目が覚めると、一番最初に真っ白な天井が目に入った。ここがどこなのか、すぐには分からない。背中にものすごい違和感。あとは……下半身が痺れている。
「とおる?」
その声に視線だけ向けると、母さんの泣きそうな顔が視界に入ってきた。
「手術は無事に終わったって」
そう言われて、ああ、と思い出す。
オレ、膝が痛くなっていつまで経ってもおさまるどころかどんどんひどくなるからと病院に行って……そうしたらいきなり検査入院と言われて。検査をした結果、『骨肉腫』……膝の骨のガンだと告げられた。しかし医師から、今は昔と違って手術をして、そのあとの化学療法でよくなる可能性の方が高いから、告知したんだと言われ……がんばって治していこう、と励まされた。
最初、自分がガンだと聞いて驚いたし、なんでそんなことを告げるんだよ! と苛立ったけど、今では逆に、感謝している。隠されていると不安になるから、思いきって伝えてもらえてよかった。
「とおる、あなたさっきまでずっと、りささんの手を握りしめていたわよ」
母さんはくすくすと笑いながらナースコールを押している。手術に入る前と終わった後にりささんの顔を見たのを思い出した。わがままを言って来てもらったのを思い出し、後でお礼のメールをしておかなければと思い出す。
医師と看護師が入室してきてどんな調子かと聞かれたりいろいろなにかをやってくれている。
とりあえずどうにか生還できたらしい。まだまだ頭がぼんやりするけど、第一の山場と言われた手術は無事に終わったことでほっとした。
それからは治療のためと言われた薬による、思い出すのも辛いほどの副作用とむかつきと調子の悪さ。このままでは死んでしまう、と何度思ったことやら。だけど、母さんとりささんの支えでどうにか頑張ることができた。
「退院、おめでとう」
そうして迎えた退院の日。無罪放免、というわけではなかったけど、家に帰ることができるというだけでほっとした。まだまだ当分の間は気を抜くことはできないけど、それでも病院のあの無機質なベッドの上と住み慣れた自分の家とでは雲泥の差だ。
「こんにちは」
二・三日に一度くらいの割合で、りささんが家に来てくれる。母さんはオレの治療費を稼がないといけないから、今まで以上に仕事をしないといけないらしい。保険の外交員をしているからさすがに保険のかけ忘れとかはなさそうだけど、やはりお金は必要だと思う。
だけど家で寝ているオレのことが心配らしく、りささんの申し出に母さんは甘えているらしい。
オレが手術を受けている間に母さんとりささんの間でなにかやり取りがあったらしいのだが……。それはいくら聞いても教えてくれなかった。
「お昼、なにが食べたい?」
相変わらずの柔らかい笑みを浮かべて聞いてくれるりささん。
だんなさんがいるというのは知っているけど、こうしてオレのことを気にかけて来てくれるのをみていると、オレにもチャンスがあるかも、という思いが浮かんでくる。それが激しい勘違いであるのは百も承知だ。
りささんはオレのリクエストに応えてお昼を作ってくれた。見慣れた家の中のはずなのに、そこにりささんがいる、というだけで別の場所に来たような気がしてならない。
落ち着きなくそわそわしているオレを見て、心配そうに眉根を寄せる。
「とおるくんのお母さんほど料理が上手じゃなくてごめんね」
りささんがオレのそわそわを勘違いしていることに気がついて、あわてて否定する。
「かっ、母さんの料理より美味しいよ!」
「そんなことないわよ。お母さん、煮物料理、上手よね。ついつい食べ過ぎちゃう」
りささんは美味しそうに母さんが作った煮物を口に運んでいる。オレはあまり煮物が好きではない。だけどりささんがあまりにも美味しそうに食べているから口にすると、確かに美味しい。最近、あまり食欲がなかったけど、今日は思った以上によく食べていた。
「やっぱり、お母さんの料理が一番よね」
少しさみしそうに、だけどうれしそうに微笑んでいるりささんを見て、心配をかけていたのだな、と改めて認識する。
ここのところ少ししか食べてない、といつも心配してくれていたから、今日はご飯をお代わりしてまで食べていたのを見て、安心してくれたらしい。
部屋に戻り、りささんの淹れてくれたお茶を飲みながら少し話をする。
「そろそろお母さんも帰ってくるだろうから。私は今日はこれで帰るね」
玄関まで見送っていこうとしたオレをりささんは止める。
「だめよ、寝ておかないと」
おでこをつん、とつつかれた。りささんはそんなに大した意味があったわけではないのだろうけど、あまりのことに驚いた。目を見開き、りささんを見つめる。
だけどりささんはまったく気がついていないようだ。トレイにコップを二つ乗せ、それじゃあまたね、と言って部屋を出ていった。
つつかれたところに両手をあてる。痛いとかそういう感覚はまったくない。むしろ……そこから中心に幸せが広がっていっているようなそんな感覚。頑張っていける、というやる気が湧いてきた気がした。
単純だな、オレ……。
*
骨肉腫、というのは骨のガンだ。骨も日々、細胞が入れ替わっているというのを医師の説明で初めて知った。骨の細胞も日々、生成されているわけだが、なんらかの理由で異常な細胞ができ、それが増殖することで周りの正常な細胞を傷つけていく、と説明されてもやっぱりなんだか納得いかないような釈然としない気持ちだった。
しかし生きている限りは血が通い、すべての場所で細胞分裂が行われているわけなので説明をされてみればもっともで、皮膚や髪の毛、爪といったものと同じで、骨も細胞が入れ替わるのだが、そういう考えがなかったから、なんだか不思議だ。
腫瘍のできた部分を取り除き、化学療法を施す。それが最近の骨肉腫の治療方法らしい。
昔は患部を切断していたのだが、それだと生存率は十から二十%しかなかったという。今は目に見えない転移を予想して化学療法……要するに抗がん剤治療を施すことで五年後の生存率は六割だか七割まで上がっているという。
その化学療法というヤツが結構な曲者で、ガン治療に関しては『副作用のない薬は効果がない』とまで言い切られているほどで、抗がん剤を使用するには副作用はつきものらしい。正常なものまで攻撃してしまうなんておかしいとは思うが、仕方がないらしい。
そんな治療を半年。ずっと入院していた。
白血球が激しく減少するので隔離されたり、その間は病院のベッドの上ですごさなければならなかったり、身体に入れた抗がん剤をいち早く体外へ排出するためにと水分を大量にとらされ……吐き気で飲めないときは点滴で強制的に水分を入れられ、そのせいでトイレが近くなって夜も眠れなかったりとかなり苦しい思いをしてきた。
その間は母よりもやはりりささんが付いてくれていることが多く、その前から抱いていたりささんに対する『想い』が大きくなっていっていた。
でも、彼女には愛するだんなさんがいる。
どうやら少し前はうまくいっていなかったようだけど、最近ではその関係は修復されたようだ。多くは語らないけど、なんとなくわかる。
たとえ二人がうまくいかなくて別れたとしても、オレはりささんの彼氏として名乗りは上げることができない。今のところは問題ないとはいえ、いつ再発するかどうかわからないこの病気。それでなくても年齢差はかなりあるというのに、なにひとつ勝てるものがない。明日のことも不安なのに、何年も先、ともに人生を歩んでいけるかと言われると、自信はない。
ならば、その日一日を大切にしていこう。
だけど、とふと思う。
オレのわがままでりささんをいつまでも縛り付けているのもよくない。
もちろん、完治させてこの先もずっと生きていくつもりではいるけど……もし、もしも。
オレが万が一……死んでしまったら。
りささんはオレのために泣いてくれるだろうか。
そんな悲しい思いをさせたくないと思う一方、死んでしまったら忘れないでほしいと思うわがままな気持ちが胸を締め付ける。
父はオレと母を置いて、死んでしまった。
母とりささん二人を悲しませることになるかもしれない……そう思うと、どうあっても生きなくては、と思う。
そう、
「生きなくては」
ならないのだ。
自分の心にそう言い聞かせ、オレは瞳を閉じた。
*
それからまた、半年は過ぎたと思う。
検査の結果、転移は見られないと言われた。ああ、よかった、とほっとした。
これからまた、定期的に検査にくるようにとは言われたけど、とりあえずの無罪放免。
母とりささんが完治したといってもいいだろう、と言ってお祝いにとちょっと高めなレストランへ連れて行ってくれた。
美味しい料理に素敵な時間。
生きているって素晴らしい。そう思えた。
手術前の普段の生活が戻った。
そうなると、りささんと会う余地がなくなってきた。
りささんとはもう会うことはないのだし、あの人にはあの人の生活がある。
それに、せっかくだんなさんともうまくいっているのに……。
邪魔してはいけない。
元通りに戻っただけだ。
そう自分に言い聞かせるが、感情というものは理性ではどうすることもできない。
考えないでおこうと思えば思うほど、りささんの笑顔を思い出す。
繋いだ手のぬくもりを思い出しただけで……ドキドキする。
その想いを胸の奥の奥にしまいこみ、入院している間の遅れを取り戻すために、そしてりささんへの想いを忘れるために必死になった。
一年遅れで晴れて大学生になった。
自分の闘病生活をかんがみて、抗がん剤の研究者になりたい──その思いを胸に、薬学部へ入学することができた。
学校生活は楽しかった。
勉強は面倒な授業もあったけど、基本的には興味深いものばかり。
アルバイトも身体に負担にならない程度にやった。そうでもしないと、母に学費の面で負担をかけている自覚はあったから。
高校の手術をする前まではサッカーをしていたから、体力は人よりもあると思っている。
だけどそれを過信しないように、と医師に言われていたので、気をつけていた。
アルバイトは薬の知識も養えるからと薬局を選択した。
レジで会計をして、手が空いていたら陳列を手伝うくらいだったが、それでも楽しかった。
おじさんとおばさんが経営する小さな薬局。
チェーン店に比べるといろいろと見劣りする部分もあるけど、それでも常連さんたちに支えられ、細々とやっている、そんなお店。
おじさんとおばさんはいい人だし、お客さんもいい人ばかりだ。
中にはちょっと変わった人もいるけど、慣れると
「とおるくん、飴ちゃんどうかね?」
といってちょっと溶けかけた飴をくれたり……。
困るような人が中にはいるけど、楽しく過ごしていた。
そんなある日、お店に見覚えのある人が入ってきた。すぐにその人がだれか分かり、どきりとする。
「いらっしゃいませ」
自分の声が上ずっているのが分かった。
その女性はオレの声を気にせず、とあるコーナーへとまっすぐに足を向ける。しばしそこで悩み、ひとつの箱を持ち、下を向いたままレジへと持ってきた。
バーコードを読み取り、値段を告げる。女性は財布からお金を取り出し、トレイに入れた。トレイからお金を取り、お釣りを手渡す。
ふとその時、手が触れた。
「あの……」
女性は困ったように声を上げる。その声にハッと気がつく。
「失礼しました」
オレはとっさに女性の手をおつりを渡すふりをして握っていた。
あわてて紙袋に商品を詰め、ビニールの手提げ袋に入れて渡す。
「ありがとうございました」
結局その女性は、オレの顔を見ずにそそくさと店を出ていった。
その女性は買って行った物を見て、心の底から黒い想いがしみだしてくる。
買って行ったものは妊娠検査薬。
女性は──りささんだった。