松落葉(まつおちば)


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【一話】デジタル写真部、入部



 桜散る四月。
 第一志望であった松花(しょうか)大学へ入学が決まった望月維織(もちづき いおり)は、校門の前で三割ほど散った桜を睨みつけ、足を一歩、敷地内に踏み入れようとした。
 そこをいきなり左肩をつかまれ、後ろに引っ張られる。そのために学内へ足を踏み入れることは叶わなかった。
 維織の身体は左周りに百八十度回転させられた。
 視線の先には、遠目からでも目立つほどの鮮やかな赤のシャツ。なにが起こったのか、維織はとっさに分からなかった。

「デジタル写真部、お一人様入部ー」
「……はい?」

 頭のてっぺんから、聞いたことのない男の声が聞こえてきた。
 自分は確か、桜を見上げるために視線を上げていたはずなのに、どうして視界にはシャツしか見えないのだろう?
 維織はさらに頭を後ろへと傾け、声の主の顔を見上げる。

「ぷっ、ちっこいな、おまえ」

 ほぼ上を見上げる形になり、ようやく顔が視界に入った。茶色に染めた髪、角ばった顔。男は維織を見て、楽しそうに笑っている。

「……だっ、だれですかっ」
「ああ、これは紹介が遅れて申し訳ない。俺はデジタル写真部部長の天野真吾(あまの しんご)。キミは俺のお眼鏡にかなった新人ちゃんだ!」
「え? あ? なっ、なんですかっ?」

 さっぱり状況が読めていない維織は、迷惑顔の周りの学生の痛いほどの視線と目の前に立つ派手な男の処遇に困り、ダッシュで逃げようとして、着慣れないジャケットの襟首をつかまれた。脱走は失敗に終わったようだ。

「新入生、入学式が終わったらここに来い。来なければ……地獄の果てまでおまえを探し出してやるからな」

 地の底から這うような低音で耳元にそう囁かれ、維織は震えあがった。
 しわくちゃなメモを手にねじ込まれ、

「必ず来いよな」

 という捨て台詞のような言葉を吐くと、男は颯爽と春風とともに去っていった。維織は一人取り残され、呆然とそこにたたずむしかなかった。

     *   *

 入学式が終わり、適当に振り分けられた教室でシラバスを手渡され、大学での過ごし方、授業の取り方などといった説明がされ、維織はこれから始まる生活のことを考えているうちに朝の一件をすっかり忘れた。
 教室に残り、今日中にどの授業を取るのか考えようとシラバスとにらめっこをしていた。
 必須科目の数の多さに意外に大学って遊べないなぁ、とがっかりしていたところ、維織の視界からいきなりシラバスが消えた。無意識のうちに机から落としてしまったのかと驚き、右左ときょろきょろ見て、床を見て、落ちてないことにいぶかしく思い、そして足元にピカピカに磨かれた黒のエナメル靴が見え、下から上へとたどるように視線をあげる。見覚えのある赤い色に徐々に朝の記憶がよみがえってきた。

「あ」

 目の前には、維織のシラバスを片手にこちらを見下ろしている冷たいけどぎらぎらと光る瞳。そこでようやく、言われた言葉を思い出した。

「朝の命令、聞いていたよな?」

 凍てつくようなまなざしに、維織は首をすくめる。あわててジャケットやかばんの中を探すが、あのメモは見つからない。どこかに落としてしまったのかもしれない、と維織は一瞬にして青ざめた。

「今やっていることは、ここじゃなくてもできることだよな?」

 強い口調で言われ、維織は小さくうなずく。

「荷物を片付けろ」

 周りの学生たちは事情が分からず、遠巻きに維織とデジタル写真部の部長と名乗った真吾を見つめている。維織はのろのろと荷物を片付け、周りの視線を気にしつつも椅子から立ちあがった。

「相変わらずおまえはチビだな」

 真吾の鼻で笑うような声に維織は屈辱を覚えつつ、どう考えても自分よりはるかに背の高いこの男になにも言い返すことができず、後ろについていくしかなかった。

 この派手な男はどうやら有名なようで、どこに行っても声をかけられる。

「真吾、今度、証明写真用に撮ってくれない?」
「今日はちょっと無理だけど、明日以降ならいつでも部室に来てくれ」
「ありがとー」

 真吾はたくさんの人に声をかけられ、それでも維織をつかんだ腕を緩めることなく大股で歩みをすすめる。維織は小走りどころかかなり本気で走らないと追いつかないほどだ。
 入学式はこの大学の一番奥に位置する体育館で行われ、説明会は体育館から一番近い八号館の一階で行われていた。そこからカフェテラスを通り、六号館を経由して五号館の最上階である五階のしかも一番端の部屋まで維織は連れてこられた。
 真吾の足はそこでようやく止まり、維織は肩で息をしながら怨みの視線を向けたが、気が付いていないようだった。

「りりかぁ、連れて来たぜ」

 真吾は建てつけの悪い引き戸を開け、維織を先に部屋へと入れた。後から入って戸を持ちあげ気味にしながら閉めているのを見て、維織は激しい不安に陥る。
 部屋の中は、明かりがついてなくて薄暗かった。遮光カーテンが引かれ、そこそこ広いと思われる部屋は物に埋め尽くされていた。
 なにも知らず、強引に押されるままにここに連れてこられてしまったが、相手は男だ。身長のせいか、年齢よりいつも下に見られる容姿も手伝い、年齢イコール彼氏いない歴更新中の維織。色気などもってのほかだ。しかしまさか、大学に入ってすぐにナンパされ、教室まで押しかけてさらにこんなひと気のないところに連れてこられて、さすがににぶい維織でも、とってもやばい状況なのに気が付いた。

「いっ、嫌ですっ!」

 維織はようやく、拒否の言葉を口にした。これからされることを想像して、維織は部屋を出ようとした。しかし、頭では早く出るようにと身体に命令を下すのだが、初めてのこういう状況に恐怖で身体が動かない。がくがくと膝が震え、止まらなくなる。

「そういえばちっちゃいの、名前を聞いて……」

 真吾が維織の肩に触れた瞬間。

「いやああああっ!」

 維織の悲鳴は、五号館に響き渡った。

     *   *


「あの……す、すみません」

 デジタル写真部部室内。
 先ほどとは違い、明かりがつけられ、荷物の隙間に置かれたパイプ椅子に維織は座り、深々と頭を下げていた。

「いや……説明をきちんとしてなかった俺も悪いわけだし」

 維織の悲鳴を聞きつけた他の部の人たちがこの部屋に押し掛け、てんやわんやの大騒動となった。
 奥のソファで丸まって寝ていた宮下璃々香(みやした りりか)はこの騒ぎでようやく目を覚まし、彼女の一声で騒ぎはおさまった。

「まあ、しんちゃんの普段の行いがこれで証明された、ということよね」

 璃々香はウェッジウッドのアストバリーブラックのティーカップ&ソーサーで芳醇な香りの英国王室御用達のリッジウェイの紅茶を優雅に飲んでいる。
 維織はその横で、紙コップに入れられた璃々香と同じ紅茶を両手で包みこみ、ため息をついた。
 思いっきり維織の勘違い、だったのだ。
 派手な服装に妙にぎらぎらした瞳、倉庫のような暗い部屋。思わず変な方向に想像……というよりは妄想したって仕方がない。

「しんちゃん、何度も言ってるけど、ほんと、自覚した方がいいと思うわよ。今日のそのシャツだって品がないというかなんというか……」
「うるさいな。気に入っているし、似合っているだろう?」

 真吾は赤いシャツの襟元を引っ張り、胸を張る。視線を璃々香と維織に向けるが……璃々香は冷たい視線を、維織は目をそらすことで返事とした。

「おまえら……その返事は」
「それより、しんちゃん。新人を山のように連れてくるって言って……なんでこのちっこいのが一人なの? しかも、こんな女」

 マスカラがたっぷり乗ったまつ毛をぱちぱちとさせ、璃々香は維織を一瞥し、アストバリーブラックに視線を落とす。
 きれいに磨かれた爪には春らしくかわいい桜のネイルシールが貼られているのを維織はぼんやりと見つめた。長い黒髪は艶々としており、毛先は軽くウェーブがかかっている。春色のパステルカラーの服も維織は分からないがブランド物と思われるものを身にまとい、この人ってお嬢さまなんだなぁ、と維織はここに来て何度目か分からないため息をついた。
 自分とは違い、ばっちりと化粧もして、いかにも大学生、という璃々香に維織はコンプレックスを抱く。その彼女に正面からはっきりと「こんな女」と言われ、さすがの維織も傷ついていた。

「俺は朝からあそこに立って必死に勧誘をしたんだ!」

 璃々香は真吾の話を聞き流し、維織に視線を向けた。

「別にわたくし、こんな部なんてなくなってもいいと思っているんですけど」
「りりかぁ~! それだけは」

 璃々香は紅茶を飲み干し、立ちあがった。真吾は眉尻を思い切り下げ、璃々香に懇願するように両手を組んで見上げている。

「部だろうが同好会だろうが、あなたが卒業したらこの部をなくすのはわたくしがもう決めましたから」

 硬質な音を立てながら璃々香はカップを持ち、シンクと思われる場所に行き、無造作に置いていた。それを見て、維織はあわてる。紙カップに入ったすっかり冷え切った紅茶を飲みほして握りつぶし、ごみ箱はどこかとあたりを見回していると……。

「ごみはここにどうぞ」

 ときれいな指先がさした場所を見て、維織は頭痛を覚えた。
 維織はてっきり、ここは倉庫かなにかかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。この二人には片づける能力がほぼゼロに等しく、荷物とごみが無造作に積み上げられ、現在のこの部屋が完成されてしまったようだ。維織はそう結論づけた。真実はこれに大変近いのだろう。
 維織は立ちあがり、無言のままシンクに向かい、中を覗き込んで言葉を失った。
 それほど広くないシンクの中に、無造作に置かれたカップの山。しかもそれらはどう見ても、今の維織には一客も買えないほどのとても高いブランド物。先ほど使用していたウェッジウッドのアストバリーブラックのセットもめまいがするほど高い物、というのは分かった。それを無造作に扱う璃々香に対してくらくらしたが、だからといって、このまま放置しておくのも見逃すことができなかった。お節介な行為かもしれないと思いつつも維織は片づけることにした。

「ほら、俺の見込んだ通りだ!」

 維織の働きを見て、真吾は楽しそうな声をあげた。

「あらぁ、わたくしは別にお手伝いさんがほしかったわけではありませんわぁ」

 璃々香は部屋の隅に置かれた革張りの座り心地のよさそうなソファに戻り、その背に身体を預ける。
 維織は慎重に、しかし素早く食器を洗った。
 真吾は荷物の山をかき分け、部屋の奥へと向かったようだった。

「あなた、名前は?」

 璃々香はきれいに磨かれた爪先に髪の毛を巻きつけながら維織にそう聞いた。

「望月維織です」
「ふーん」

 璃々香は二・三度ほど髪の毛を指先に巻き、するりと指を抜いてからソファから立ち上がった。

「いいわ、新入生。あなたの入部を許可するわ。ということで、まずは最初の仕事。この部屋を片付けて」
「……はあ?」

 璃々香のその言葉に、維織は声をあげた。
 奥にいたはずの真吾はいつの間にか顔を出し、

「やっぱりな。見る目があるだろう?」

 と妙に自信満々に言っている。

「下手な男だとりりかのおやっさんにどやされるし、だからと言って可愛い女を連れてきたらいじめるだろう?」

 真吾の言葉に璃々香はふん、と鼻で笑う。

「失礼ね。わたくしより可愛い女なんて、いないわよ。しんちゃんは女と見ると無節操に迫るから」
「…………」

 真吾はバツが悪そうに璃々香から視線をそらし、奥へと戻っていった。

「あなたみたいな色気ゼロ、可愛くもない女なら、さすがの真吾も手は出さないでしょ」

 だから特別に入部を認めてあげる、と見下すような言葉に維織はカチンときながらも成り行き上、このデジタル写真部へ入部することになってしまった。



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