《七》月をナイフに05
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真珠が気がついた時、なにもない透明な空間に浮かんでいた。上も下も分からない、不思議な場所。
「ふ……へっ?」
真珠は慌てて宙をかくようにして両手を動かしたが、落ちることも浮かび上がることもなく、その場に身体があるだけだ。
どうしてここにいるのだろうか。
真珠は悩み……そして目の奥を貫く紫色の光を思い出した。
「あ……」
真珠が最後に目にしたのは、アメシストが放ったと思われる、紫色の光。
あれはなんだったのだろう。
真珠は眉間にしわを寄せて悩もうとしたところ、聞いたことのない声が聞こえた。
『あなたが真珠(パール)の力を持つ人なのですね』
優しげな女性の声。しかし、どこから聞こえるのか分からず、真珠は辺りを見回した。
『ディーナ、姿も見せずに話しかけるから、彼女は戸惑っているではないか』
今度は、力強い男性の声。こちらも、姿は見えない。
『ええ、そうね』
くすくすとおかしそうな笑い声が聞こえたと思ったら、突如、真珠の目の前にまばゆい光を放っている男女が現れた。あまりのまぶしさに、真珠は顔を覆った。
『ああ、これは失礼』
すぐに男性が気がつき、光が治まった。真珠は指の隙間から確認して、手を顔から外した。
「…………」
真珠は男女二人を見て、数回、瞬きをした。
輪郭ははっきりと見えるのに、なぜか二人とも透明だ。
「透明……?」
透けている人間などいるだろうか。
そう考え、真珠は一つだけ思い当たることがあった。
「ぎゃっ! おっ、お化けっ!」
真珠も人並みにお化けは怖い。しかし、いるはずもないと思っていたものの、目の前に現れてしまった。思わずかわいくない悲鳴を上げ、透明な男女二人から必死になって遠ざかろうともがく。だが、どうしてか分からないが、真珠はその場に縫い付けられたかのように動けない。
『お化けというのがなにか分かりませんが……。ごめんなさいね、わたしたちにはもう、あなたたちのような肉体がないの』
ということは、やっぱり正真正銘のお化けで……。
「ぎゃあああ、ごっ、ごめんなさいっ! よくわかんないけど、ごめんなさい! じょっ、成仏してくださいっ! あたしを食べたって美味しくないからっ!」
真珠は手を合わせ、必死になって拝んでいる。今にでも念仏を唱えそうな勢いだ。
目の前の男女が本物のお化けであったとしても、真珠のことは食べないと思うのだが、なぜかそう言って命乞いをしている。
『わたしたちはあなたを食べたりしないわ』
ディーナと呼ばれた女性は不服そうな声を上げた。
『時間があまりない。とにかく今は話を進める』
冷静な男性の声に、しかし、真珠はまだ、手を合わせて拝んでいる。
『……聞いているかどうか知らないが、話を始める』
そう言って、男性は強引に話を始めた。
『われわれは、この世界が創造されたときに最初に生み出された者だ。彼女はディーナ、私はダイアン』
ひたすら拝み続けていた真珠だが、ディーナとダイアンの名前を聞き、手を合わせたまま顔を上げ、透明な二人を見た。
「……ダイアンとディーナ?」
『そうだ』
真珠はまじまじと目の前の男女を見る。
輪郭しか持たない透明な二人をよく見ると、今まで見てきた人たちとは違う、圧倒的な美しさを持っていた。
ダイアンと名乗った男性は背が高く、髪は短髪で短く刈り上げられている。太くてしっかりとした眉の下には、意志の強そうな光を宿した瞳。がっちりとした鼻に、少し厚めの唇。顔の輪郭は鋭く、鋭利な印象を持たせる。
身体つきもがっちりしていて、腕も鍛えられた筋肉が付いているのがよく分かる。
一方のディーナと言った女性は、腰まである髪の毛は緩やかに波を打っていた。
綺麗に整えられた眉は美しく弧を描き、大きな瞳に二重のまぶた。小さな鼻と唇。顔の輪郭は女性らしく丸みを帯びている。
身体つきはたおやかで、胸は真珠から見たら羨ましいほどあり、腰もくびれていた。
「え……や、ちょ、ちょっと待って」
ダイアンとディーナと言えば、シトリンとアメシストが毎日、祈りを捧げていた相手。
ということは……。
「えええっ? か、神さまってことっ?」
まさか神話の中の人たちと会えるとは思っていなかった真珠は、どうすればいいのか分からず、慌てふためいた。
『神というのは、この世界の始まりに生まれた光と闇を創った存在のことで、わたしたちは違うわ』
「や……でも、だって……そのぉ」
真珠はダイアンとディーナはこの世界の神だと思っていたので、違うと否定されて、戸惑った。
それでは、シトリンとアメシストが祈りを捧げていたダイアンとディーナとは、どういう存在なのだろう。
『わたしたちは、光と闇に最初に生み出された存在で、この世界の行く末を見届ける役目を与えられた者』
『だからこうして肉体を失っても、この世界を漂い続けている』
どれだけこの世界を見守っているのか分からないが、それはとても大変そうだという感想を真珠は抱いた。
もしも真珠がその役割を担うことになったら?
とてもではないが、それは無理だ。
『この世界は……』
ディーナの沈み込んだ声に、真珠は顔を上げた。
『終焉を迎えてしまいました』
「……へっ?」
衝撃の事実に、真珠は時が止まったように感じた。
世界が終わった? それはどういうことなのだろう。
このなにもない空間はもしかして、かつてフィラー国と言われていたところなのだろうか。
いや、国が終わったとは言ってない。
世界が終わったということは……。
「どっ、どーしてっ?」
あの紫の光一つで、世界がなくなったというのだろうか。
「アメシストさまのあの紫色の光で?」
まばゆい光だった。
だけどあれはまぶしいだけで、別に痛くもなんともなかった。
『微妙な均衡が崩れてしまったのです』
『世界はぎりぎりのところで保たれていた。少しでも力が加われば、はじけ飛んでしまうほどとても繊細な状況だったのだ』
それをあの紫色の光のせいで一気に破壊されてしまったということなのだろうか。
「それじゃあ……」
あの世界で会った人たちみんな、いなくなってしまった、ということなのだろうか。
「そんな……嘘、でしょ」
がくりと肩を落とし、真珠は視線を下げた。
大変な旅だったし、真珠をこの世界に喚んだアメシストを少しだけ憎いと思ったことはあった。
だけど、だ。
いなくなって欲しいとは思わなかった。
もう会えないと知り、真珠の瞳からぽろりと涙がこぼれ、それがまばゆく光る真珠へとなった。ころりと真珠の手のひらに転がり落ちた。
それを見て、ダイアンとディーナは顔を見合わせ、笑みを浮かべた。
『諦めるのはまだ早いわ』
ディーナの明るい声に、真珠は少しだけ視線を上げた。
『そのためにあなたはこの世界に喚ばれたのでしょう?』