『怨人─オニ─』


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七章・前



 朝六時。いつもなら目覚ましが鳴ってもなかなか起きることができないのに、なぜか今日は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めてしまった。数秒後、けたたましい音に胡桃は顔をしかめる。目覚まし時計を止め、ベッドの上に半身を起こし、大きく伸びをする。ぼさぼさになった髪に指を絡めながら、布団から抜け出た。いつものように制服に着替えようとして、停学中だったと思い出して朝から嫌な気分になる。
 胡桃はぼんやりと思い出す。とても切ない夢を見ていたような気がする。ここのところほぼ毎日、悲しくてさみしい、なんとも言えない夢を見ているような気がする。起きた時、内容は覚えていないが、夢の中で感じた思いだけはしっかりと覚えている。
 胡桃は普段着に着替え、洗面所で顔を洗ってからキッチンへと向かう。父はすでにダイニングテーブルに座って新聞を読んでいる。母はキッチンに立って朝ごはんの仕上げをしていた。
「おはよう」
 胡桃は二人に挨拶をして、母の手伝いをする。お盆に乗ったご飯とみそ汁を受け取り、テーブルの上に並べていく。朝ごはんの準備が整ったところで三人そろってテーブルにつき、父の
「いただきます」
 の唱和に続いて胡桃と母もいただきますと続く。朝食と夕食は極力、三人がそろって食べようというのが桃里家の暗黙の了解ごととなっていた。
「胡桃の今日の予定は?」
 母に聞かれ、胡桃は壮一を見る。
「停学で自宅謹慎という身だからさすがにおおっぴろげて神社でアルバイトをさせるわけにもいかないからなぁ」
 困ったなとつぶやく。
「神社のことを手伝ってもらうにしても。ああ、そうだ」
 なにかを思い出したらしい壮一は、自分の考えに二度ほどうなずいて、
「この間、渡した鈴があるだろう?」
「うん」
「あれは『怨人』に効いた?」
 胡桃は少し考えて、うなずく。
「じゃあ、あれを量産しようか。社務所の裏であの鈴の組み立てをやってほしいんだ」
「それなら、お昼は喫茶店で食べるわね」
 最初に食べ終わった明枝は、湯呑のお茶を飲んで、一息ついている。壮一、胡桃の順で食べ終わり、胡桃は立ちあがって空っぽになった食器を流しに運んだ。母のエプロンをつけて食器を洗う。その間に母は準備をして喫茶店へと向かった。壮一も食べ終わったと同時に神社へと行った。
「社務所で待ってるから」
 壮一に言われ、胡桃は分かったと返事をする。食器を洗い終えると、神社へと向かう。エントランスで淳平とばったり出会った。
「あれ、どうしてこの時間にいるの?」
 淳平をよく見れば、私服を着ている。普段ならば、この時間はすでに学校に行っているはず。今日は休日だったかなと胡桃は悩むが、今日は明らかに平日だ。
「さっき担任から、今日は休校だって連絡があったんだ。オレ、サッカーの練習で朝早くから学校に行っているから、一番に連絡が来たんだよ」
「休校?」
 思いも寄らぬ単語に、胡桃は眉間にしわを寄せて淳平を見た。
「担任は理由は言わなかったけど、また出たんだろう、あれが」
「あれって……昨日見た、あれだよね」
 胡桃と淳平は並んで神社へと向かっていた。
 あの緑色の怨人を思い出し、胡桃は暗い気持ちになる。まただれかが怪我をしたのかと思うと、いたたまれない。
「淳平も気を付けなよ。あ、そうだ」
 胡桃は羽織っていたパーカーのポケットから携帯電話を取り出し、ストラップ代わりにしていた鈴を渡す。
「これ。持っておきなよ」
 胡桃が淳平に渡したのは、真っ赤な水引で作られた球体状のもの。
「こんなかわいいもの、持てるかよ」
「鈴の音、怨人が苦手みたいだから」
「いらない」
 神社の鳥居の前で、胡桃と淳平は押し問答をしていた。そこへ胡桃が来るのを待っていた壮一が現れた。ふたりがなにやら言い争っているのを見て、壮一は目を細めて見る。
「お父さん」
 胡桃が壮一に気をとられてそちらを向いた時、淳平が胡桃に返そうとしていた鈴が手を離れ、鈴は宙を舞い、地面へと落ちた。鈴は涼やかな音をさせて転がった。
「これは?」
「怨人が現れた時のためのお守りと思って淳平に渡そうとしたら嫌がられたの」
 壮一はしゃがみ、地面に落ちた鈴を拾う。
「淳平くん、キミ用に作るから、とりあえず今日は胡桃のこの鈴を持っておいてくれないか」
 砂を払い、淳平に赤い鈴を渡す。
「今からランニングにでも出かけるんだろう?」
 淳平の服を見て、壮一は聞く。
「はい」
「胡桃と一度、怨人に遭ってるんだろう? また出遭う可能性が高い。話を聞く限りでは、あれが近くにいたら耳が痛くなって動けなくなるんだろう? そうなったら、逃げることもできない。だからこれをお守り代わりに持っていくように」
 壮一は無理矢理、押し付けるように淳平の手に握らせる。
「おじさん」
 淳平の少し不満そうな表情に、壮一は柔らかく笑う。
「今日一日だけだから。ね」
 押し切られ、淳平はしぶしぶ赤い鈴を受け取った。
「じゃあ、気をつけて行っておいで」
 笑顔で手を振る壮一を見て、胡桃はさすがだなと思ってしまった。
 ちょっと前の胡桃も、例外なく反抗期だった。今も少しはその名残があるものの、親のすることなすことすべてが許せないという時期は過ぎ去っていた。反抗してもこうやって壮一は柳の木のごとくするりとかわすので、反抗するのも馬鹿らしくなったというのもあった。
「あの淳平をいさめちゃうなんて、すごいね」
 淳平が走り去っていく姿を見守りながら、胡桃は口を開く。
「小さい頃から知っているからね」
 壮一にとって淳平は息子のようなものでもあった。
「淳平くんなら、問題ないし」
「なにが?」
「いえ、独り言」
 壮一は笑ってごまかした。胡桃は突っ込んで聞きたかったが、壮一に社務所に入るように促され、中に入った。
「作り方を説明するね」
 壮一は指先を器用に動かして水引を編んでいく。なにをやっているのかさっぱり分からず、胡桃はくらくらしていた。壮一にストップをかけるが、
「作ってみせるから、とりあえずは見てて」
 胡桃は黙って壮一のやっていることを見ている。父はこんなに器用だったんだ、と胡桃はそこで初めて知った。壮一のことを知っているようで、実はあまり知らないのではないか、とそんな疑問が湧いてきた。
「ここでひもに通した鈴を入れて、ほら、できた」
 あっという間に、胡桃が先日もらった丸い鈴が出来上がった。壮一の手には緑色のものが握られている。
「これは淳平くん用」
 淳平は緑を好んでいたな、と思い出す。
「高校の先輩にも作ろうか」
「犬伏先輩、黒か茶色が好きそう」
 私物の色を思い出し、胡桃は壮一に伝える。水引を入れている箱の中から黒を探し出して作っていく。
「お父さん、あたしにこれ、作れる?」
「慣れたら簡単に作れるよ」
 瞬く間に二個目もできてしまっていた。
「はい、これ」
 壮一に渡されたが、これを先輩に渡すのはちょっと恥ずかしい、と胡桃は思ってしまった。彼は学校の人気者なのだ。渡しているところを見つかったら、いじめられたりするのかなと思うと気持ちが沈んだ。
「じゃあ、作り方を教えるね」
 壮一は胡桃が理解するまで、根気よく教えてくれた。

     *

 神社の前で胡桃と別れた淳平は、渡された赤い鈴を見ながら歩いていた。こんな小さな鈴があの奇妙な生き物を追い返せるとは思えなかったが、もう二度とあの頭が割れてしまいそうなほどの耳が痛い目には遭いたくなかった。
 ポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出して、他のストラップに挟むようにしてつける。再度、携帯電話をポケットに入れ、神社の角で軽くウォームアップをしてからランニングを始めた。
 走る度に鈴のいい音がする。最初はちょっとうるさいかなと思っていたが、聞いているうちに自分の走る速度に合わせて鳴るその鈴の音が、心地よくなってきた。
 神社の横を走り、左に曲がる。本当は神社を右に曲がって大周りをして家に戻ろうと思っていたのだが、気が変わり、左を曲がって沿う形で走ることにした。自分の住むマンションを左手に見ながら、線路のある方面へと走る。この先にコンビニがあるので少し中を偵察してから線路沿いを通り、途中の道を左に曲がって家に帰るルートを淳平は頭に描いていた。
 淳平は予定通り、コンビニに入る。店内を物色したがめぼしいものが見つからず、手ぶらのまま外に出る。その場で軽く足踏みをして、淳平はランニングの続きを始めた。
 まっすぐの歩道を軽く走り、線路沿いへと出る。左に曲がろうとしたところ、線路の向こう側に見覚えのある人がいた。
「あれは犬伏先輩?」
 道着を着て竹刀に防具を持っているのを見ると、これから道場へ向かうところなのだろうということは分かった。しかしすでに道場は通り過ぎている。それなのになぜか必死の形相で走っていた。どうしたのだろうと疑問に思ったその時、ひどい耳鳴りが淳平を襲った。あわてて自分の両耳を手のひらでふさぐ。しかし、耳鳴りはおさまるどころかひどくなってきて、昨日の朝と同じ痛みを伴う。淳平は耐えられなくて、その場にしゃがみこむ。
 その途端、携帯電話につけた鈴が涼やかに淳平の耳を打つ。その音に耳鳴りが遠のいた。痛みが引いて、ほっとするのもつかの間。朔也が走って行った方向を見ると、あの気持ちの悪い怨人とかいう小さな生き物が飛び跳ねて朔也の後ろを追いかけていた。
 淳平は目の前にあった橋を渡って、朔也を追いかける。朔也は線路沿いをかなりのスピードで走っているようだ。以前、なにかの時に淳平は朔也と競争をしたことを思い出す。足に自信のある淳平だが、朔也は思っているより早くて、負けまいと必死になって走ったのを思い出した。
「先輩、待って!」
 朔也の後ろには、怨人が嫌な声をあげて追いかけている。止まりたくても止まれないのだろう。朔也まで追いつかなくても、あの怨人にこの鈴の音を聞かせれば。
 淳平は必死に追いかけ、ポケットから携帯電話を取り出し、鈴を振りまわす。うるさいほどの鈴の音に怨人は一声上げ、立ち止まる。
「おっ、おまえはなんだよ!」
 淳平は震える声で怨人に叫ぶ。怨人は黒板を爪でひっかくような耳障りな声をあげ、思いっきり跳躍したかと思うと、フェンスを飛び越え、落ちていった。淳平は怨人を追いかけてフェンスの向こうを覗くと、怨人は線路の上に降り立っていた。そこへ駅から出たばかりの電車が走ってきて、怨人にぶつかったように見えたが、電車は何事もなかったかのように走り去り、先ほど怨人がいた場所にはなにも跡が残っていなかった。
 いつもならきれいに整えられている短く清潔に切られた黒髪を乱したまま、朔也は淳平のところへ肩で息をしながらやってきた。
「犬伏先輩、大丈夫ですか?」
「とりあえず。助かった、ありがとう」
 淳平は思い出す。胡桃がぽろっと犬伏先輩と、と言っていたが、もしかして。
「今の変なの、見えました?」
「ああ」
 朔也は淳平の横に立ち、怨人が消えた線路へと視線を落とす。
「消えたのか?」
「電車に轢かれたように見えたんだけど」
 それらしきものはなにもない。
「あれはすばしっこいから逃げたのかもしれないな」
 朔也は防具を地面に置き、乱れた髪を整えた。
「道場に向かっていたら、追いかけてきて、吐き気がするのに大変だったよ」
 息を吐き、朔也は地面に置いた防具と竹刀を肩に担ぐ。
「ありがとな、猿木」
 まさか朔也が自分の名前を知っているとは思わず、淳平は目を見開く。
「忘れるわけないだろう。俺と対等に走れるのはおまえくらいだったからな」
 朔也はじゃあな、と手を振って先ほど来た道を戻っている。道場はとっくに過ぎ去っているので戻っているのだろう。淳平は朔也の後ろについて走り、
「それでは失礼します、犬伏先輩」
 と叫んで追い抜いた。
 朔也は淳平の背中を見つめ、振りかえって道場へと入って行った。





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