【六話】まいまいず井戸
維織はノートパソコンを抱えて部屋を出た。先ほど撮った写真についてアドバイスをもらおうと思ったからだ。
廊下に出ると、真吾も同じようにノートパソコンを抱えて部屋を出てきたところだった。
「維織、あのデジカメ、すげーよ!」
興奮気味の真吾を見て、アドバイスをもらおうと思った気持ちが萎えた。
真吾は開きっぱなしのノートパソコンを維織に押し付けるように見せてきた。
「この間抜け面、最高だろう!」
画面いっぱいに表示されていたのは、維織が必死になってデジカメを構えて写真を撮っている一コマ。維織にピントが合い、風景はぼけている。維織の口は開き気味でかなりカッコ悪い。これがいつ撮られていたのか知らなかった。
「こっちも見てくれ」
先ほど撮った写真だと思われるものが次々に画面に現れる。どの写真を見てもよく撮れていて、維織は恥ずかしくなってノートパソコンを後ろ手に持ち替えた。
「お、維織も持ってきたのか」
隠したつもりが逆に気付かせる結果になってしまってしまい、維織は心の中で舌打ちした。
「夕食の後、観賞会をしよう」
少し意地悪な表情で真吾はそれだけ伝えると、自室ではなく璃々香の部屋へと向かった。維織はため息をひとつついて、一○四へ戻った。
* *
夕食は維織が思っていた以上に豪華な品々が並び、それらは青葉一人が作ったと知り、給仕している姿を尊敬の念を込めて見つめていた。
デザートまで食べ、夕食もやはり食べ過ぎてしまった。
「く、苦しい」
璃々香はおかしそうに維織を見ている。
「ちびは学習能力というものがないようだな」
言い返そうとしたが、お昼は一緒に食べすぎて苦しんでいた真吾は、涼しそうな表情でコーヒーを飲んでいた。
「維織が苦しんでいる間に俺さまが先ほどの写真の評価をしてやろう」
維織はお腹が苦しくて動けないのを見て、真吾は維織のノートパソコンを素早く奪い、起動させて写真を探し出して見ている。後ろから璃々香も興味深そうに画面に視線を送っていた。
「ぶれるほど風が強かったか?」
あまりにもぶれている写真が多いことに気がついた真吾は冷静に突っ込みを入れている。
「維織、写真を構える時は脇をしっかり締めてカメラを固定させないと手ぶれするわよ。あなたに渡しているカメラ、確か手ぶれ補正なんて気が効いた物はついていないはずだから」
海風は確かに強かったが、ぶれるほどではなかった。璃々香に言われ、ぶれた写真が多いのはそういうことか、と納得した。
「あれ?」
真吾は次々と写真を送って見ていたが、急に声をあげた。
「これって池を撮った写真だよな」
ようやく動けるようになった維織は、それでもまだまだ苦しいお腹をさすりながら二人がいるところまで足を運ぶ。
「なに? どうしたの」
一緒に見ている璃々香は真吾が前に戻ってなにかを確認しているのに疑問の声を上げた。
「維織、この写真なんだが」
それは、ようやくあの池のウキクサを直視できるようになった頃に般若池の端を撮ったもの。
「光の加減なのか、それとも水草なのかここに」
池の水面と地面の淵の部分を指し、真吾は画面を見つめる。
「……うん、見間違え、ということにしよう」
真吾は決め付け、写真を次へ送った。維織は真吾がなにを言おうとしていたのか気になったが、無言で写真を見ている二人に声が掛けられず、あやふやなままになってしまった。
写真をすべて見終わり、璃々香と真吾に撮る際のアドバイスをもらい、思っていたより酷評されなかったことに維織はほっとした。
「りりか、前から気になっていたんだが」
パソコンを閉じて真吾は璃々香に向き合う。
「ここって昔はどうやって水を確保していたんだ」
「水?」
「今は水道が引かれていて蛇口をひねれば出てくるが、植松がここで能面を打っている頃はどうしていた」
璃々香は少し考えて、
「ここのどこかに井戸があったような話を聞いたけど、それがどうしたの?」
井戸、と聞いて維織はとっさに長い黒髪の女が中から出てくるのを想像して、身の毛がよだった。裂けるほどに見開いた目で恨めしそうにこちらを見ながら井戸から這い出てくる女。
「井戸、か。真水が出ていた?」
「ええ。般若池も真水だし、この下に水源があるんじゃないかしら」
「ちょっとその井戸、見たいなぁ」
「今から?」
維織の中では貞子がいっぱいで二人の会話は耳に入っていない。
「暗いから行くのはやめて、明日にしない? 珍しい井戸みたいだから写真の題材としても面白いと思うのよね」
「明日? 俺は今すぐ見たい! 見たい行きたい! なあ、維織」
いきなり名前を呼ばれ、維織は勢いよく、
「はい!」
と両手をあげて返事をした。
「ほら、維織も行きたいって」
「そう? 仕方がないわねぇ」
璃々香は少し困ったように眉を下げたものの、案内してくれることにしたようだ。
「ちょっと待ってて。懐中電灯を借りてくるから」
「それなら俺が」
真吾は璃々香の代わりに懐中電灯を探しに行こうとしたが、止められた。
「しんちゃんはだめ。青葉が怖がるからここで待っていて」
真吾は面白くなさそうに唇を尖らせ、テーブルの上に残っているデザートに手を付け始めている。維織は食堂を出ていく璃々香をぼんやりと見送っていた。
維織は二人がどこに行こうとしているのか気になったが、真吾に聞いたらまた馬鹿にされそうだったので黙っておく。
璃々香はすぐに帰ってきた。手には懐中電灯が握られていた。
「おかしいわ。青葉がいないの」
「いない? トイレじゃないのか」
「そうかしら」
璃々香は釈然としてなさそうだが、真吾は懐中電灯を持っていることに気がついて早く行こうと促すので、そのまま出かけることになった。
食堂を出てすぐの能面館に近い扉から外に出る。
ガラス張りの食堂からの明かりがあるので思ったほど暗くはないが、外灯がないようなので建物から離れたら思っている以上に暗いだろう。田舎暮らしをしたことのない維織にしてみれば、夜の闇は恐ろしかった。
「しんちゃん、本当に今から行くの? この通り、真っ暗だよ」
璃々香は念を押すように真吾に聞く。
「そもそも、どこにそれはあるんだよ」
「能面館の向こう側、般若池の近くにあるの。歩くけど、それでも行くの?」
「き、肝試しだ!」
肝試し、と言われて怖いのが嫌いな維織は泣きそうになった。
「それじゃ、行きましょうか」
璃々香は懐中電灯をつけて歩き始めた。維織は怖くて璃々香の服の裾をつかんだ。
「どうしたの、維織?」
「え、いえ、そのっ」
「怖いの?」
維織は無言で二度ほどうなずいた。
「かわいいわね」
楽しそうに笑う璃々香に維織は自分の顔が赤くなったことが分かったが、暗闇なので見えないのは幸いだった。
維織は璃々香につかまったまま、懐中電灯一本だけで松林を歩く。昼間は感じなかったが、闇の中にいると自分たちが発する音が妙に空間に響いて不気味だ。足元の乾いた松葉が音を立てる度、維織はびくついた。
「ぎゃっ、ぎゃあああああっ」
いきなり、維織は後ろに強く引っ張られた。思わず悲鳴と言うにはかわいくない声をあげる。
「どうしたの?」
維織の叫び声に璃々香は止まり、維織に光を向ける。維織のパーカーのフードが不自然に宙に浮いている。
「松の枝に引っかかったのね」
璃々香は後ろから歩いてきている真吾に枝を取るようにお願いした。真吾はなんて手間のかかるヤツなんだ、という表情をしながら枝を取ってくれた。
「アリガトゴザイマス」
片言でお礼を言う維織に、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
と真吾は一言。
維織としても暗闇と雰囲気ですでに怖さのピークにいたところにフードが枝に取られて、叫んでしまった。
「ま、今の叫び声で幽霊はどこかに行ったな。魔よけだな」
維織は取ってもらったフードをかぶり、顔をしかめる。
「じゃ、行きましょうか」
暗い中、意外に平気らしい璃々香となにを考えているのか分からない真吾に挟まれ、維織はやっぱり怖くて、璃々香の裾を握っていた。
懐中電灯の明かりだけだとこの暗闇は心もとなく、維織は不安になる。自分がどこに連れて行かれるのか分からないのもある。
思っていたより歩き、ようやくたどり着いたらしい。松林の先は少し開けていて、しかし、暗くて先が見えない。
「ここは『まいまいず井戸』という珍しい作りの井戸らしいの」
「『まいまいず井戸』は話には聞いたことがあったが、ここにあったのか。何度か来たことがあったのに、初めて来たな」
真吾は璃々香から懐中電灯を借りてあたりを照らす。維織はその光の先を追いかける。闇夜を裂く懐中電灯の光の先に見えるのは、すり鉢状の地面。真吾は照射し、底だと思われるところに光を向けた。井戸と思われる少し盛り上がった場所に木のふたがされているようだ。
「おー、あれが井戸か」
歩いて降りていこうとする真吾にさすがの璃々香も止めに入った。
「足元悪いし、暗いから今日はやめておきましょう」
璃々香はそれだけ言うと、踵を返して来た道を明かりがないのに帰ろうとしていた。
「やだやだ!」
わがままを言い始めた真吾だが、突然動きを止め、目を見開いているのを維織は見た。
「天野先輩?」
真吾は口を開け、懐中電灯を持っていない反対の手ですり鉢状の底を指さす。維織はつられ、その先を見てしまった。
「ひぃいい」
光の当たった先は、井戸。先ほど見た時はぴたりとふたが閉まっていたはずなのに、端のふたが落ち、そこから。
「いやっ、やあああああ!」
白い手が見えたような気がした。
「どうしたの?」
少し遅れて璃々香は気がついたようで、戻ってきた。
「りっ、りりかっ! さ、貞子が!」
井戸と言えば貞子、という固定概念を植え付けさせたあの映画はすごい、と維織は妙に冷静な突っ込みを心で入れつつ、しかし、先ほど見た光景が目に焼きつき、戻ってきた璃々香に思わず抱きついていた。
「もう、維織ったら甘えっ子ね」
「宮下先輩っ! 井戸からっ、しっ、白い手がっ!」
「そんなこと、あるわけないじゃない。ここにはわたくしたち三人しかいないんだから」
璃々香は真吾が持っている懐中電灯を受け取り、井戸へ光を向ける。
「井戸しかないわよ?」
「そんなはずはっ」
真吾は震えながら、璃々香が光を向けている井戸に再度、視線をやる。
「さっき、あの井戸の縁に……あれ」
「ほら、井戸があるだけでしょ。二人してわたくしを脅そうとしたって無駄よ」
璃々香はしがみついている維織の肩を優しく叩き、戻りましょう、と告げてきた。維織はこんな不気味なところにいつまでもいたくなくて、二つ返事で戻ることにした。