《第一話・出逢い編》三*琳子の厄日
琳子は気を取り直して、樹のアドバイスを元に資料に数字を入れ直した。
「……うわあ」
樹が言っていたことを疑っていた訳ではないが、あれほど合わなかった数字が気持ちがいいほどそろった。
(……疑ってごめんなさい)
琳子は樹に対して心の中で謝っておく。
データを保存して、プリントアウトしたものを部長の提出物入れに置く。
パソコンの電源を切って自席の周りを片付け、総務部に寄って鍵を借りて、資料を返却した。
時計を見ると、予定していた時間より遅くなってしまっていた。これから帰って夕食も面倒だなと思いながら、琳子は制服から私服へと着替えるために更衣室へと向かった。
さすがにフロアに残っている人たちはほとんどいなかったので、だれもいないと思って更衣室に入ったら、奥から声が聞こえてきた。そんな必要はないのに、琳子は思わず気配を消した。
「あいつ、ほんっと何様のつもりなの?」
そこだけはっきりと声が聞こえた。先ほど、資料室で樹に絡んでいたお局さまの声だ。とっさの判断で気配を消したのは正解だったと琳子は心の中でため息を吐いた。
「溝部さん、だからあの男はやめておいた方がいいって」
「うるさいわねっ!」
「溝部さんにはあの男はちょっと程度が低いと思うのよっ」
お局さま……
琳子は音を立てないように慌てて着替えて、荷物を持って更衣室から出た。
(溝部さんと一緒にいたのは上原さんみたいだから、大丈夫だと思うけど……)
琳子は大きく息を吐き、到着したエレベーターに乗り込んだ。
「お疲れさまです」
先客がいたが、それがだれかなんて特に確認することなく、琳子は声をかけた。そしてそのまま扉に向き、ドアを閉めた。
一階に着き、琳子は乗っている人を先に降ろすために『開』ボタンを押した。
「よ、琳子。お疲れっ」
声をかけられ、驚いて顔を上げた。と、そこには樹の顔が真ん前にあった。
「!」
琳子は声もなく驚き、後ずさった。
「琳子も今、上がり? 夕飯、まだだろ? 食って帰ろうぜ」
樹は当たり前のように琳子の腕をつかみ、エレベーターから降りた。
「ちょっと! 待ってくださいっ!」
琳子は慌ててつかまれた腕を振り払う。
「悠太と二人でご飯なんて、辛気くさくてたまらないんだよ。さっきのお詫びも兼ねて、一緒に食べようぜ」
「間に合ってます」
「つれないなぁ。相変わらずのつれなさ! 友好を深めるためにっ」
「深める友好なんて、ありません」
琳子はしつこく言い寄ってくる樹を振り払い、駅方面へと歩き出した。樹が追いかけてきたら嫌だなと思ったが、追いかけてこなかった。
それでも、距離を空けてついてきているのではないかという疑いは晴れず、念入りに樹が後ろから付いてきていないことを確認した。人通りはあるものの、樹と悠太と思われる人影は見当たらなかった。
そのことにホッとして、たまに利用する定食店へと足を運んだ。
「いらっしゃいませ!」
威勢の良い声に迎えられ、琳子はいつもの一番奥の席へと座った。惰性でメニューを眺めたが、
「豚肉のショウガ焼き定食をお願いします」
結局、いつものお気に入りを頼んでしまう。定食が届くまでの間、琳子はぼんやりとお茶を飲んだり指先を眺めていた。
琳子が座った席から出入口がよく見えるのだが、ひっきりなしに人の行き来がある。繁盛してるなあと思っていると、見覚えのある二人組が入ってくるのが見えた。
(げっ)
琳子は思わず、腰を浮かせた。
しかし、ここから出入口はよく見えるが、逆は見えにくいということを思い出し、座り直す。
仮に向こうがこちらに気がついたとしても、隣の席は埋まっているので大丈夫、と言い聞かせた。
が、間が悪いことに隣に座っていた男は食事が済んだらしく、とっとと席を立ってしまった。
(二人が気がつきませんようにっ!)
琳子は心の中でそう願ったのだが、二人はちょうど琳子の隣が空いたことに気がついたようで、近づいてきた。
(今日は絶対、厄日だわっ!)
食べていたらとっとと去るのだが、そろそろ注文した物が届く頃合いだ。せっかく楽しみに待っていた物を食べないで帰るなんて食べ物に対しても失礼だし、それは作ってくれた人にも申し訳が立たない。そんなことをしてしまったら、お気に入りのこのお店に二度と足を踏み入れることが出来ない。
「あれ? 白雪さんじゃない」
気がつかれないようにと下を向いていたのだが、どうやらそれは無意味だったらしい。
琳子は仕方がなく顔を上げると、悠太の後ろにうなだれた樹が立っていた。しかし、悠太の一言に樹は顔を上げる。そして、目が合った。
「琳子っ!」
ずさーっという音が聞こえそうなほどの勢いで樹は琳子の元へと滑り込み、ひざまずく。
「おお、こんなところで出会うなんて、なんという偶然! やっぱり、俺と琳子は運命の」
「どちらさまですか」
「そんなっ」
琳子は他人を装うことにした。ここの定食店は同じ会社の人や取引先の人も利用している。
こんなところでこの二人と親密だと分かったら、どんな噂を流されるか分かったものではない。極力、目立たないように過ごしたいというのが琳子の希望だ。
「お待たせしましたー」
「ほら、樹。邪魔だよ、邪魔」
冷静な悠太はショックを受けている樹の袖を引き、定食を持って来た店員を通した。
琳子の元に、待ちに待った豚肉のショウガ焼き定食が届けられた。湯気の立った料理に、琳子だけではなく、悠太と樹のお腹も鳴った。
「俺もショウガ焼き定食! ご飯は大盛りで!」
「ボクは日替わりをお願いします」
「はい、かしこまりました」
定食を持って来てくれた店員に二人は注文して、琳子の隣に樹、その横に悠太が座った。
「まさか白雪さんがここのお店を知っているとは思いませんでした」
人好きする笑みを浮かべ、悠太が琳子に話しかけてきた。
琳子は届いたばかりの定食に向かって手を合わせ、箸を取って味噌汁に手を伸ばしたところだった。
「…………」
琳子はなんと返せば良いのか分からず、無言だ。極力関わって欲しくないというのが本音である。
もし、沙矢果一派のだれかにこの二人といるところを知られたらと思うと、気が気ではない。しかも、本人はまだ会社に残っていたのだ。ここでかち合う可能性はゼロではない。
無言でいると、また話しかけられたときに面倒だと思い、琳子は小さな声で願いを口にした。
「私にあまり関わらないでください」
「どうして?」
琳子は食べようとして伸ばした手を止め、箸も置いて二人を見た。
嫌われるのが嫌であれば遠回しに言うのだが、琳子の心境としては、二人に関わって欲しくない、むしろ嫌って欲しくてはっきりと言った方がいいと判断した。
「迷惑です」
「迷惑……なの?」
琳子はその質問には答えないで箸を持ち直し、お椀に手を伸ばす。箸の先をそっとお椀の中に入れ、浮かんでいるわかめをつまむ。箸を持ち上げ、口に運ぶ。赤だしと磯の香りが鼻孔をくすぐる。
次にメインの豚肉のショウガ焼きに箸を伸ばし、豪快にかぶりつく。ショウガとタレの絶妙なバランスの取れた味付けに琳子は幸せを感じた。
そして、このお店が売りとしているご飯に箸をすすめる。つやつやと輝く粒が際立つ白米に琳子は毎度、心が躍る。
「琳子が食べているのを見ていたら、すっげーお腹が空いてきた……」
隣に座っている樹のお腹が盛大に鳴るのが聞こえた。見た目は王子然としているのに、言動は少年と言えばまだ聞こえはいいが、まるで子どもだ。
琳子は早く食べて二人の側から離れようとするのだが、しかし、急いで食べるにはもったいなさすぎる。
結局、隣に座っている樹と悠太の存在を気にしないという方向に気持ちを持っていき、定食を楽しむことにした。
自家製の漬け物に小鉢。とにかく、なにを食べても美味しい。疲れている時はここで心ゆくまで定食を味わうのが琳子なりの癒しの方法だ。
足繁くとまでは行かないまでも、一・二週に一度くらいの頻度で利用している。今まで、この二人とかち合ったことがなかったのに、どうして今日に限って……と今日という日を恨めしく思う。
樹と悠太の元にもそれぞれの定食が届き、盛大にお腹を鳴らしていた樹はがっつくように食べてはじめたようだ。
琳子は横目で少しだけ見て、すぐに視線を目の前に戻した。
(あれ?)
そこでふと、琳子は気がついた。二人は一緒にお店に入ってきて隣同士で座っているにも関わらず、特に会話をしていない。
(なんで?)
樹ももっと絡んでくるかと思っていたが、気持ちが悪いほど静かだ。
疑問に思いつつも琳子は食べ終わり、伝票を持って席を立つ。
レジに向かう途中で樹が静かな理由が分かった。沙矢果と明菜がテーブル席にいたのだ。どのタイミングで入ってきたのかは分からないが、樹が静かになった理由が分かった。声をかけるべきかどうか悩み、やめた。特に面識があるわけでもなく、仕事上でもあまり絡むこともない。
琳子は二人の席を避けてレジへと向かい、お会計を済ませた。
外に出ると、街はネオンに彩られていた。
***
土曜日と日曜日は特になにもなく、琳子は穏やかに過ごすことが出来た。もしもあのまま資料室に閉じ込められたままだったら、今、ここでこうしてのんびりとしていられなかったんだよなあと、今更になって気がつく。
元凶である樹はともかくとして、悠太に対してお礼を言っていないことを思い出した。
きちんとお礼を言うべきか否か。
琳子の気持ち的な問題を言えば、きちんとお礼を言いたかった。
しかし、相手は樹と悠太である。下手に関わってまたもや絡まれると、色々と厄介だ。
それに、普段から仕事上でもあまり関わり合いのある二人ではないから、やめておこうという結論を出した。
樹は『眠り王子』と言われていて、女子社員の間で人気だ。
悠太は樹とは反対の見た目でほんわかしているせいか、樹のことが苦手という女子社員にかなり人気がある。
客観的に見れば、二人とも見た目はいい男だ。社内の人間ばかりか、社外の人間にも騒がれている理由もよく分かる。
そんな二人を放っておかない女たちと適当に遊んでいるという噂だ。
琳子は資料室でのことを思い出し、その噂はあながち嘘ではないと確信した。
そんな二人から冗談でも言い寄られていると知られたら、女子社員にどれだけ反感を買うものか想像も付かない。
(関わらないのが一番だわっ!)
琳子はそう結論づけ、目の前にあったクッションに顔を埋めた。