【はやと】03


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   ◇   ◇

 それからは特に変わりなく、日々が流れて行った。
 さきが深い眠りについてからどれくらい経っただろうか。あるひの夜、静寂を打ち破る一本の電話に起こされた。
 しつこく鳴り響く電話に母が出ているようだった。こんな夜中に間違い電話だった、ではすまないよな、と思いながら電話のところへ行く。
 青ざめている母。今にも倒れそうで、支える。

「分かりました、すぐに向かいます」

 それだけ言うと、母は力なく受話器を置く。

「はやと……さきが……さきが」

 それから先は言葉にならず、俺にしがみついて泣き始めてしまった。父は相当深く眠っているのか、起きてこない。泣いて言葉にならない母の背を軽く叩きながら、いつの間にか小さくなった母を見て、驚く。
 昔は見上げないと顔が見えなかった母。だけど今は、俺の腕の中にすっぽりとおさまってしまっている。いつからこんなに母は小さくなってしまったのだろう。

「母さん、いつからこんなに小さくなった?」

 思わずそんな言葉がぽつり、と出てしまった。ぐすり、と鼻をすする音がして、母は苦笑するように、

「わたしが小さくなったんじゃなくて、あなたが大きくなったのよ」

 そう言われ、そうなのか、と思う。いつの間にか、母の身長を越し、父の身長もたぶん越している。

「子どもは親の元を巣立っていくというけど……さきは……早すぎたわ」

 呟きに血の気が引いた。

「さきは」
「今、病院から電話があって……。先ほど、亡くなったと」

 嘘だ。そんなの、うそだ。
 俺は昨日、ベッドの上で幸せそうな表情で眠るさきをはづきと一緒に見て、改めて復讐を誓ってきたばかりだったのに。
『さきにこんな悲しい気持ちを抱かせたあいつ……並大抵の復讐では許せないわ』
 俺は昨日までに考えたさきの彼氏への復讐のプランを話した。はづきは信じられない、と俺の左手をじっと見ていたが、どうやらこの白い札は俺以外には見えないものらしい。
『はやと先輩を疑うわけじゃないけど、わかったわ。でも、その札、寝ている人にしか使えないんでしょう?』
 そうだ、と伝えるとはづきはにっこりと微笑み、
『分かった。任せておいて』
 そういう会話を交わしたばかりだったというのに。
 父を起こし、タクシーを呼んで病院に向かった。ナースステーションに行くと、無言で頭を下げられ、病室ではない場所に連れて行かれた。霊安室、だった。白い布を顔にかぶせられ、静かに横たわっていた。手を触ると冷たく、さきがもう死んでしまったことを知り……どうして、と叫びたい衝動にかられる。
 なんでさきは、十六でこの世を去らなければならなかったのだ──?
 さきは、夢の世界で、理想の中で生きていたのではないのか?

「さき、どうして……」

 母は力なくさきにとりすがって泣いている。父はそんな母を支えている。
 俺は……涙も出なかった。
 部屋を出て、ロビーに向かう。ロビーは明かりが消えていて、外を見ても周りの建物の電気は消えていた。
 なんでこんなことに……。身体の力が抜けて、ソファに沈み込んだ。

   ◇   ◇

 さきの葬式を終え、ようやく落ち着いてきた頃、はづきから連絡があった。
 さきの葬式の時にちらり、と顔を見たきりだったので気にはなっていたけど、そこまで気持ち的に余裕がなくて、連絡を取っていなかった。
『土曜日に計画を決行しようと思うの』
 携帯電話の向こうのはづきの声は暗く沈んでいる。
『寝たら連絡するから、すぐに入ってこられるように待機しておいてもらえる?』
 はづきに言われるがままにうなずく。時間と場所を確認してから電話を切る。
 とうとう……これを使う時が来たのか。
 左手の白い札を見つめ、握りしめる。握りしめてもそれは質感がなく、素の手をにぎりしめているように感じるが、指の間からは白い札が見えている。
 これもなんだろう……。
 疑問に思いつつ、死んでしまったさきにうまくいくように願う。
 おまえの無念の気持ち、俺が晴らしてやるからな。
 父から葬式の後に話を聞かされ、いたたまれない気持ちになった。
 あの羽深が言っていたように、さきのお腹には子どもがいたらしい。なんでももうすでに五か月は過ぎていたらしく、さきはだれにも相談できずに思い悩んでいたらしい。
 だからって……夢の世界に逃げたからと言って……どうにもならないだろう。
 あの時、相談してくれてさえいれば。俺が気がついてあげてさえいれば。
 もう、後悔しか思い浮かばない。この後悔の念も、さきにこんな悲しい思いをさせたやつに復讐をすれば消える。
 はづきも同じ思いらしく、暗い光を宿して宙を見つめていることが多くなった。
 しかし、この計画にははづきに危険が及ぶ。
『あたしの心配はしないで。あいつに復讐することが、あたしの今の生きがいなの』
 そのなにも映していない黒い瞳が悲しくて、胸が痛む。そんな悲しい顔より、以前見た笑顔が見たい。そう思っても、その気持ちを素直に言えなくて心が苦しい。
 俺の中ではいつからか、さきの気持ちの復讐よりもはづきに逢いたい、という気持ちの方が大きくなっていた。
 だから、はづきがさきのことでこんなに暗い瞳をしているのが辛くて、どうすればいいのか分からなくて、胸が騒ぐ。
 もうやめよう、と何度思っただろう。
 だけど、さきの死に顔を思い出す度……なんであんなに死に顔は幸せそうな、満足した顔をしていたのだろう。
 さきは身体の中に宿した新しい命とともに、あの世に旅立ってしまった。
 さきは……どう思っていたのだろう。無念に思わなかったのだろうか。

   ◇   ◇

 そうしてとうとう、土曜日。
 俺は学校の裏門から校舎に忍び込み、さきをだました男がいる社会科準備室へ足を運ぶ。

 さきをだましたのは社会科教師の百瀬(ももせ)しゅん、という男性教諭だ。年は三十後半で、妻子ある身だという。こいつにはずっと黒いうわさが絶えず、女子生徒をだましては孕ませ、金の力でもみ消していたらしい。
 はづきはそれを知り、さらに激昂していた。
『女の敵よっ!』
 そういうはづきに俺の心は痛んだ。
 俺も昔、近いことをやっていたから。はづきは男に対して潔癖すぎるほど潔癖のようだった。なにかそうなる理由でもあったのか、とそれとなく聞いてみたが、薄く笑って返されただけだった。その笑みがぞっとさせ、それ以上聞き出せなかった。
 先ほど、はづきから連絡があった。百瀬に睡眠薬の入ったコーヒーを飲ませ、眠った、と。社会科準備室に行くと、入口ではづきが待っていた。

「はやく」

 ぐい、と中に入れられた。床の上に、無様な恰好で眠る男。この男が……さきをだましたのか。
 社会科の先生はあと何人かいて、俺はこの百瀬の授業を受けたことがない。
 そういえば、とちらりと思い出す。
 さきが珍しく、学校の話をしていて……社会科の先生が面白いんだよ、と言っていたのを思い出す。
 女をだまして捨てるようなこの男、同じ男として許せない。
 俺も似たようなことをしたかもしれないが、だましたことは一度もない。俺は左手をギュッと握りしめ、百瀬の頭の下に札を置こうとした。が、どうもうまくいかない。
 俺はきょろきょろと準備室の中を見渡し、教科書が目に入ったのでそれを百瀬の頭の下に敷き、まくら代わりにする。そうしてそっと教科書の下に左手を入れ、ゆっくりと抜く。
 すると、あれほど張り付いていた白い札はあっさりと外れ、驚いた。

「行こう」

 いつまでもここにいるのは得策ではない。俺ははづきを連れて、社会科準備室を出た。

   ◇   ◇

 月曜日、出勤してきた先生によって百瀬は発見されたらしい。いくら呼び起こしても起きない百瀬にあわて、救急車を呼んだ。学校中がそのことでパニックになっていたわよ、と楽しそうにはづきが語ってくれた。
 これが復讐なんだろうか。晴れない気持ちを引きずったまま、俺ははづきと別れた。
 ああ、そうか。この復讐が終われば、俺ははづきと逢う口実がなくなるのか。
 そこで俺は、はづきのことが好きだということにようやく気がつく。
 遅すぎだろ、俺。ばれたらやばいことをあいつにさせておきながら。今更好き、だなんて気がついて。
 今までこんな気持ちになったことがなくて、どうすればいいのか気持ちに戸惑う。
 はづきに好きだ、と伝える? だけどあいつは……たぶん、男が嫌いだ。
 俺が少しでも近付くと、さりげなく距離を取っていることに気がついていた。
 それとも……俺のことが嫌い、なんだろうか?
 さきの復讐のために、嫌いな俺に我慢して?
 分からない。
 どうすればいいのか分からず、連絡を取ることもできず、無為に時間が過ぎて行く。
 百瀬がどうなったのか知りたくて、だけどはづきに聞くことができず、俺はまた、高校に足を運んだ。
 そうしてまた、田仲先生が俺に気がついてくれた。

「広居くん!」

 前に会った時よりやつれた表情をした田仲先生に挨拶をする。

「百瀬先生も原因不明の眠りについて……水島さんも……!」

 なに? はづきも……?

「水島さん、無断欠席で三日ほど休んで。彼女、ご両親が単身赴任でひとり暮らしなのよ。それで心配になって家に行ったら……」

 話を聞き、さきと同じ症状なのに気がつく。
 はづき、羽深から白い札をもらったのか?
 あいつの瞳の奥に暗い光を知っていながら……俺はまた、救ってやれなかったのか?
 激しい後悔の念に心が押しつぶされそうになる。

「田仲先生、はづきの……水島の家は!?」
「水島さん、病院よ! 広居さんと同じ病院!」

 病室を教えてもらい、俺はいてもたってもいられなくなり、病院へ走る。
 嫌だ。もうたくさんだ。
 これ以上、俺の前から大切な人がいなくなるなんて。
 さきとお腹の子だけで充分だ……!
 がむしゃらに走り、病院につく。言われた病室へ向かうと、そこには……はづきが青白い顔をして眠っていた。
 生気のない顔に、俺は涙が出そうになる。

「おい、羽深。おまえのせいだろう、出てこいよ」

 はづきの顔を撫で、呟く。

「今回はほんと、うちの『彼女』は札使いが荒い。あれは貴重なものですよ、と言っているというのに」

 いきなり背後から声がして、振り返る。
 そこには、少し長めの黒髪にあの日と同じ黒のトレンチコート。黒ぶち眼鏡の奥の茶色の切れ長の瞳は楽しそうに目を細めている。

「さきさんのことは残念です。しかし、あれは彼女自身が選択したこと。今も彼女は理想の世界で幸せに暮らしていますよ」

 なにが理想の世界だ。死んでしまったらなにもならないだろうっ!

「『この世で結ばれないのなら、あの世で一緒になりましょう』といって心中する人が多い中、さきさんは正しい選択をされた、と思いますよ」

 くつくつくつ、と喉の奥で嫌な笑い声をあげている。

「それなのに、あなたと言う人は。あれほど『使うな』と言ったのに……。さきさんも望んでいないというのに」

 ふふふ、と羽深は笑う。

「だけどおかげで、またいいコレクションが増えました。あの人は……ひどい人ですね。理想の世界なんて、もっとひどいものですよ。男とは──なんと汚くて欲深くて単純なんでしょうね」

 そうして、懐からちらり、と黒い札をのぞかせて見せてきた。

「あまりにもひどいので、僕自らがお仕置きしておきました。ですからもう、あの人は──悪いことはしないでしょうね。なんたって、不能になってしまいましたから」

 幼子のような屈託のない笑みを向けられ、ぞっとする。
 この男は……一体何者なんだ?

「僕の正体なんて、どうでもいいでしょう。時雨堂の店主、ですよ」

 俺の考えを読んだのか、羽深はそう答える。

「はづきさんの夢も、なかなか興味深い。彼女……レズビアンなんですけど、それを知ってもあなたはこのいばらの道をすすみますか?」

 はづきが……?
 そういえば。
 そう言われて、思い出す。
 さきがはづきを家に連れてきたとき、妙にさきにべたべたする子だなぁ、と思っていた。
 さきは特に嫌がっている様子がなかったからあまり気にしていなかったのだが。

「百瀬がさきさんを奪ったことが……苦痛だったようですね。ましてや、大嫌いな男に抱かれたさきさんに触ったことが──彼女には苦痛だったようですよ」

 それであんなに震えていた、というのか?

「はづきさん、夢の世界で幸せそうですよ? それでもあなたは、この辛くて悲しい現実世界にはづきさんを連れ戻したい、と思うのですか?」

 そう問われ、言葉に詰まる。
 はづきと連絡が取れなくなっていたこの何週間か。
 俺は息をしていることさえも不思議なくらい、辛かった。
 だけど……それは俺のエゴ、ではないのか。
 はづきは、夢の世界で幸せだと言う。
 その世界から無理やり戻して……羽深の言うように辛くて悲しいこの世界にまた連れてくるのは──。

「はづきに伝えてくれないか」
「僕はボランティアではないですよ?」

 羽深の言葉を無視して、言葉を紡ぐ。

「俺はおまえのことが好きだ。だけど……夢の世界が心地よいのなら、戻ってこなくてもいい。だけど、少しでも俺のことを思ってくれているのなら……辛くて悲しいかもしれないけど、こちらに戻ってきて、一緒に生きてくれないか」

 羽深は眼鏡の奥の目を細め、

「仕方がないですね、伝えますよ」

 羽深はそうして、細くて神経質そうな指をのばし、はづきのひたいに触れるか触れないかの場所でぱちり、と指を鳴らす。

「はづきさんが目を覚ますか覚まさないか……それはあなた次第ですよ、広居はやとさん」

 そう言って、またあの黄色い光をまとい、羽深は消えた。
 なんだ、あいつは……?
 俺ははづきの手を取り、目が覚めるようにはづきに祈った。
 しばらくするとはづきは身じろぎ、うっすらと瞳を開けた。

「はづき!?」

 驚き、声をかける。

「はやと……先輩?」

 ぼんやりと不思議そうに焦点の合わない瞳を俺に向けている。

「あたし……」

 そうしてはづきはぽろぽろと泣き始めた。

「あたし、さきのことが大好きだったの」

 俺は握った手をさらにギュッと力を込めた。

「俺は……はづきが好きだ。はづきが俺のこと、好きになってくれるまで、待つから」

 その言葉に、はづきはさらに涙を流す。

「だってあたし、女の人しか好きにならないよ?」
「それでもいい。だけど……俺のこと、少しは好きなんだろう? だから──現実世界に帰ってきてくれた」

 はづきは真っ赤になり、顔を向こうに向ける。

「あ、あんたなんて、大っ嫌いなんだから!」

 それが大好きと聞こえるのは、俺がうぬぼれているんだろうか。
 さき、おまえの分まで幸せになるよ。
 おまえは……理想の世界で幸せ、なんだよな? もう、悲しい思い、するなよ。
 俺はそう、どこかにいる理想の世界のさきにそう呼び掛けた。

【「はやと」おわり】