「さき、起きろよ」
寝起きの悪い妹のさきを起こす、という仕事から朝が始まる。いつものように扉をどんどんどん、と叩く。
俺の部屋の隣で寝起きしているので朝、ダイニングに向かう前にこうやってノックをする。毎日、このノックの音でさきは目を覚まし、『あと五分だけ~』というセリフが聞こえてくるのだ。それは俺とさきとの間での暗黙の了解で、入室してもよい、という合図。だからその声がしたら入室して、無理やり起こす。
「さき」
どんどんどん、と扉を叩く。しかし、今日は中から返事がない。
おかしい。
もう一度、今度は気持ち強めに叩く。それでも返事がない。
まだ寝てる……?
昨日の寝る前のさきの様子を思い出す。
寝る直前、たまたまさきと顔を合わせた。最近、さきには彼氏ができたとかで、いつもごきげんだ。しかし、昨日の夜はなんだか沈んでいた。というより、泣きはらした顔をしていた。どうしたんだろう、と思っていたけど……。
俺も彼女と付き合っている時、たまに泣かせていたしなぁ……とあまり深く考えないで通常通りに
「おやすみ」
と一言だけ言って、部屋に戻った。
さきのやつ、思い返してみれば助けてほしそうな眼をしていたような、気がした。
昨日、彼氏とけんかでもしたのかな? それで泣きながら寝て、なかなか起きてこないのか?
最近のさきは、夕食を食べた後は部屋にこもって彼氏とケータイメールのやり取りをずっとしているようだった。
このまま寝かせておいてやりたいのもやまやまだけど、昨日の夕食の時、明日は朝一番で小テストがあるんだよね、嫌だなー、と言っていたことを思い出す。
とりあえず『合図』はないけど中に入って起こすか。
念のためにもう一度、ノックする。やはり返事はない。
ふぅ、とひとつため息をつき、ドアノブに手をかける。
「!?」
ドアノブを回しても、回らない。いつもは鍵などかかっていないのに、おかしい。
ものすごく嫌な予感がする。
俺とさきがけんかをして部屋にこもっても、今まで一度も鍵をかけられたことがない。
「さきっ! 起きろ!」
どんどんどん、と強くたたくが返事はない。
「さきっ! 起きろ!!」
しつこくたたいても返事がない。俺はあせる。
部屋は鍵がかかる、と言っても外から簡単に開けることができるような作りにはなっている。一度、自分の部屋に戻り、財布から十円玉を取り出し、さきの部屋の前に戻る。ドアノブの下にあるくぼみに十円玉を入れてねじって鍵を開ける。
かちゃり、と音がして鍵が開く。
「さき?」
扉を開き、横についている室内の電気のスイッチをつける。室内を見ると、少し物が散らかってはいたものの、いつもと変わらない室内。ベッドの上にはさきが眠っていた。
「さき、起きろよ」
ゆさゆさとさきの身体をゆすったが、まったく起きる気配がない。まさか──!?
最悪の事態が頭に浮かんだ。いや、ありえない。
頭を振り、嫌な考えを否定するためにさきの口元に手を持って行く。手に息をしている感覚があり、最悪の事態ではないことにほっとする。
しかし、いくら揺り動かしてもまったく起きる気配がない。
さきが起きないことをキッチンに立って朝ごはんの準備をしていた母に告げる。
母はかなり迷惑そうな表情をしていたが、さきの部屋に赴く。
「さき、起きなさい。はやとを困らせないのよ」
母がゆすっても、まったく起きる気配がない。母は困った表情をして部屋を出て行き、会社へ行く準備をしている父を連れてきた。
「さき、起きなさい」
父がゆすっても起きない。
ここでただ事ではないことに気がつき、俺たちはかなり焦り出した。
「救急車を──」
母はあせって固定電話のところへ向かおうとしていたのを父が止める。
「待て、あせるな」
「でも、あなた……! もし、睡眠薬でも飲んで──」
そこまで母は言葉を紡ぎ、はっと口を押さえる。服毒自殺、睡眠薬自殺……。
しかし、さきの周りにはそれらしき痕跡はまったく見当たらない。一見すると普通に眠っているだけのようにしか、見えない。
「さき、起きるんだ」
父は再度、さきの身体をゆさゆさとゆすっている。さきはやはり、起きてこない。
「はやと、ここでさきを見ていてくれないか。救急車を呼んでくる」
父は青ざめている母を支えるようにして、部屋を出て行った。
さき……。どうして起きてこないんだ?
昨日、救いを求めるような視線で俺を見ていたのを気がつかないふりをしたことが悔やまれて仕方がない。
どうして──?
俺は自分を責めた。
◇ ◇
さきは救急車に乗せられ、病院へ運ばれた。両親は医師に呼ばれ、話を聞かされたらしい。
病室に戻ってきた父と母ふたり、暗い顔をしていた。母は俺の顔を見るなり、両手で顔を覆って泣き始めた。四人部屋の病室はどのベッドにも人がいて、周りの目を遮るようにカーテンを閉めた。
そして父は医師に聞かされた話をおもむろにしてくれた。さまざまな検査の結果、特に薬物反応もなく、深い眠りについている原因はまったく分からない、とのこと。
「どうして……」
父は医師から聞かされたことを説明し終わると、肩を落としてがっくりとうなだれていた。
悔やまれて仕方がない。昨日、あの時に話を聞いてあげていれば、さきはこんなことには……。
俺たちはしばらく、無言でさきのベッドの横にいたが、そこにいてもなにもならないので一度、家に戻ることにした。帰りのタクシーの中、無言だった。
◇ ◇
さきの携帯電話を見ればなにかが分かるかもしれない、そう思って携帯電話を探す。枕元に充電器に刺さった携帯電話を取り、操作しようとしたらロックがかかっていた。どうしてロックなんてかけているんだ? 見られたらやばいものでもあるのか?
さきの誕生日や思い当たる限りの数字を入れてみたが、まったくだめだった。この中にさきの深い眠りに関するなにかがあるはずなのに。
いらだつ思いを枕にこめて殴る。ばふん、と枕が軽く飛び、それと一緒になにか灰色っぽい紙が宙に舞う。それはひらひらとベッドの上に落ちた。
「なんだこれ?」
携帯電話を充電器に戻し、灰色の紙を持ちあげる。
それは、手のひらに収まるくらいのサイズの、紙のような布のような不思議な札。表にも裏にもなにも書かれていない。
「これは困りましたね。回収する前に見つかるなんて前代未聞です」
突然、部屋に聞いたことのない声が響き、驚いて振り返る。
「おまえは……」
そこには、見たことのない男が立っていた。
少し長めの黒い髪、黒いトレンチコート。長いまつげに彩られた切れ長の瞳は茶色く、黒ぶち眼鏡が知的に見せている。先ほど見つけた灰色の札に、少し神経質そうな細くて長い指を向けて、
「その札をいただけますか、広居(ひろい)はやとさん」
「!?」
初対面のはずなのに、男は俺のフルネームを呼んだ。
「おまえは……だれだ?」
「僕ですか? 時雨堂の店主・羽深(はぶか)しぐれですよ」
時雨堂?
「この世には、現実から逃げたいさまざまな悲しみ、苦しみが存在しています。僕はそのお手伝いをしているだけですよ」
黒髪の男──羽深──は喉の奥でくつくつと嫌な笑いをもらす。
「さきさんも……なにか苦しんでいらっしゃいましたから、その苦痛を取り除くお手伝い、をさせていただきました」
この男、さきが眠ったままになっていたことを知っている──?
「やはり、まだ時間が足りませんでしたか。そんなに薄くしか色づかなかったのは残念ですが、なかなか面白そうなものを回収できましたね」
黒ぶち眼鏡の奥の瞳を細め、満足そうに俺の持っている灰色の札を眺めている。
「あなたが持っていても、それはなんの役にも立ちませんよ。さあ、渡してください」
羽深はこつこつ、と音を立てて近寄ってきた。そして、すーっと手をのばし、灰色の札を神経質そうな指でつまむように奪い、懐にすぐにしまった。
「それでは、失礼いたします」
羽深は優雅にお辞儀をして、こつこつとまた、足音を立てて帰っていこうとした。
「待て!」
すっかり羽深の雰囲気に飲まれてしまっていたが、ようやくはっと正気に戻った。
「さきになにをした?」
羽深は困りましたね、と呟いて、こちらを向く。その瞳は、明らかに馬鹿にした光を宿していた。
「さきさんの苦痛を取り除き、彼女に幸せを与えに来たんです」
なにが幸せだ。ベッドの上に眠っているだけの状態のどこが幸せなんだ。
「今頃、彼女は夢の世界で理想通りの生活を送っていますよ」
夢の──世界? 理想通りの生活?
「さきさんもかわいそうに。遊ばれていたことに気がつかないで……。男の甘い言葉を信じて」
この男は、知っている──?
「さきに、さきになにがあったんだっ!?」
「知りたい、ですか?」
知りたいに決まっている。
「僕もボランティアではないですからねぇ。情報をお教えする代わりに、なにかいただかないと」
羽深は細い指をあごに当て、なにか考えている。
突然、ちりん、と透き通った鈴の音が聞こえてきた。
「ああ、その手がありましたか」
羽深はあごにあてていた指を懐に滑り込ませ、すっと取り出した。
そしてこつこつと近寄ってきて、左手をつかまれ、なにかを手渡された。
「この白い札を、あなたの妹のさきさんにお渡ししたんです」
左手を離されたので、視線をそこにやる。先ほど、さきの枕の下から見つけた灰色の札と寸分たがわぬ白い札が、手のひらに張り付いていた。
「なんだ……これは」
はがそうと思っても、はがれない。
「あなたが現実から逃れたい、と思った時、枕の下に置いてそのまま眠ってください。理想の夢の世界へいざなってくれますよ」
まさか。
「これをさきが使って……?」
「さきさん、ずいぶんと年上の彼とお付き合いをされていたようですね」
羽深を見ると、楽しそうに目を細めてこちらを見ている。
「それも、妻子のある男性で……。まあ、お約束のように『別れるから一緒になろう』と言われてね。そんな気、彼にはまったくないのにね」
くすくすと楽しそうに笑っている。
「騙されて、子どもができたからと迫ったら捨てられて。かわいそうに」
喉の奥で楽しそうに笑っているのを見て、頭に血が上る。
子どもができた……だと!?
羽深に詰め寄り、胸倉をつかむ。
「どういうことだっ!? 子どもができたって!」
「言葉のままですよ? ご両親からお聞きしていないのですか。お医者さまからは説明があったみたいですけど」
なんだって──?
「男はいつだって身勝手ですよね。相手の女性のことを考えないで自分さえ気持ちよくなればいいと思っている」
馬鹿にしたような視線をこちらに向けてくる。俺のことも含めてそう言っているのか。
そうかもしれないな。反論の余地などない。
「まあ、さきさんの彼氏を探すのもいいですけど、さきさんはそれを望んでいないようですよ」
「なんでおまえに指図されないといけないんだっ!」
「さきさんからの伝言ですよ。『お兄ちゃん、今までありがとう。わたしは自分の愚かな行為でこんなことになってしまいました。お兄ちゃんにもう合わせる顔がありません、さようなら』という伝言を預かってきました」
なんだよ、それは!?
「さきがなんでそんなことを」
「さきさんは、理想の世界で幸せに暮らしています。だからもう、彼女のことを思えば、なにもしないでおいてあげてください」
「なんでだよっ! そんなの、幸せじゃないだろうっ!? さきのその彼氏だとか、そのまま逃げさせるのかよっ!」
さきをこんな目に合わせておいて、逃げられると思うなよ。
心の中でそう誓う。
「それでは、僕は失礼しますよ」
羽深は俺の手を振り払い、こつこつと音をさせて歩き出した。
「ああ、そうそう。その白い札、くれぐれも自分にだけ、使ってくださいね。間違ってもさきさんの彼氏に使おう、だなんて……思わないでくださいね」
羽深は振り返り、にやり、と笑ったかと思うと、黄色い光を身体から発して……俺は眩しくて目を覆った。
しばらくして、その黄色い光はおさまった。先ほどまでそこに羽深が立っていたはずなのに、どこにももういなかった。
今のは、夢? 幻?
今まで見たものが信じられなくて、目をこする。
と、そこで左手に白いお札がちらり、と見え、どきり、とする。
この白い札……。
夢の世界にいざなう、と言っていたな。
もしかして、これを使うと……さきのように目を覚まさなくなるのか?
それよりも、さきをあんな目に合わせた男を探し出し、復讐をしてやる──。