松落葉(まつおちば)


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【十四話】松落葉(完)



 目が覚めたら、天井が白かった。維織は見覚えのないその白に、眉間にしわを寄せ、頬が引きつるのを感じた。頬を触ろうとして腕に力を入れたら、痛みが走る。

「っ……」

 顔を動かそうにも、首が痛くて動かない。目だけで周りを見ると、点滴が見え、隣にベッドが見える。そこでようやく、ここが病院だと気がついた。
 自分はどうして病院のベッドの上にいるのだろうか。考えて、ようやく思い出した。
 能松島の宿泊棟の一室に閉じ込められ、そこから逃げ出したところで、宿泊棟が爆発し、炎上したのだ。
 どうして自分が病院にいるのか、他の人たちは無事なのか。維織の中に様々な思いが駆け巡る。

「維織?」

 聞き覚えのある声。数日前に行ってらっしゃい、気をつけてねと言ってくれた、母だ。

「お……か」

 お母さん、と声を出そうとしたのだが、声にならなかった。

「ああ、ようやく目を覚ましたのね」

 涙声の母に、心配をかけてしまったことに気がつき、胸が痛んだ。

「今はゆっくり、休みなさい」

 幼い頃、風邪で寝込んでいるときと同じ言葉をかけられて、維織は現実に帰ってきたんだと実感した。ほっとして、目を閉じる。もう帰ってこられないかと思っていた。だけど、戻ってこられた。とにかく今は、母の言うとおり、ゆっくり休もう。考えるのは、目が覚めてから。維織は自分に言い聞かせ、もう一度、夢の世界へと旅立った。

     *     *

 維織の目の前に、あの松風がいる。お面だけではなく、白い着物に目にも鮮やかな紅色の袴を身につけた人物。その人は扇を持ち、無音の中、能を舞っている。
 その横に、もう一人。璃々香の部屋にかかっていた村雨。姉妹は舞う。その舞は、悲しみなのか。ゆるゆると二人は舞う。衣擦れも聞こえてこない。舞台の上でスポットライトを浴びているかのように、二人のところだけは明かりが見える。二人は舞う。
 突然、カメラのフラッシュを浴びたかのように視界が赤く染まる。二人の背後に地面から赤い柱が立ち上がっている。それがフラッシュのように見えたようだ。あれは赤い柱……? いや、違う。炎だ。柱と思った炎は数を増やし、炎同士が繋がり、大きなうねりとなって火の粉をまき散らす。
 薪能(たきぎのう)というのがあると、そういえば真吾が言っていた。薪の明かりだけで行われる、幻想的な能なんだとか。薪にしては少し派手よね、あの炎の柱とぼんやりと維織は思う。
 炎は意思を持った生き物のようにうごめき、能を舞っている二人を飲み込んだ。
 四つの影が現れる。なにかを言い争っている。
 これは、あの島で見た出来事?
 影は消え、視界が赤くなる。
 熱い、身体が熱い──!


「熱いっ!」

 維織は自分の声に、目が覚めた。

「維織? 大丈夫?」

 心配そうな声。母の声と気がつき、維織は息を吐き出す。その息が熱い。

「熱いのは仕方がないわ。熱があるんですもの」

 維織の視界にぼやけた母の顔。よく見えないのは眼鏡をかけていないからだろうか。

「痛いところはない?」

 身体が妙な熱を持っていて、節々が痛い。ぼんやりと、意識が遠くなる。

     *     *

 それから維織が普通にベッドの上に身体を起こせるようになったのは、一週間くらい経ってからだった。
 面会許可が下り、一番最初に訪れたのは申し訳なさそうな表情をした、赤塚だった。

「申し訳ございません……」

 恐縮しまくっている赤塚に、維織はどうすればいいのか分からず、おろおろした。

「島に到着してすぐに、青葉がだんなさまからすぐに戻るようにと連絡があったと言われて、お嬢さまたちだけを残して戻ることを気にしながら、戻ったんです」

 璃々香がそんなことを言っていた。

「慌てて戻って、だんなさまのところに行くと……そんなことは言ってないと。逆にどうして島に璃々香さまたちだけを残したと怒鳴られ……ほんと、えらい目に遭いました」

 それからすぐに島へと戻ろうとしたのだが……。

「港に着いたのは、すっかり暗くなってからだったので、次の日にしようかと。あの辺り、夜になると潮が読めないんですよ。それに、陸地は大丈夫だったのですが、海の上だけ妙に荒れていたので」

 宿に泊まり、のんびりしていたら、海の上が燃えている、と騒いでいる声が聞こえて、外に出た。

「遙か遠くに真っ赤に燃える能松島が見えるではないですか。驚いて、周りが止めるのを振り切って、クルーザーで島に向かって……」

 桟橋には維織が倒れ、浜辺には璃々香と真吾、そして青葉と……。

「もう一人、女性がいて。いやぁ、驚きました」

 璃々香たちが無事だったと知り、維織はほっとした。しかし。

「なにがあったのか、天野さまは壊れてしまったかのようにぼんやりとしていましたし、璃々香さまは妙に妖艶というか……魔性にとりつかれたかのような壮絶な表情をされていまして……。正直、生きた心地がしませんでした」

 赤塚はそこまで言い、口に手を持って行き、周りを見回した。

「……すっ、すみません。今のは聞かなかったことに」

 赤塚は再度、慌てて周りを見回す。周りにだれもいないことを確認してほっとしたところ。病室の扉がノックされた。赤塚は椅子から飛び上がり、おどおどした表情で扉を見る。乾いた音を立てて、扉が開いた。

「維織さま、お加減はいかがですか」

 扉の向こうには、青葉が立っていた。炎に巻き込まれたのではないかと思っていた維織は、その姿に安堵した。

「青葉さん、無事だったんですね」

 とは言ったものの、松葉杖をついている。あの炎の中だ、無傷ではなかったのだろう。赤塚は青葉の顔を見るなり青ざめ、まるでお化けか幽霊でも出たかのような表情をして、そそくさと部屋を出て行った。それと入れ替わり、青葉は部屋へ入ってきた。白いブラウスに黒の膝丈より長いフレアスカート。髪は後ろで一つに縛っているようだ。

「維織さまにお詫びに来たんです」

 そう言われて、維織は思い出した。無理矢理、部屋に閉じ込められたことを。

「部屋に閉じ込め、申し訳ございませんでした」

 青葉は深々と頭を下げる。

「わたしの話を少し聞いてくださいますか」

 部屋の隅にたたずむ青葉に維織は椅子を勧める。しかし、青葉はかたくなに拒否した。維織はあきらめ、青葉の話を聞くことにした。

「わたしには一つ上の姉がいます。名前は井村若葉と申します」

 青葉と若葉は姉妹だったが、親が離婚して、姉の若葉は父に、青葉は母に引き取られた。姉の若葉とは仲がよく、両親には内緒でよく会っていた。若葉は勉強が好きで、大学に進学をした。

「そこで、真吾さま……いえ、あのにっくき男と出会ってしまったのです」

 維織は顔を上げ、青葉を見た。その瞳は憎しみの炎に彩られていた。
 姉の若葉は松花大学に入学、真吾の強引な勧誘で『デジタル写真部』へ入部することになった。維織は自分と同じ境遇に、親近感が湧いた。

「そして、あの男にもてあそばれ……姉は捨てられたのです」

 真吾の周りにたくさんの女性がいたことを維織は思い出す。

「姉は絶望して、自殺未遂を起こし、心身のバランスを崩して入院生活を余儀なくされ、大学も中退」

 青葉はそんな姉を見て、相手の男に復讐することを誓ったが、母に負担をかけたくなくて、高校を卒業してすぐに宮下家のお手伝いさんとして働きに出ることとなっていたため、その思いは胸の内にしまっていた。

「でも、わたしには宮下家でのお手伝いという仕事はチャンスだったのです」

 璃々香と真吾が仲がよいことを知り、真吾に復讐をする機会をずっとうかがっていたという。

「今回の能松島行きの話を聞いたとき、ラストチャンスだと知り、同行を願い出たのです」

 真吾を脅すためにいろいろと罠を仕掛けていたのだが、なぜかいつも維織がいて、結果、巻き込むことになってしまったという。

「もっ、もしかして……あの能面落下も」
「はい、申し訳ございません。あの男だけを脅かそうと思ったのですが……」

 思い起こせば、真吾といるときにだけ、なにか恐ろしい目に遭ってきた。しかし。

「おっ、お風呂場で足を引っ張ったのは?」
「お風呂場で? わたしはそんなことはしておりませんが」
「お風呂場の鏡の向こうに見えたのは……?」

 ずぶぬれになった髪の長い女が立っていたのを思い出す。それだけで背筋がぞっとする。

「それは姉です」
「じゃ、じゃあ、部屋でお面がやたらと顔の上に落ちてきたのは……?」
「わたしはそんなことはしておりません。維織さまに対して、というのはあの倉庫に閉じ込めた以外は」

 それではやはり、あれは繁史の奥さんの梨絵の……?

「失礼いたします」

 声が聞こえ、病室の入口に視線を向けると、車椅子を押している和服を着た初老の女性がいた。視線を少し下に向けると、車椅子に座っている女性が視界に入った。その顔を見て、維織は悲鳴を上げそうになった。鏡の向こうで見た、あの顔だ。
 二人は室内に入ってきて、扉を閉めた。

「維織さま、ご紹介いたします。車椅子に乗っているのはわたしの姉の若葉、そして、その後ろの方は……」
「繁史の妻の梨絵でございます」

 維織は目を見開いた。梨絵は亡くなっているとばかり思っていたからだ。

「能松島で大変な目に遭われたようで……。その様子ですと、ワタクシと繁史の話はお聞きになっているようですね」

 やわらかく笑う梨絵に、維織はなんと答えていいのかわからない。

「繁史に確かに背中から刺され、井戸に捨てられましたが……幸いなことに、致命傷ではなかったようなのです。ワタクシはあわてて島を出て、繁史から逃げました」

 梨絵は目を伏せ、話を続ける。

「ワタクシが押しかけ、結婚を迫ったのに……結果はこんなお粗末なことになりました。その後、繁史は狂ったように能面を打ち続け……絶命したようです」

 宮下さまにはご迷惑ばかりかけました、つぶやいた。

「あの島には、なにか魔が住み着いていました。ワタクシも繁史も、あそこのなにかにとりつかれていたとしか思えません」

 維織はてっきり、あのお風呂の手も真吾に絡みついていた白い手も梨絵だと思っていた。

「あの白い手は……じゃあ」

 維織のつぶやきに、青葉と梨絵は顔を見合わせる。

「白い手?」
「はい……。天野先輩に絡みついていたんです。それと、夢の中にも出てきて、もう少しでつかまれそうになりました」

 松風のお面を思い出す。

「部屋にあった、松風のお面に助けられました」

 そのお面も、あの爆発と炎で焼けてしまった。

「あのお面に……そうですか」

 梨絵は微笑み、維織を見つめる。

「あの姉妹のお面にあなたは好かれていたのですね。あの悲劇の姉妹も、あなたを救うことができて、きっと満足していることでしょう」

 その救ってくれたお面が燃えてしまったことに維織は胸が詰まった。

「あの……建物の爆発も?」

 言外に青葉がやったのかと聞くと、滅相もない、と青葉は首を激しく振って否定する。

「わたしはあの男を脅すだけで、あんな大胆なことは」

 では、あの爆発はいったいだれが? 璃々香か真吾がやったとは思えない。

「あの……大変申し上げにくいのですが……」

 青葉は真っ赤になり、うつむく。維織は青葉がなにを言おうとしているのか、まったく分からなかった。

「もっ、もしかしたら、ですが……。璃々香さまとあの男は、その……あの」

 耳まで真っ赤になっている青葉に、維織はなんとなく察した。
 廊下でキスをして抱き合っていた二人。青葉と維織がいなくなり、部屋に二人きり。

「あの島には女の怨念がこもっていたのかもしれません。特定のだれか、というわけではなく、『オンナ』の……。島の形も般若ですし、それがもしかしたら」

 そう言われると、なんとなく納得してしまう。あの島は、確かになにかがおかしかった。だからそう言われても説得力があった。

「まだ体調のよくない人のお部屋にいつまでもいられませんわね。青葉さん、若葉さん、戻りましょうか」
「そうですね。維織さま、本当に色々と申し訳ございません」

 青葉は深々と頭を下げ、三人とも出て行こうとした。

「あのっ……!」

 維織の声に、三人が振り返る。

「青葉さんは……これから、どうされるのですか」

 維織の問いに、はかない笑みを浮かべる。

「これからのことは、ゆっくり姉と一緒に考えます。時間はたっぷりあるのですから」

 それでは、と部屋を出て行った。

 一人になった部屋で、維織はため息を吐く。
 からくりが分かってしまえば、あんなに怖かった出来事も怖くなくなった。しかし、それでも疑問のまま残ったこともある。

「維織、こんな荷物が届いていたんだけど」

 家に戻っていた母が、維織宛だという荷物を持って部屋に入ってきた。維織はそれを受け取り、宛名を見る。差出人は空欄。品物名も書かれていない。まさか爆弾? と思いつつも、ある予感に維織は思いきって開けた。
 中には、能松島に持って行ったノートパソコンが入っていた。あの爆発で駄目になったと思っていたので、驚きだった。
 早速取り出し、起動する。ネットに接続すると、普通にできたのでメールチェックをする。しばらく確認していなかったので、かなりの数のメールが届いていた。中には、能松島で連絡を取った高校時代の友だちからの心配のメールがあり、会う約束をしていたことを思い出した。もしかしたら、携帯電話にも連絡が来ていたのかもしれない。
 慌てて、簡単なお詫びとともに、けがをして入院をしているとメッセージを書いて送った。
 一つずつメールを見ていて、その中に見覚えのあるメールアドレスがあった。どこかで見たことがあるけどだれか分からないアドレス。しばらく悩み、真吾のものだと思い出した。維織はおそるおそる、メールを開く。
 真吾からかと思ったら、どうやら璃々香が代理で書いているようだった。
 とんでもないことに巻き込んでしまったお詫びと、璃々香と真吾の行方について書かれていた。

「え……」

 最後に書かれた一文を見て、維織は我が目を疑った。
『わたくしとしんちゃんは現在、海外のとあるところに来ています。
 事情があってどこかは書けませんが、元気で暮らしています。
 先日、わたくしたち、籍を入れたんです』
 籍を入れた……? 結婚、ということ?
『わたくしの中に、新しい命が宿りました。
 また、連絡を入れますね   宮下 璃々香』
 維織の頭の中で、ぐるぐるといろいろなことが巡る。
 返事を書こうかと思ったが、うまく言葉を思いつかなくてぼんやりしていたら、新着メールのお知らせ音が部屋に響いた。確認すると、先ほど送った友だちからの返信だった。
 無事ならよかった、驚いた、けがは大丈夫か、といういたわる言葉の次に、
『そういえば、維織から教えてもらったサイトにアップされた写真を見ていたんだけど、数枚、気になるものがあったの』
 とアドレスが貼られていた。維織はクリックして、その写真を見て……悲鳴を上げた。
 維織が写したあのウキクサみっしりの池の写真。よく見ると端にぼんやりと女の顔と白い手が写っている。真吾が食堂で見ていたときにこれは? と言っていたのはもしかしてこの写真のことだろうか。
 もう一枚は、維織も見つけた松林を撮った写真。やはり改めてみると、人影に見える。
 そして次の写真……。璃々香と真吾が楽しそうに話をしている何気ないショット。しかし……真吾の背中にはあの白い手と夢の中で見た女の顔が。
 維織はノートパソコンを勢いよく閉めた。

「維織? どうしたの」

 その音に母が声をかけてきた。

「なっ、なんでもないっ!」

 写真なのに、閉じる瞬間、女の身体が動き、璃々香のお腹の中に吸い込まれた。

潮風に はらりと舞うは 松落葉

【おわり】







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