【まこと】~現実世界~(前編)


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 ボクの名前は野村まこと。
 某クイズ番組に出ているさえない男と名前が似ていて、それをネタに昔はよくからかわれていた。今は……からかわれることはない。それはなぜかというと。
   ◇   ◇

「まこと、いい加減、仕事を探しなさい」

 部屋の外でいつものように母が小言を言っている。
 ボクは今、忙しいのだ。仕事なんてしなくても生きていける。液晶モニタを見ながら、ボクはにやり、と口をゆがめた。

「……もう少しでレベルアップだ」

 レベルアップすれば、ボクはこの世界でもっともっと尊敬される存在になれるのだ。
 ボクはこの世界ではとても有名で、とても地位のある人間なのだ。現実世界の方が、嘘なのだ。

「まこと! ここを開けなさい!!」

 部屋の外ではどんどん、と扉をたたく音がする。
 うるさいなぁ。今、いいところなんだ。ボクは現実を忘れようとして、モニタを凝視する。

「う……」

 あともうちょっとでレベルアップ、というところでモンスターからクリティカルヒットを受け……ボクの分身はむなしく地面に転がる。

「ちっ」

 ボクは今、パソコンを使って一番人気のオンラインRPGをやっている。
 オンラインゲームというのは、インターネットを介してサーバーに接続して同じゲームをリアルタイムでプレイするという代物。そのゲームの中でボクはとても有名で、ボクがいないとゲームが進まないとまで言われるくらい影響力を持っていた。
 そうなのだ。ゲームの中のボクが本来のボクなのだ。だから、現実世界で仕事なんてしなくていいのだ。
 画面にはボクが操作している同じようなキャラクターが、心配そうに地面に転がっているボクを見ている。
『復活させましょうか?』
 あるひとりがボクにそう話しかけてきた。
『祝福復活でおねがいします』
 RPGをしたことがある人なら分かると思うけど、たいていこういったゲームではキャラクターが死亡するとペナルティがある。ゲームによって違うけれど、手持ちのお金が減ったり、それまで取得した経験値が減ったりとまあ、かけた時間が無駄になる瞬間。
 ボクが今プレイしているゲームは、キャラクターが死亡すると経験値が減るというペナルティがある。これが低レベルなら普通に復活を使ってもらえばいいんだけど、ボクくらいのレベルになると一レベルあげるのに何日も要することになる。ましてや、もう少しでレベルアップ、という瞬間だったのだ。普通に復活してもらったら、またやり直しだ。いくらボクに時間があると言っても、勘弁してほしい。
『持ってないです……』
 まあ、そうだよね。
 祝福復活ってのは、死亡してなくした経験値を死亡前の状態に戻してくれる、というすぐれもの。もちろん、結構貴重なものなので、そうそう持っているわけないのだ。
『俺、持っています。トレードしますね』
 親切に復活しましょうか、と言ってくれたキャラクターに対してチャットで返事をする。
 家庭用のゲーム機だと、ひとりで遊んでいるからこういうチャットなどの触れ合いがないけれど、ボクが今やっているのはオンラインゲーム。ボクと同じようにプレイしている人たちとこうやって会話をすることができる。
 相手に自分の持っている祝福復活をトレードして、渡したアイテムを使ってもらうのを待っていた。
 が。いつまで経っても使う気配がない。
 チャットでどうしたのか聞こうと思った瞬間。
 ふっ……。
 と目の前からそのキャラクターが消えた。

「え……?」

 目の前で起こったことが信じられなかった。復活させてくれると言った人が、いきなり目の前から消えたのだ。
 相手が回線落ちしたのかな、と思った。回線落ち、というのは、インターネットに繋いでいるネットワークがなんらかの理由で切断されて、ゲーム上につなげなくなることを言う。ボクもたまにそういうことがあるから、その相手もそうなんだ、と思ってしばらく待つことにした。
 部屋の外では相変わらず母がどんどんと扉を叩いている。

「まこと!」

 いい加減、母もあきらめればいいのに。モニタの前に置いていたタバコを取り出し火をつけて、一服することにした。
 あとちょっとだったのに、油断したな。
 モニタの中ではさみしそうにボクの分身が地面に転がっている。タバコ一本吸い終わっても、祝福復活を持った人は戻ってこない。少しいらだって、ギルドの人に愚痴る。
『今、レベルアップもうちょっとってところで死んじゃったんだけど』
 ギルドというのは、まあ、志を一緒にした仲間の集まり、みたいなものかな? ボクはこのギルドのギルド長をつとめている。
 ボクのその言葉に
『間抜けだなぁ』
『wwww』
 といった言葉が返ってくる。
 苦笑しつつ、次の言葉を入力する。
『復活してあげるって言われたから祝福復活を渡したんだけど、その人、急にいなくなったんだ』
 ボクのその言葉に、
『うわー、馬鹿だなぁ』
『持ち逃げだな』
『どこにいるのよー』
『言ってくれたら私がいったのにー』
 と返ってくる。
 持ち逃げ……。
 そうだ。
 どうしてあの時、その可能性を考えなかったんだろう。相手はどこのギルドにも所属していない、見たことのないキャラクターだった。
 外ではしつこくどんどんとドアをたたく音がする。

「うるさい、ばばあ! 静かにしやがれっ!」

 いらだちを外でドアをたたく母にすべてぶつける。

「まこと……」

 ボクの言葉に、母は黙る。
 うるさい。ボクは今、忙しいのだ。
 ようやく扉をたたくことをやめたらしく、ようやくゲームに集中することができる。
 そうだ。あのばばあがドアをどんどんと叩くから、いろいろ失敗したのだ。すべてはばばあが悪いのだ。
 ゲームの中のボクが正しい姿なのだ。今、ここでゲームを操っているボクは、本来のボクではないのだ。
『持ち逃げか……』
 ギルドメンバーの指摘に、反省する。
『だけどマコトなら祝福復活なんてすぐ買えるだろ?』
 ギルドメンバーのチャットを見て、ふぅ、と息を吐く。
 手持ちのお金を見ると、現実世界では到底ありえないくらいの数字が表示されている。もちろん、祝福復活なんてこの金額からしたらはした金だ。しかし、それでも毎日コツコツこうして狩りをして得た金額なのだ。
『マコト、元気だしなよ。アタシが今から復活しにいってあげるから』
 ギルドのアイドル、カレンちゃんがボクにそう言ってくれている。
『カレンちゃん、お願いできる?』
『うん、ちょっと待っててね』
 カレンちゃんの言葉に、自然と顔がにやける。
 カレンちゃん、かわいいんだよね。ボクのためにいつもこうやって献身してくれる。ボクに惚れているな、あれは絶対。
 カレンちゃんの到着を待つ間、ボクの右手は股間に伸びる。
 なにをするかって? そんなの聞くなよ。好きな子を想いながらヤッて、なにが悪い?

「うっ……」

 ティッシュにボクの白い分身を吐きだす。そうすると……少しイライラがおさまった。
 ティッシュでボク自身を始末していると、カレンちゃんが到着したらしい。さみしく地面に転がるボクの横に、見慣れたカレンちゃんが立っていた。
『お待たせ。アタシ、祝福持ってないんだけど、スキルでいい?』
 カレンちゃんは高レベルのヒーラーだ。ヒーラーと言うのは、キャラクターの体力を回復してくれる重要な職の人を言う。ヒーラーは高レベルになると、祝福復活とそん色のない経験値を修復してくれる復活スキルを覚えることができる。
『カレンちゃんの復活スキルなら、いいよ』
 ボクの言葉に
『マコト、やらしいなぁ』
 といいながら復活スキルを使ってくれる。
 そのスキルを受けるかどうかという選択画面が出たので、受ける、というボタンをクリックした。
 すると、どーん、と見慣れた白い光をまとい、ボクの分身であるキャラクターは立ち上がった。
『カレンちゃん、ありがとう』
 死亡前より少し経験値は減っていたけど、それでも普通に復活させられるよりは時間のロストも少ない。
『マコトのためならどこにでも行くよ』
 カレンちゃん、うれしいことを言ってくれる。
 今、INしているギルドメンバーを確認して、
『どうせだからどこかみんなで行こうか?』
 その呼びかけに、みんな暇をしていたのか、
『行くぜ!』
 と次々名乗りを上げてくる。
 そして、あっという間にフルメンバーになり、ボクたちは狩りに出かけることになる。もちろん、カレンちゃんも一緒だ。次第にさっきのイライラを忘れ、現実も忘れた。
 あれからノリノリでみんなと狩りをして、時間になったからと解散となった。ふと気がつくと、部屋の中は真っ暗で、時計を見ると夕方をとっくに過ぎていた。急に空腹を覚えた。
 部屋を出てキッチンに行くのさえ面倒だったが、お腹がグーッとなっている。仕方なく椅子から立ち上がり、部屋の外に出る。
 廊下は真っ暗だった。電気をつけるのも面倒だったので、そのままゆっくりと部屋を出て、キッチンへ向かう。
 いつもなら母はキッチンで料理を作っている時間だと言うのに、真っ暗だった。不思議に思ったけど、母の顔を見たくなかったので探すこともせず、冷蔵庫をあさる。冷蔵庫の中には大した食料が入っていなかった。
 冷凍庫を見てみる。氷しか入っていない。ちっ、と舌打ちをして、食料がストックされている棚を見る。カップ焼きそばがひとつだけ入っていた。あまり食べたくなかったが、お腹がすいている。やかんに水を入れてお湯を沸かした。
 作り方を読んでいたら、このカップ焼きそばの賞味期限がとっくに過ぎていることに気がついた。だけど……一週間くらいだったので、そのまま気にしないで食べることにした。わいたお湯を注ぎ、キッチンタイマーで三分はかる。その間、ぼーっとお湯の入った焼きそばのカップを見つめていた。
 結局今日、レベルが上がらなかった。あそこで死ななければ後少しだったのに。
 そのことを思い出し、ドアを馬鹿みたいに叩いていた母のことを思い出してむかむかしてきた。
 なにが仕事だ。立派にギルド長という仕事をしている!
 ぴぴぴ、とキッチンタイマーが鳴ったのでカップからお湯を捨て、説明書通りに焼きそばを作って暗闇の中、食べた。腹が満たされて、満足した。
 キッチンでがさごそとやっていても、母は来なかった。
   ◇   ◇
 暗闇の中、部屋に戻った。
 いつものようにドアを開き、部屋に入って違和感を覚えた。電気をつけないで出て行ったから部屋が暗いのはわかる。しかし、いくらもう夜だからと言って……部屋の中がまったく見えない、というのはおかしい。目がおかしくなったのかと思って、目をこする。しかし、部屋の中は暗いままだ。
 なんだ……これは?
 くるりと振り返り、部屋を出ようとドアノブに手をかけた。

「くくく、無駄だよ」

 いきなり、男の声が聞こえた。驚き、振り返ってドアに背を預ける。
 ここは……ボクの部屋のはずだ。部屋を出るときはボクしかこの部屋にいなかったはずだ。

「野村まこと……年齢二十九歳、小太りでさえない男。仕事もしないで家でオンラインゲーム三昧か」

 男はボクのプロフィールをそう語る。
 違う。それは偽りのプロフィールだ。ボクは
「マコト」
、ギルド長なんだ。

「就職しないで親のすねかじり。最悪だね」

 暗闇の中から、ひとりの男が出てきた。
 柔らかな少しウェーブのかかった栗色の髪に茶色の瞳、薄くて赤い唇……ぱっと目を引く容貌を持っている男がいた。しかしその瞳には黒い光が宿り、唇は嘲笑の形に歪んでいた。
 ボクは恐怖心を覚えた。がたがたと勝手に身体が震えだす。

「情けないねぇ」

 男は楽しそうにボクを見下ろしている。その視線は明らかに馬鹿にしていて、怒りを覚えた。

「だっ、だれだっ!?」

 声を振り絞って男に怒鳴りつけた。

「ほう。ニートなおまえにそんな勇気があるのか」

 男は目を細め、面白そうにボクを見る。

「ボ、ボクはニートじゃない!」

 そうだ、ボクはニートではない! ギルド長をつとめている立派な……立派な?
 そこで、ふと疑問を抱く。
 ギルド長クラスで、立派なのか? もっと上を狙えるんじゃないのか? そうだ、ボクなら……もっと上を狙っていける。どうしてそのことに今まで気がつかなかったんだろう。

「ふん……。おまえがなんでもいい。せいぜい白い札を手に入れて、俺を楽しませてくれればいいんだ」

 男はそうつぶやき、くくくと喉の奥で笑いをかみしめて、消えた。
 そう。確かに先ほどまで目の前にいたのに、急に消えた。
 男が消えたと同時に、見覚えのあるベッドとパソコンデスクが目に入った。
 今のは、なんだったのだろう。ボクは……幻でも見ていたのか?

「うっ……」

 急にお腹が痛くなった。あわてて部屋のドアを開けて、トイレに向かった。

「ふぅ……」

 危なかった。用を足し、手を洗ってトイレを出た。
 先ほど賞味期限が切れた焼きそばを食べたのがいけなかったらしい。今度から賞味期限が切れた食べ物を食べるのはやめよう。
 少しまだ痛むお腹をさすりながら部屋に戻った。
 ドアを開けて中に入ると、今度はまた違う光景が広がっていた。
 ……今日のボクは、よく幻を見る。やはり、賞味期限の切れたものを食べたのがいけなかったらしい。
 ボクは強く心に誓った。
『賞味期限の切れたものは今後一切、口にしない』と。

「おやおや、最近は珍客が多いですね」

 薄暗い部屋の奥から、今度は先ほどとは違う声が聞こえてきた。ここは先ほどの暗闇と違い、ほんのりと淡く黄色い光が漂っていた。

「時雨堂にようこそ。僕は店主の羽深しぐれと申します」
「は?」

 先ほどまで、家のトイレで用を足していたはずだ。それで自分の部屋に戻ろうと思って部屋のドアを開けたはずなんだが……。なんでこんな場所に立っているんだろう? 振り返り、ドアを開けてこの空間から出ようと思った。

「ああ、無駄ですよ。野村まことさん。それともギルド長のマコトさん、と言った方がよいですか?」

 ドアノブに手をかけていたボクは、男のにこやかな声に止まった。
 ……なんでこいつといい、先ほどの男といい、初対面のはずなのに名前を知ってるんだ? しかし、さっきのあの栗色の髪の男より、こちらの男の方がまだいい。きちんとボクの正しい姿を知っている。

「俺はギルド長のマコトだ!」

 こつこつ、と靴が床を鳴らす音がして、男が奥から出てきた。
 少し長めの黒髪でストレート、黒ぶち眼鏡の奥には長いまつげに彩られた知的な切れ長の目。

「それでは、マコトさん。立ち話もなにですから、こちらの席におかけください」

 男は朗らかに微笑み、椅子に座るよう、促した。うなずき、椅子に座った。

「お腹にやさしいお茶を出して差し上げましょう」

 男はそういうと再度、奥へ消えて行った。
 この空間を不思議に思い、少しきょろきょろと見まわした。穏やかな闇の中、ほんのり淡い黄色い光がほっとさせてくれる。しばらくすると奥からいい香りが漂ってきた。

「お待たせしました」

 トレイを持って先ほどの男が現れた。

「僕が独自にブレンドしたお腹にやさしいハーブティです。お好みではちみつを入れてどうぞ」

 男は少し神経質そうな細い指でソーサーを持ちボクの目の前に優雅に置き、その上にカップを乗せ、ポットからゆっくりとお茶を注いでくれた。
 赤色のお茶がキラキラと輝いてカップに注がれ、ふわり、と芳香が鼻孔をくすぐる。

「どうぞ」

 恐る恐るカップに手を伸ばし、口に含む。一口飲んで、驚いた。

「美味しい……!」

 こんな美味しいお茶、初めて飲んだ。先ほどお腹を下して水分が足りなくなっていたのもあり、一気に飲み干した。

「そんなに気に入っていただけましたか」

 男は空になったカップに再度、お茶を注いでくれた。

「はちみつを入れてもおいしいですよ」

 男は白い入れ物をボクの前に置いた。蓋を開けると、黄色いはちみつが入っていた。付属のスプーンではちみつをすくい取り、言われるままにカップに入れる。カップに添えられていたスプーンではちみつを混ぜて、また、お茶を飲む。
 ……これもまた、先ほどと違う味わいで、美味しい。はちみつの甘さが心までとろけさせてくれそうだ。
 男は三杯目のお茶を注ぐと、向かいの席に座り、同じようにカップをセットして、お茶を注いでいた。

「うん。なかなかいい味ですね」

 男はにっこりとほほ笑んでいた。

「さて、マコトさん。あなたはここへどうやって来ましたか?」

 男はお茶を飲みながら、聞いてきた。声と表情はにこやかなのに、その目は笑っていなかった。刺すような視線に、かなり居心地が悪くなる。

「トイレから出て、自分の部屋に戻ろうとドアを開けたら……」

 しどろもどろと説明した。

「その前に、なにかありませんでしたか?」

 先ほどまでのにこやかな表情は消え、冷たい声と顔で聞いてくる。
 そのままうつむいた。
 いつまでも答えないしびれを切らしたような男が立ちあがる気配がした。それでも、動くことができなかった。

「マコトさん、黙っていたら分かりませんよ」

 男はいつの間にか横にいて、座っているボクの目を見るように下から見上げていた。

「あなたが話してくれないのなら、僕は無理矢理あなたの記憶を見ることができますが?」

 にこやかに物騒なことを言われた。
 無理矢理、記憶を見る?

「あなたにかなりの苦痛を与えると思うので、僕としてはやりたくないし、あなたが自主的に話をしてくれるのが一番なんですが。どうしますか?」

 男の言葉に抗議するかのように、ちりん、と突然鈴が鳴り響いた。

「ああ……。分かりましたよ。あなたがそう言うのなら、やりません」

 男はその鈴の音にうっとうしそうに答え、立ちあがり、懐に手を入れ、なにかを取りだした。

「彼女のご機嫌を損ねるのが僕は怖いですから、まあいいです。過程がどうであれ、あなたがここに来た、というのは……あなたはきっと、現実世界にかなり嫌気がさしているはずです」

 男の手には、白い札があった。

「白い……札」

 栗色の髪の男に言われたことを思い出した。
『せいぜい白い札を手に入れて、俺を楽しませてくれればいいんだ』
 白い札……? あの男が言っていたのは、このことか?
 嫌な予感にとらわれ、ガタン、と椅子から立ちあがった。

「おや? どうかしましたか?」
「ボ、ボクは帰る!」

 三杯目のお茶にまだ口をつけていなかったのでそれに後ろ髪が引かれたけど、それよりもあの白い札を受け取ってはいけないとなぜか思い、男から逃げようとドアに向かった。しかし、身体が思うように動かない。

「彼女のお許しが出たんです。あなたはもう、この白い札から逃れることは……できませんよ」
「ボ、ボクはそんなもの……要らない!」

 足がもつれて、無様に顔から転んでしまった。鼻を思いっきりぶつけて、痛い。だけど、本能が逃げろ、と叫んでいる。痛みを我慢して立ちあがろうとした。が、足が震えて力が入らない。

「おや、だれかにこの白い札のことを聞きましたか?」

 男は右手に白い札を持ったまま、ゆっくりと近づいてくる。

「ひっ……」

 ずりずりとお尻を地面にこすりつけて後退することしかできなかった。

「い、嫌だ……! ボクは、いらない!!」
「心外です。こんな素晴らしいものを要らないなんて言うなんて」

 男はくすくすと笑いながら近づいてくる。

「マコトさん、これさえあれば……あなたの思う世界で思うように生きていけるんですよ? そう、あなたが引きこもってしまう原因になったあの日にさかのぼって、やり直すこともできるんですよ」

 男の言葉に、動きを止めた。
 やり直せる……? あの失敗から? ボクは……もう一度、あの失敗から?

「う、嘘だ……!」
「嘘だと思いますか? なら、試してみればいいじゃないんですか? お代は……くくくくっ」

 男は動きを止めたボクの目の前でぴたりと止まり、身体を支えていた左手をつかみ、右手に持っていた白い札をボクの手のひらに押しつけた。

「さあ、あなたはこれでやり直す権利を得ました。いつ使うのかは、あなた次第。現実世界に心底嫌になったら……枕の下にそのお札を置いて眠ってください。そうすれば……やり直すことができますから」

 男は本当に楽しそうに笑っている。
 無理矢理に渡された白い札を見つめた。

「さあ、お帰りはこちらからどうぞ」

 ボクの真後ろにあったドアを男は開けた。その瞬間、黄色い淡い光に包まれた。それほど強い光ではなかったけれど、暗いところに慣れていたボクの目には充分に強い光で、顔を手で覆った。光がおさまり、ゆっくりと覆っていた手をはずした。
 そこは……見慣れたボクの部屋の中だった。

「なんだったんだ、今のは……?」

 声に出して言ってみた。もちろん、疑問にだれも答えてくれない。それが正常な状態だから。
 しかし、先ほどのことが夢ではなかった証拠に、ふと左手を見ると、白い札が手のひらに貼りついていた。そう、それはまさしく貼りついている、という表現がぴったりな状態だった。
 だらりと力なく両腕を身体の横にした状態で立っていたにも関わらず、白い札は地面に落ちることなく、ボクの手のひらにあった。
 左手を自分の顔の前に持ってきて、手のひらを握ってみた。なんの感覚もないまま、白い札ごとボクの手は握られた。ぱっと手を開いても、白い札はなにもなっていなかった。なんだろう、これ。
 右手で白い札を取ろうと白い札を引っ張ったけど、左手のひらに吸いついているかのように動かない。引っ張られている左手は、痛くもなんともない。右手で白い札をかりかりと引っ掻いてみてもなんともない。左手甲から向こう側を見ても、白い札の端が少し見えるだけで、それ以外は普段と変わらない。洗い落としてみようと思い、部屋を出て洗面所でいつも以上に手を洗ってみても、なにも起こらない。
 そういえばまだお風呂に入ってなかったことに気がつき、ボクは入ることにした。いくらボクが一日中家にこもっているからと言っても、身だしなみとしてお風呂にはきちんと入らないとね。
 服を脱いで風呂場にある鏡に映った自分の裸を見て、ため息が出る。
 栗色の髪の男に言われたように……ボクは少し太っていた。お腹は出ているし、外に出ないから肌はとても白い。動かないからぶよぶよだし……だけどこれも、かりそめの姿。脂ぎったボクの髪の毛はべったりとしていて、それでますます憂鬱になる。
 本当のボクは、あのゲームの中のように引き締まった身体をしているんだ。
 シャワーをひねり、頭から少し熱めのお湯を浴びて、憂鬱な気分を流すことにした。
 お風呂から上がり、部屋に戻った。
 今日はなんだかいろいろあった。妙に疲れを感じて、いつもなら明け方までオンラインゲームを楽しんでいる時間なのにボクは珍しく、そのままベッドに直行した。寝る間際、ちらりと左手の白い札が目に入った。……こんなもの、使う必要はない。
 ボクはギルド長のマコトなのだ。リアルは充実している。