『月をナイフに』


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《六》幻影世界へ09



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──ねえ、存在をずっと無視される気持ち、どう?
──死にたくなってきたでしょう?
──ふふふ、死んだら楽になるよ?
──両親にも顧みられず、友だちにも無視されて。
──あなた、どうして生きているの?

 最近の真珠には、そんな囁きが聞こえて来ている。

──時間割が変更になったのに、だぁれもあなたに教えてくれてないじゃない?
──ほら、いい機会よ。
──屋上から身を投げ出せば、あなたは楽になれるわよ?
──ね、辛いでしょ。
──早く解放されましょうよ。

 真珠は囁きを振り払うように首を強く振った。
 しかし、声は途切れることなく、真珠に囁き続ける。

──ほら、屋上に……。


「……うるさいっ!」


 真珠は再度、首を振って声を否定した。

──だってあなた、両親にも顧みてもらえてないじゃない。クラスメイトも。
──あなたは今、いない存在。
──きっとずっと、このままよ。
──自分の存在を認めてもらいたいって思わない?
──あなたがここで自らの命を絶ってしまえば……みんなの心に残ることが出来るわ。

 その言葉に真珠は振っていた首を止めた。
 この三年間、いや、中学から両親が自分のことを顧みなくなってから考えたこと。
 自分は要らない子。
 いなくなってしまった方が、両親の負担は減るのではないだろうか。

──このままだれかに迷惑を掛けたまま、ずっと生き続けるの?
──ねえ?
──ほら、屋上へ行きましょう。

 真珠はぼんやりとした表情のまま、声に導かれるままに教室を出た。
 今は授業中ということもあり、廊下はしんとしている。教室の横を通ると教師の声が聞こえるが、それ以外はなにも聞こえてこない。
 真珠はふらふらと歩き、階段を昇って屋上を目指した。
 普段は危険だからと鍵が掛かっているはずなのに、どうしてか今は開いていたが、そのことに真珠は気がつかない。

──ほら、あそこの柵が破れてちょうど飛び降りるのにいいわ。
──ささ、行きましょう。

 高校に入学してから、両親からはまったく連絡はない。
 成績表はコピーして手紙とともに送ったが、それについてなにも返事がなかった。
 届いていないのかもしれない。
 最初はそう思った。
 それでも諦めず、月に一度の頻度で両親に学校生活について報告した。
 一学期末のテストの後にも、二学期の中間も、なんの反応がなかった。学期末の三者面談も来てくれなかった。
 さすがにこれだけ何度も送って届いていないというのはあり得ないから、両親は結果を見て、失望してしまったのかもしれない。
 両親からなんらかの反応が欲しかったけど、無言というのが答えだとしたら……無関心過ぎではないだろうか。
 真珠がいなくなっても両親は困らない。
 クラスメイトも真珠がいなくても楽しそうにやっている。
 だったら……。

 声に言われるがまま、真珠は柵の破れ目に近寄った。

──痛いのは一瞬よ。
──これであなた、ようやく楽になれるわ。

 一歩……二歩……と柵へと近づく。
 目の前に広がるのは、真珠の心とは反対の穏やかな夕焼け空。琥珀色に染まった雲が気持ち良さそうに浮かんでいる。
 あの雲に飛び乗れたら、気持ちがいいかな。
 いささか見当違いのことを思いながら、真珠は破れた柵を通り抜け、校舎の端に足をかけた。

──ほら、もう一歩前へ。

 言われるがまま、真珠は片足を上げた。
 だが、真珠はなにか心に引っかかりを覚え、片足を上げたまま止まり、もう一度、雲を見た。
 透明な黄色……琥珀色の、雲。


「……琥珀?」


 真珠の奥でずきりと痛みが生じた。
──ワスレテハ イケナイ。
 という真珠の心の声が聞こえてくる。
 忘れてはいけないって……なにを?

「琥珀?」

 真珠はもう一度、その言葉を口にした。
 途端。
 きりきりと胸の奥が痛み、ふ……と風が通り抜けた。

「あ……!」


『おいっ、カッシー!』
『カッシー、しっかりしてください!』

 囁き声とは別に、だれかの声がする。
 しかも、だれかが側にいるわけではないのに、どうしてか頭や肩を叩かれているような感覚がある。

『よし、蹴りを入れるか』
『ルベウス! やめてください!』
『おまえが蹴るな! 蹴るならオレが蹴る!』
『モリオンさまもおやめください!』

 聞き覚えはあるけど、だれの声だろう?

──ほら、早く。
──あの雲に乗りたいんだろう?

 囁き声に真珠ははっと顔を上げた。
 そうだ。
 ここから飛び降りて、あの雲に……。

『そういえば前、叩くよりくすぐった方が反応が良かったですね』
『いや! オレはアメシストの恨みを……!』
『モリオンさまっ! ですからカッシーは』

 わいわい、ぎゃいぎゃいという声が段々大きくなってくる。

──ほら、はやくっ!

 囁き声が急に焦ってきた。

──ほら、早くしないと! 雲が、雲が。

 ぐらり、と真珠の視界が歪んだ。

──あああ、はや……。

 囁き声がぷつりと途切れ、世界が真っ暗になってしまった。

 真珠は驚き、瞬いた。
 しかし、視界は黒いままだ。
 どうしてしまったのだろうか。


「カッシー! 起きてください!」


 さっきまで水の中で音を聞いていたかのようにくぐもっていた声が、今度ははっきりと聞こえた。


「カッシー! 早く起きないと、大変なことにっ!」

 この声は……。
 真珠の意識が覚醒してきた。
 いや、さっきから起きていたからそれは少し違うような気がする。

「カッシー、アメシストの恨み!」
「やだやだ、妹馬鹿」
「なにおぅ! 妹馬鹿はおまえもだろう!」
「当たり前だろう! ルビーは病気なんだぞ! 大切にしなくてどうする!」

 目を開けたはずなのに、暗かった。

「……ここは?」
「ああ、気がつきましたか!」

 ほっとしたような声に、真珠は安堵を覚えた。
 マリの声だ。

「無事で良かったです」

 暗くて見えないけど、マリの声が少し潤んでいるように聞こえたから、泣いているのかもしれない。
──女を泣かせてはならない。
 しかつめらしい表情をしてそんな言葉を口にした琥珀を思い出した。
 そういう割りには琥珀はよく、真珠のことを泣かせていたような気がするのだけど、琥珀にとって真珠は女ではないから泣かせても問題ないそうだ。
 それは酷いと思ったけど、でも、琥珀に特別扱いを受けているような気がして、実はそれはそれで嬉しかったりするのだけど、珊瑚曰く、そういうところがヘンタイで女扱いされない原因なんだとか。
 どうやら自分が原因でマリを泣かせてしまったらしい。琥珀の言いつけを守っていない。またこれだと叱られるな。

「あ……琥珀っ」

 真珠は琥珀がいない世界にいたことを思い出した。
 もしも真珠が琥珀と会っていなかったら、先ほどのような状況になっていたのだろうか。
 真珠は寒気を覚え、ぶるりと身体を震わせた。

 真珠の呟きに、マリは思い出したようだ。

「そうです! 先ほど見たのは、あれはなんだったのですかっ!」

 マリの声に言い争っていたモリオンとルベウスは口を閉じた。

「あれは……ぼくが住んでいる、世界」
「あれが……か?」

 そして、真珠をしきりに死へと誘っていた囁き声。
 確証はないけど。

「たぶんだけど、ラーツィ・マギエの罠、だと思う」

 真珠の言葉に、モリオンは険しい表情を浮かべた。






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