松落葉(まつおちば)


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【七話】朝日の中での出来事



 宿泊棟にたどり着き、部屋に戻ろうとした維織に璃々香が声をかけてきた。

「お風呂に入りに行こうか」

 部屋の前で待ち合わせることにして、それぞれ部屋に入る。
 維織は部屋に入って電気を付けて、違和感を覚えた。なにがおかしいのだろう。部屋を見回し、ベッドの先の壁を見て、悲鳴をあげそうになった。
 さっきまでかかっていなかったはずの能面が、壁にあったのだ。切れ長の女面。
 どうしてそこに能面があるのか、維織は部屋にいたくなくて飛び出し、隣の璃々香の部屋を叩いた。

「宮下先輩っ! あのっ」
「なぁに。もう準備ができたの?」

 璃々香が部屋から出てきた。

「さっきまでかかってなかった能面がっ!」
「能面?」

 維織は璃々香の腕を引っ張り、一○四へ一緒に入る。

「さっきまであそこにかかってなかったんですけどっ」
「あら、そうなの? この部屋は別名『松風』といわれているのよ。『松風』という能曲で使用する女面を飾っている部屋だからそう付けられたの」

 なんでもないじゃない、と璃々香は部屋に戻っていった。
 維織はこの能面と今夜、ともにすごさないのかと思ったら泣きそうになった。昼間の大量能面落下事件を思い出したからだ。
 維織は能面にハンカチをかけてみた。見えないことが余計に恐怖心をあおり逆効果になることに気が付き、あわててはずす。能面を壁から外す、ということも考えたのだが、触るのも怖くて諦めた。
 今はお風呂が先決ということを思い出し、維織はあわててお風呂の準備をして、部屋を出た。

「お待たせ」

 維織とあまり変わらないタイミングで璃々香も部屋から出てきた。
 お風呂は部屋のすぐ目の前で、中に入ると思っている以上に広い脱衣所に驚いた。

「ここは最大で十人は泊まれるから、お風呂は大きいのよ」

 脱衣所で維織のことを気にしないで脱ぎ始めた璃々香に少しドキドキしながら維織も脱ぐ。璃々香は先に入り、維織も後を追った。
 浴場は広くて維織は感嘆の声を上げる。先ほどの能面のことはすっかり忘れてご機嫌になった。
 広い湯船で泳いで璃々香に呆れられたり、璃々香の凹凸のある素晴らしい裸体をこっそり盗み見したり、楽しい一時を過ごした。
 お風呂から出て、部屋に戻る段階になり、あの能面を思い出して維織は泣きたくなった。しかし、いつまでも廊下にうろうろしていられない。維織は自分に気にしない、と暗示をかけてからドアを開けた。電気を付け、壁を見る。ベッドの枕側上部にやはり、能面が取りつけられていた。
 維織はこれは掛け時計だ、気にするな、と言い聞かせる。
 気になるが、できるだけそちらに視線を向けないようにして維織は片付け、ベッドにもぐりこむ。寝るにはいつもより早いのだが、今日はいつも以上に刺激にあふれた日で、疲れていた。電気を消し忘れていることに気がついたが、枕元に置かれたリモコンで室内の電気を消せることに気が付き、珍しくて付けたり消したりして遊んでしまった。ひとしきりいじり倒して満足した維織は電気を消して、目を閉じる。あっという間に眠ってしまった。

     *   *

 額に衝撃を受けて、維織は目を覚ました。
 一瞬、なにが起こったのか分からない。しかし、室内はまだ暗く眠かったので、もう少し寝ようと寝返りを打った。目の前に能面があることに気が付き、一気に目が覚めた。飛び起きてベッドから転げ落ちる。
 真っ暗な上、寝るために眼鏡をはずしていたので周りがよく見えない。這いつくばったままベッドに近寄り、手探りで室内灯のリモコンを探す。

「ひぃっ」

 予期せず能面を触ってしまい、維織は悲鳴をあげる。驚いて能面を思わずフリスビーのように投げつけてしまった。壁に当たり、固い音を立てて落ちたのが見えた。
 寝る前の記憶を頼りにしてリモコンを探し出し、電気をつける。明るくなった室内にほっと一息。
 枕元で充電している携帯電話を開いて時間を確認する。早朝と言っていい時間。能面のことがあって二度寝する気になれなかった。アンテナが立っていることを確認した。
 服を着替えて部屋の外に顔をのぞかせる。

「維織、早起きだな」

 すでに着替えた真吾は廊下にいて、維織に気がついたらしい。

「昨日行った井戸に写真を撮りに行こう」

 怖かったので嫌だったので拒否の言葉を口にしようとしたら、

「部長命令だ。嫌というのなら、今から泳いでこの島から出ろ」

 ひどいことを言ってきたので維織は諦めて部屋に身体を戻し、デジカメを持って部屋を出た。
 真吾はすでに準備ができているようで、さあ、行こうと張り切っている。
 そういえば璃々香に二人きりにならないようにと忠告されたなあ、とぼんやりと思いながら維織は真吾の後を追いかけた。
 昨日の反省を生かし、維織はパーカーではなくてトレーナーにした。
 外に出るとうっすらと明るくはなってはいたものの、まだ暗い。真吾は懐中電灯を付けて夜と同じルートをたどる。寝ている間に露が落ちたせいで夜に歩いた時と違って少し湿っている。二人の歩く音が朝の空気を切り裂いていく。

「松は常緑樹の代表みたいに言われるが、落葉樹と違って葉が一気に落ちるわけじゃないから年中青々しているんだよな。松だって地面を見れば分かるが、生え換わる。髪の毛と一緒で中から新しい芽が出て来て、古い松葉は地面に落ちて行くんだ」

 髪の毛、と言われてまたもやあの井戸から出てきた恨めしそうな表情を思い出し、維織は昨日のあの白い手を忘れたくて頭を振る。

「天野先輩、昨日のあの白い手」
「白い手? 光の加減だろう」

 あの時、一緒になってあんなに怖がっていたのに、真吾はそんなことを言っている。
 真吾は懐中電灯を振りまわしながら鼻歌を歌っている。お世辞にも上手とは言えず、しかも、懐中電灯を振りまわしているので足元がよく見えない。

「天野先輩、足元が」
「なんだ?」

 せっかく気持ちよく歌っているところを邪魔されたという表情で真吾は維織を睨みつける。維織は心の中で
「天野先輩はジャイアン」
とあだ名をつけ、なんでもありません、と口をつぐんだ。
 こけないように足元を気にしつつ、上の松の枝にまた引っ掛からないようにしながら歩く。まいまいず井戸に到着した頃には維織はぐったりとしてしまった。寝起きからこんなに神経を使っていて、今日一日体力が持つのだろうか、と不安に思う。
 日が少しずつ昇ってきているお陰で周りは宿泊棟を出ることより明るくなっていた。昨日は暗くて懐中電灯の明かりでしか見ることができなかったまいまいず井戸。うっすらと白く煙っているのは朝からだろうか。
 すり鉢状になっていて、底に井戸らしきものがあった。井戸までの道がらせん状になっていてこれが名前の由来なのか、と維織は初めて知った。

「まいまいず井戸のまいまいはカタツムリのことだな。カタツムリの天敵であるマイマイカブリというのがいるのは知っているか?」
「マ、マイマイカブリって……あの、見た目がちょっとごき」
「そのマイマイカブリは日本固有種というのは知っていたか?」

 維織の言葉にかぶせるように真吾は質問をしてきた。

「え? あれって日本だけなんですか? エスカルゴは食」
「耳の奥の器官もカタツムリに似た形の物があるよな。蝸牛(かぎゅう)といって三半規管の奥にあるうずまき管とも呼ばれて」

 維織はそこで真吾のうんちくを遮断した。

「あの井戸まで行ってみよう」

 一通り語り終えたらしい真吾は満足した表情で井戸に降りるためのらせん状の坂道を降りていく。最近は使われていないようで、草が茂っていて歩いて降りることに躊躇したが、真吾の後ろについて勇気を出して降りる。朝露に濡れた草の間を降り、底に到達した。
 昨日、この井戸の蓋が開いて、白い手が……。
 情景を思い出し、維織はぞっとする。
 真吾は躊躇することなくふたを開け、中を覗き込む。

「なんだ、水はないのか」

 井戸というから水があるのかと思ったら空っぽで、すぐに乾いた地面が見えた。

「維織、写真を撮って帰るぞ」

 真吾はここにどうしてやってきたのか思い出したようで、首からかけていたデジカメであたりを撮り始めた。維織も電源を入れて井戸の中を撮ったり、ふたをし直して撮ったり、螺旋の底から上を撮ったりした。
 写真を撮り、ぐるりと回って上に登って再度、井戸を見る。

「せっ、先輩っ!」

 真吾も同じものを見たようで、真っ青な顔をしている。

「こ、今回もやっぱり、光の加減、でしょうか」
「そうしておこう」

 ふたをしたはずなのに、端がめくれ、一瞬だけ黒い髪の毛が見えたような気がした。

     *   *

 宿泊棟に戻ると、朝食の支度をしている青葉と出会った。

「おはようございます。朝風呂に入れるように準備しておりますが、いかがいたしますか」

 朝風呂、と聞いて、身体が思ったより冷えていることに気がついた維織は喜んで入ることにした。
 部屋に戻り、準備をして一人、お風呂へと向かう。
 広々としたお風呂場に、昨日は気がつかなかったが天井から光が差し込んでくる。朝の明るい光の中、維織は軽く身体を洗い、湯船に浸かる。

「はー、極楽、極楽」

 少しおっさんくさいな、と思いながら維織はつぶやく。先ほどの光景を湯船に溶かしてしまおうとあごまでお湯に浸かる。音を立ててお湯があふれ出ている。
 なにげなく排水溝に視線をやる。流れが悪くなっているようで、水が滞っている。昨日はそんなことなかったのに変だな、と湯船を泳いで近寄る。眼鏡をかけていないので、よく見えないがこんもりと黒い山が見える。
 近寄って、後悔した。

「ひぃっ」

 思わず声が漏れる。
 大量の髪の毛が詰まって、水の流れが悪くなっているようだ。真吾の先ほどの松葉は髪の毛のようだ、という話を思い出し、温かいお湯の中にいるのに鳥肌が立つ。
 早く上がろう、と急いで排水溝から離れ、湯船の淵へ向かおうとしたら、足が滑った。お湯の中に転げ、あわてて起き上がろうとしたが足を引っ張られた。自分一人しかお風呂にはいないはずなのに、と思うとさらに鳥肌が立つ。つかまれた足首は氷を当てられたかのように冷たい。つかまれていない足で必死に手を蹴って振りほどき、淵に手をかける。
 乾いた音がして、戸が開き、璃々香が入ってきた。

「おはよう、維織。あらやだ、だれもいないからって潜るなんて」
「違うんです! 足がすべって、しかも、だれかに足を引っ張られて」

 つかまれた足首の冷たい感触を思い出し、維織は泣きそうになる。

「やだ、なにを言ってるのよ。今までここには維織一人しかいなかったでしょ? だれがあなたの足を引っ張るのよ」

 天井から朝の光が降り注ぐ中、そのさわやかさとは対称の身の毛がよだつような出来事に維織はあわてて湯船から出た。
 維織は髪の毛を乾かしながら先ほどのことを思い出す。
 璃々香がいうように、確かに自分しかお風呂場にはいなかった。つかまれた足首を見て、維織は悲鳴を上げた。
 そこにはくっきりと指の跡が残っていた。






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