば……。

「あはははは……」
「永遠に私たち『二人』でここで過ごしましょう。ねえ、とおるくん。あなたに永遠の愛を誓うわ」

 産まれることのない胎児をお腹に抱えて、りささんは笑う。
 柔らかなお腹を股間に押し付け、のぼってくる。
 重ねられた唇から割りこまれた舌に、意識が遠のく。
 ああ、これでいいんだ──。
 新井先生が言うように、オレは……。