螺旋の鎮魂歌


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【九章】甘いキス




 この町でいくつ目だろう。
 魔王の住んでいた洞窟からホスティア川沿いをずっと旅してきた。途中のさまざまな村と町を通り、ここを過ぎるとグラデュアル国とコンフュタティス、トラクタスの国境を管理している関所となる。そこを越せば、トラクタスだ。
 関所、と言ってもそれほど大したものではない。今は常時、だれでも通ることができる。川幅の広いホスティア川を安全に渡ろうと思ったら、関所に架かる橋を渡るのが一番だ。見た目より流れの速い川を小舟で渡ろうとしたらあっという間に流され、その流れの中に身を沈めることとなってしまう。ここを通ってトラクタスに行くしかない。
 別ルートとしてもっと上流でセキュエンティアに入り、ぐるっとグラデュアル国国境を沿うように回ってベネディス川を越えてトラクタス入りする手もあるが、セキュエンティアとトラクタスは仲が悪いため、こちら経由でトラクタス入りするのは絶望的である。
 グラデュアル国に入って横断してトラクタスに入るという手もあるが、今のサンクにはそれは危険なルートであった。
 一番確実で無難なルートである関所越えをサンクは選んだ。

 やはりこの関所手前の町でも二人は歓待を受け……未だに慣れぬ歓迎に戸惑いながら二人は曲を披露して、ようやく用意してもらった宿でゆっくりすることができた。

「サンク、明日は関所越えなんだよね」

 お風呂に入り、さっぱりしたキリエはにこにこしながらサンクへと聞いてくる。
 当初予定していたグラデュアル国入りは無意味のような気がしたのでこのままトラクタスの港町へ足を運ぶことにしていた。目指す町はオフェムという名前。川と海に囲まれた港町で雰囲気がイエム村と似ていると以前、旅人が話をしているのを聞き、ここを目指すことにした。サンクの生まれ育ったイエム村も川に沿うようにあり、その最下流にオフェムの町はあった。
 イエム村ではいい思い出はない。しかし、やはり生まれ育った村である。あの空気に近いというのなら新しい生活にもすぐに慣れることができるだろう。
 問題は、キリエだ。キリエが今までどういう生活を営んできたのか、サンクにはまったく分からなかった。あの洞窟のあった周辺はコミュニオ山脈の中で、あのあたりは大変寒い。オフェムの町のあるあたりは温暖な気候で環境がまったく違う。なじむことができるのか、それだけが心配であった。
 村や町の中ではそうではないが、川沿いの街道を歩いているとキリエはたまにコミュニオ山脈に視線をやり、遠い目をしていることがある。あの洞窟を恋しがっているのかもしれない。それならこのまま関所を越えずにホスティア川を下って行ってコミュニオ山脈が見える大きめの街で生活しようか──。そんなことをこの関所を直前にして思ってもいたりする。

「キリエ……」

 聞こうかと思ってふとキリエを見ると、ベッドに丸くなって寝息を立てていた。今日は少しいつもより距離を歩いたから疲れていたのかもしれない。サンクは少し微笑んでキリエに布団を掛ける。

「サンク……わたしを置いていかないで」

 その一言にどきりとする。もちろん、置いていくつもりはない。
 最近、サンクはキリエの両親はどんな人だったのだろうか、と考える。
 ミサと同じピンクホワイトの柔らかな髪。夕焼け空を思わせるプラム色の瞳。整った顔立ち。優雅なしぐさ。伸びやかな声。
 両親は亡くなった、と言っていた。
 今まで、キリエのことに興味がなかったわけではない。だけどなぜか聞いてはいけないと心のどこかで思っていた。
 それは、サンクの中である種の予感だったのかもしれない。
 自分の中に育ってきたキリエへの想いすべてが粉々に砕かれてしまうような気がしていた。
 しかし、今のままではいけないことにようやくサンクは気がついた。関所を越える前に一度、キリエに確認をしよう。
 寝顔に視線を落とし、サンクは部屋の明かりを消した。
 隣のベッドにもぐりこみ、サンクは大きくため息をついた。
 今日こそ朝まで起きることなく、ゆっくりと眠らせてほしい。そんな願いを胸に、サンクは目を閉じた。


「うわあああっ!」

 やはり今日も、夢を見た。ミサと魔王が血まみれでサンクに迫ってくる夢。おまえに殺された、と恨みがましそうな瞳で二人が迫ってくる。

「サンク……?」

 ベッドの上に飛び起きて上半身を起こしていたサンクにキリエは気がついて声を掛ける。

「すまない……」
「ねえ、サンク。毎日うなされているけど、大丈夫?」

 キリエのその一言にサンクはキリエの顔をじっと見る。眠っているとばかり思っていた。それが気がつかれていたとは。
 キリエはベッドから降りてサンクのベッドまでやってきた。

「毎日そうやって目が覚めているのは……わたしのせい、なの?」

 泣きそうな表情のキリエを外から射し込む月明かりがその姿を浮かび上がらせている。あまりの神々しさにサンクは思わず目をそらせる。キリエにはサンクのその動作が肯定と映り、今までため込んできた思いが一気にあふれ出した。

「サンク、お願い。お願いだから……わたしを見て!」

 ずっと我慢していた。自分は独りになってしまったと思っていた。洞窟から離れれば離れるほど、孤独で胸が押しつぶされそうになる。でも、そんな自分の側にサンクはいてくれた。そのサンクは自分にだれかを重ねて見ていた。それでも最近はようやく自分を見てくれるようになった……そう思っていた。
 サンクがいてくれる。わたしのことを考えてくれている。
 そう思っていた。思っていたのに……。
 視線をそらされた時、自分の中で我慢していたものが簡単に崩れ去った。

「お願い、サンク。わたしを拒否しないで。置いていかないで。独りに──しないで」


 キリエはそう言って泣きじゃくる。サンクはどうすればいいのか分からず、うろたえる。
 こんな時、抱きしめていいのだろうか。自分が触れたら、壊れたりしないだろうか。穢れないだろうか。
 いや……キリエはどこまで行っても無垢な魂の持ち主だ。自分のような人間が触れたくらいで穢されることはない。だから、大丈夫。
 自分に言い聞かせ、恐る恐る、キリエを抱き寄せる。キリエはすがるようにサンクの胸に抱きつき、子どものように泣きじゃくる。


「サンク……置いていかないで。独りになるのは嫌なの。怖いの」

 あの洞窟では、いつでもだれかの気配があった。一人になりたい、と思うことはあったけど、そういう時はキリエをそっと遠くから見守るようにして、一人にしてくれた。だから、一人だけど独りではない。常に温かな視線を感じていた。
 しかし、サンクに連れられてあの洞窟を出てからは……あの温かな視線はもう感じない。それが父と母の視線だったと、キリエはそこで初めて気がついた。

「サンク……お願いだから……」

 キリエは泣きながらサンクの腕の中で眠ってしまった。サンクは無防備に寝顔を見せるキリエに身体がたぎる。泣きぬれたまぶたに口づけをするとキリエは身じろぎした。それを見て、サンクは冷静になった。

 ここのところずっと、キリエに冷たい態度を取り続けていた自覚があった。あまり近寄るとキリエを穢してしまいそうで。キリエの横にいて、みだらな妄想に耽るだけでキリエが汚れていくような気がして、想像しないように……だけど止められなくて。離れれば少しはましになるかと思ったが、無理だった。一度離した手にサンクは後悔していた。あんな汚らしい男にキリエを近づけてしまった。
 サンクは自分のことは棚に上げ、あの男に憤った。
 キリエに触れていいのは自分だけだ。いや、触れてはいけない。一点の曇りもない純真無垢な魂には触れてはいけない。
 しかし、先ほどのキリエの涙でサンクは思い知った。
 キリエは、自分が触れても穢れる存在ではない。自分なんかがその色を変えられるなんて、それは傲慢以外のなにものでもなかった。
 サンクはキリエの額に口づけをする。泣きぬれ、しかめっ面をしてまぶたを閉じていたキリエの表情がそれでかなり和らいだ。
 ほら、やっぱりキリエは自分なんかが触れても穢れない。自分の思いこみでキリエに辛い思いをさせてしまっていた。
 サンクはキリエを抱きしめる。
 そのまま抱きかかえ、ベッドに寝かせて離れようとしたが、キリエはサンクの服の裾をつかんだまま、離してくれない。サンクは苦笑して、そのまま一緒のベッドにもぐりこむ。
 ドキドキして眠れないかもしれない。そう思ったのはほんの一瞬だった。
 うなされて起きた後、いつも眠れずにいたのに……キリエの横では、思っていた以上に深く安らぎのある眠りに就くことができた。



 目が覚めると、うっすらと日が昇っていた。目の前にキリエの寝顔があることにサンクは驚く。キリエを起こさないように、しかしあわてて布団から抜けだす。その気配にキリエは目を覚ましたようだ。サンクは完全に布団から抜け出てからキリエが目を覚ましたことにほっとした。

「あ……えっと、あの」

 戸惑う声にサンクはキリエに向かって微笑む。

「昨日はその、ごめんな。もう、大丈夫だから」

 サンクはキリエにまっすぐに向かってそう口にする。

「独りにしないから」


 サンクの言葉にキリエは昨日の出来事を思い出す。
 サンクの叫び声に目を覚まし、半分寝ぼけたまま……とんでもないことを口走ったような気がした。起きてきた頭で昨日の夜中の出来事を思い出し……。

「サッ、サンク! あの、ごごごめんなさいっ!」

 思い出せば、サンクにしがみついて大泣きしたような気がする。独りにしないで、と泣きついた。
 キリエの言葉にサンクは微笑み、ふんわりと抱きしめる。

「独りにしないし、もうさみしい思いはさせないから」

 いつも以上に優しいクロムグリーンの瞳にキリエの心臓はどきりとはねる。サンクの大きな手がキリエの髪をなでる。額に柔らかな感触を感じる。視線を上げると、そこにはサンクの瞳があった。腫れぼったいまぶたにキスをされ、キリエはそこに熱を感じた。

「ごめんね、はこちらのセリフだよ、キリエ」

 サンクはキリエを抱きしめる。熱い腕にキリエは安堵を覚える。

「キリエ……ずっと側にいてくれる?」

 サンクは少し不安そうな瞳でキリエに再度、確認している。

「うん。ずっと側にいるから。サンクこそ、わたしから離れていかないで。わたしをずっと、側に置いていてね」

 サンクはキリエの頬に手を当て、そっとまぶたを閉じるように促す。キリエは素直に瞳を閉じた。サンクの指はキリエの艶のある赤い唇をなぞり、その唇に自分の唇を重ねる。
 キリエは初めて感じる唇の熱い感覚に身体が震えた。開けてはいけない扉に手を掛け、そっと隙間を覗きこんでしまったような背徳感。ぞくり、と背中になにかが駆け抜けた。

「キリエ、守るから……」

 キリエは一人で身体を支えられなくて、サンクにしがみついた。


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