《第一話・出逢い編》二*奪われたファーストキス
琳子は樹とばっちり視線が合ってしまった。
ここで目をそらすのは不自然だし、だからと言ってどうすればいいのか分からずに固まっていると、樹は何度か瞬きをした後、口を開いた。
「業務部の白雪琳子さんじゃないか。どうしてこんなところに?」
樹がまさか琳子のことを知っているとは思わず、その顔をじっと見つめてしまう。
とそこで、琳子は思い出した。
(そうだ……。こいつは無類の女好きという噂。派遣社員はおろか、一日だけのアルバイトの女の子の名前もしっかり覚えているという話だし。うちの部は営業部とまったく面識がないってわけじゃないから、知っていても不思議はないか)
琳子は自分にそう言い聞かせ、動揺している気持ちを悟られないように口を開く。
「……仕事で」
「仕事? 床に座り込むのが仕事なの?」
樹はにこやかな笑みを浮かべ、琳子の横にしゃがみ込んだ。
「一度、林檎姫とお話してみたかったんだよね、『個人的』に」
「りっ、林檎姫って言わないでっ!」
黒髪のストレートで楚々とした見た目のため、昔から『林檎姫』というあだ名をつけられていた。それは名前から由来していて、そんなメルヘンチックなあだ名が嫌いだった。
「白い肌、黒い髪に焦げ茶色の瞳。気が強そうな見た目。うーん、俺のストライクゾーンど真ん中!」
樹のその言葉に、琳子は鳥肌が立つのを自覚した。
(やっ、やめてっ、気持ちが悪いっ!)
琳子は後ずさりながら樹から離れようとするが、その本人はすぐに近寄ってくる。
「寄らないでっ!」
「どうして?」
「どうしてって、私はあなたみたいな軽薄な男が嫌いなんですっ」
思わずはっきりと本音を言ってしまい、琳子はあわてて手のひらで口をふさぐ。ストレートな理由に樹はおかしそうに笑いながら、
「軽薄なんてひどいなぁ。俺のどこが?」
と琳子に質問をした。
樹本人はいろいろ陰口を言われているのはもちろん知っていたが、正面切ってそんなことを言われることは少ない。別れ話でひどい言葉をかけられることがないわけではないが、そういう場面でもないのにはっきりと言い切る琳子が楽しくて仕方がないようだ。ますます笑みを深め、琳子を見つめている。
「さっき」
「さっき?」
琳子は先ほどのやり取りを糾弾しようかと思ったが、あまりの恥ずかしさに話をそらすことにした。とにかく、一刻も早くこの男と二人っきりという状況から脱したい。
「……なんでもないです。とにかくっ! ここから出ましょう」
「さっきのやりとり、聞いてたの?」
琳子の様子から樹は察して聞いてきた。
明らかにカマをかけてきているのは分かったが、琳子は誤魔化すことができず、思いっきり顔に出てしまった。
琳子は思い出し、恥ずかしくなって視線をそらした。
「やだなぁ。出歯亀」
樹のその一言に、琳子はそらした視線を樹に向け、にらみつけた。
「なにが出歯亀ですかっ! ここは会社ですよ。社内でなにをしてるんですかっ!」
「なにって、セックスしようかなって。だって、誘われちゃったし、そういう気分だったんだよね、ついさっきまで」
「なっ」
「ここ、人がこないし、窓辺に行くと外がきれいに見えるんだよ。いいぜ、下を歩く人を見下ろしながらってのは」
「なっ、なにをっ」
琳子は自分でも分かるほど、顔が真っ赤になっているのが分かった。耳の端まで熱い。
「えー、これくらいで照れちゃうの? 林檎姫、かわいいなぁ。ますます俺の好みだ」
と言って手を伸ばしてきた。琳子はその手を払いのけ、立ち上がった。一刻も早く、こんな男と二人っきりという状況から脱したい。
琳子は樹と距離を取りながら、ここから出るために方法を樹に伝えることにした。
「こっ、ここから出るには、外から鍵で開けてもらわないといけないんです」
「なるほど。詳しいね。林檎姫もやっぱりそういう目的でここ、使ったことあるの?」
「ありませんっ! 一緒にしないでください!」
「あら、残念。なら、俺とここで体験してみる?」
「お断りしますっ!」
見ていてこちらが恥ずかしくなるような笑みを浮かべ、樹は琳子へと迫ってきた。
「セッ、セクハラで訴えますよっ!」
「どうぞ。訴えたければいくらでも」
それでも樹は琳子に近寄る。琳子は後ずさりをするのだが……。
(うわっ)
窓際に到達してしまった。
「ほら、後ろを向いてごらん? ここに手をかけて俺が後ろから突くと、ちょうどいいんだよねぇ」
「ななななななっ、なにがちょうどいいんですかっ!」
「セックスの体位だよ。バックがいいっていう子が意外に多くて。そういうとき、ここを利用するんだよ」
先ほどから続くセクハラ発言に琳子は冷静な判断を下せないでいた。
どうすれば樹の口から恥ずかしい言葉が出てこなくなるのか分からないけれど、心の底から嫌がっていることを伝えるしかないようだ。
「やめてくださいっ」
「やめてくださいと言うけれど、それが俺を煽ってるって知ってた?」
「知っ、知ってるわけないじゃないですかっ!」
「嗜虐心をあおる視線といい、言葉遣いといい……。林檎姫、分かってやってるだろう? 俺、さっきからココが勃ちっぱなしで痛いんだよね。こんなの初めてだよ」
と言って樹は自分の股間を指し示す。しかし、琳子はさすがに恥ずかしくて、視線を向けられない。
「ほら、見てよ。なんなら触ってみる?」
「ひどいっ。こっちはこんなに嫌がってるのに、無理矢理って」
あまりの仕打ちに、琳子は涙が出そうになった。しかし、必死になって我慢する。
「あー、ダメだわ、その表情。そそりすぎでしょ」
樹は琳子に身体を寄せ、抱きつこうとしたが……。
「やめてっ! 嫌だっ!」
琳子は近寄ってきた樹に向かって、でたらめに腕を振り回した。
でたらめだった割りには、思いっきり樹のどこかに当たったようだ。
「あたたた、分かった。近寄らないから」
そう言って少し後ろに下がった樹を見て、琳子は警戒しながらにらみつけた。
さすがの樹も琳子を警戒してなのか、近寄ってくる気配はなさそうだ。
大きく息をした後、ダメ元で樹に一つのお願いをすることにした。
「宮王子さん、外に連絡をつけられませんか?」
「林檎姫、俺のこと知ってるんだ」
樹はうれしそうに琳子を見るが、眉間にしわを寄せて厳しい視線を向けた。
「女泣かせだから近寄るなって有名ですからね」
「うわぁ、手厳しいなぁ。もうほんと、いちいち好みすぎでしょ」
「私、仕事が残ってるんです。ここには確認に来たら閉じ込められるし……」
「ここって使う人がいたんだ」
「いますよ。週に一度は資料を片付けに来ますし」
「俺が使うときはいっつもだれもいないから知らなかったなぁ」
「そんなことはどうでもいいですから、連絡、できるんですか?」
「ああ、できるよ。ちょっと待って」
樹はそういうと、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出した。
「あ、
そこで一度、樹は言葉を区切って琳子に視線を向けた。
「ここの鍵はどこにあるんだ?」
「総務部にあります」
「聞こえた? え? 違うよ。未遂だよ、未遂。気に入らないからと断ったら、お局さまに閉じ込められちゃったの。で、仕事の資料を確認に来た林檎姫と一緒に閉じ込められて困ってるんだよ。……分かってるって」
電話の向こうの相手はなにかを言っているようで、樹は渋い表情をした。
「とにかく、早く救出してくれない? 俺の我慢も限界だっつーの」
その言葉に、琳子が身の危険を感じた。
「そうなってほしくないのなら、一刻も早く来てくれよ。よろしく」
それだけ告げ、樹は通話を終わらせた。
「五分くらいで来るはずだから」
その言葉に、琳子はあからさまにほっとした表情を浮かべた。
「その……悪かったな。俺のとばっちりでこんなところに閉じ込められてしまって」
「……いえ」
どうにか助かりそうだと分かり、ため息をついた。
「ところで、話は変わるんだけど」
樹は琳子と距離を保ったまま、しかし妙に甘い表情を浮かべて琳子に視線を向けてきた。
琳子は警戒心を露わにして、樹を睨み付けた。
「なんですか」
「俺たち、付き合わない?」
「……はい?」
突然の申し出に、琳子は目を見開いて樹を見た。
「林檎姫のこと、前から気になっていたんだけど、接点ないし、隙がないからなかなか声をかけられなくって……。今日は念願叶って話が出来た上に、俺の好みど真ん中ってことが分かった。俺、優しくするから」
「お断りします」
「ってはやっ! 考えて返事してる?」
「私、男は要りませんから」
「まーじーでー? うわぁ、噂は本当だったのかぁ」
樹は琳子に断られ、大げさに頭を抱えて嘆いた。
「こんないい男を捕まえて、考える間もなく断るってもったいないと思わない?」
「思いません。私にかまわないでください」
「なんで? 付き合ってみないことには分からないでしょ?」
「付き合わないでも分かります。あなたは私の好みではないですから」
「なんで?」
「なんでって、セクハラ男なんて、冗談じゃありません」
「リップサービスじゃないか。林檎姫が望むのなら、真面目な話でも俺は出来るぜ?」
「…………」
「今日、作っていた資料って、このデータが必要なんだろ?」
そういうと、樹は棚から一冊の資料を取り出して開く。
「この資料、引っ掛けみたいなものでさ。ここを見るんじゃなくてこっちを見るんだ」
そう言って開いた資料を指差し、琳子に見せた。
「……どうしてその資料が必要ってわかったんですか?」
「勘、かな?」
「…………」
「うそうそ。毎年、この時期に営業部が業務部に依頼して作ってもらうんだけど、作る子みんなが泣く羽目に合う資料でさ」
琳子は資料を受け取り、視線を落とした。
あまりにも数字が合わなくて、暗記してしまうほど見直した数字と少しだけ違っていて、実際に入力してみないと分からないけれど、樹の言う資料の数字を入れれば合いそうな気がしてきた。
「それ、持って行って入力してみなよ」
「……ありがとうございます」
半信半疑のまま、琳子は資料を抱えた。
そしてタイミング良く部屋に硬質な音が響き、ドアが開く気配がした。
「樹、いる?」
「あ、悠太。思ったより早かったな。さすがだ、ありがとう」
「樹、部長が探していたよ。早く戻らないと、爆発するぞ」
「マジ? やべっ。林檎姫、鍵の返却をお願いしてもいい?」
「私は林檎姫じゃないですが、返却はしておきます」
「えー。林檎姫ってかわいいじゃないか」
「嫌です。なんで苗字が『白雪』で名前が『琳子』だからって林檎姫なんですか。おかしくないですか? 白雪姫は毒林檎をかじって命を落とすんですよ?」
「そういわれてみれば、確かに林檎姫はおかしいか」
樹は納得したのか、笑みを浮かべて琳子を見た。
「じゃあ、琳子だ」
「なんで下の名前で、しかも呼び捨てなんですか」
「樹、ちょっと抜け駆け過ぎないか? なに仲良く白雪さんと話をしてるんだよ」
「いいだろう」
「じゃあ、ボクも『琳子さん』って呼ぼっと」
「ここは会社ですから、苗字でお願いします」
「え? 社外だったらいいの?」
「ダメです。そもそも、お二人と社外で会うことはありませんからっ」
「うわぁ。このツンツンぶりがストライク過ぎなんだけどっ」
「ああ、樹が好きそうだね、確かに。ボクも激しく好みなんだけどね」
「おまえとかぶるなんて、初めてだな」
琳子をよそに、男二人は会話をしていた。
「それでは、失礼します」
琳子は二人に対してお辞儀をして、出ようとした。
「そうだな。俺も部長に呼ばれてるし」
「ボクは
悠太はにっこりと微笑み、自己紹介をしてきた。
「じゃあ、ここの鍵。ボクも仕事の途中で抜けてきたから、先に帰るね」
「悠太、ありがと」
「高くつくよ」
悠太は琳子に向かってウインクをすると、資料室から出て行った。
「私たちも戻りましょう」
琳子は資料を抱え直し、鍵を持って部屋を出ようとした。
「琳子」
真後ろから声がして、琳子は思わず振り返った。
振り返った途端、樹の顔が近づいてきて……唇が重なった。
「!」
「琳子、俺……本気だから」
部屋の中に、乾いた音が響く。遅れて、床に資料が落ちる音がした。
「不意打ちなんて、ひどいですっ!」
琳子は目尻に涙を浮かべ、樹の頬を叩いていた。樹は薄ら笑いを浮かべ、落ちた資料を拾って無言で琳子に渡した。琳子は奪うように受け取り、急いで外に出た。
「じゃあな」
樹はそれだけを言い、琳子の側から離れていく。琳子は涙を拭い、部屋に鍵をかけた。総務部を経由して鍵を戻し、自席へと戻った。
(わ……私の初めてをっ)
琳子は悔しくて、しばらく仕事が手につかなかった。