『月をナイフに』


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《四》荒れる世界07



 ゆらゆらと真珠の視界は揺れている。
 頭の芯が、感じたことのない寒さを知覚している。そこ以外は妙に熱くて、その冷たい部分に触れて冷やしたい。
 ぼんやりとした頭で痛いと感じるほどの冷たさを放っているそこに近づく。近づくごとに冷気を肌に感じて、真珠は知らずにぶるりと震え、身体を抱きしめた。
 布に触れた指先の感覚で真珠は少しだけ我を取り戻したが、しかし、すぐに冷気に取り込まれ、沈みこんでいく。
 外はなにかを拒絶するかのように冷たいけど、きっと中は暖かい。あれにくるまれて、ゆっくりと眠ろう。
 真珠は一歩ずつ歩みをすすめる。
 冷気に触れる度、熱は少しずつ冷めていく。この世界にやってきてずっと張り詰めていた気がゆっくりと解かれ、弛緩したまま固まっていく。それはなんだか、不思議な感覚だった。緩んでいるはずなのに、固まっている。この中にいる限りは、周りの強固な壁に守られて、真珠はこの空間の中にたゆたっていられる。周りは冷たいから、だれも近づいてこない。ここはいい隠れ家だ。
 真珠はさらに自分の身体を抱きしめて、胎児のようにぎゅっと丸くなった。
──ああ、なんて落ち着くんだろう。
 周りは冷たいけど、中は暖かい。こうしていれば、なにも怖い物も、悲しい物も、辛い物も真珠を冒すことはない。
 そうして眠りにつけると思ったとき。
 だれかが真珠の身体を揺さぶり、大きな声で名前を呼んでいる。
──お願いだから、そっとしておいて。
──あたしはもう、疲れた……。

「カッシー、起きろっ!」

──静かに、して。
──それにあたしはカッシーじゃない。真珠だ。
 真珠は頭を抱え、手首を耳に当ててふさぐ。血の流れる音が聞こえてきて、落ち着く。
──ここには、あたしだけだ。

「カッシーっ! 起きろッ!」

 ゲシッという音がしたような気がする。
 身体に衝撃を感じて、ころりと転がった。
──あ、この方が眠りやすいな。
 真珠はさらに身体を丸める。

「起きないと服を剥くぞ」

──うるさいなぁ、もう。

「それとも、くすぐった方がいいのか?」

──疲れてるんだから、眠らせろ。

「よしっ、くすぐるかっ!」

──…………。
 もう少しで、ほんのあと少しでだれにも邪魔されないところまで潜り込めそうだという手前で、脇に触れられた。と思ったら……。

「うひゃひゃひゃひゃひゃっ」

 たいていの人が弱点だと思われる脇の下を、だれかがくすぐっている。

「やっ、やめてっ! ひいいぃ」

 真珠が人一倍、くすぐったがり屋という訳ではないと思う。しかし、無防備な状態でいたため、いつもより衝撃が激しい。

「ひぃ、やっ、やめてっ」
「よーっし、起きたか」

 真珠は目尻に涙を溜め、目を開いた。

「あ……」

 地面に転がった状態で、真珠はいた。視線を少しだけ上げると、心配そうな表情をしたルベウスがいた。

「起きたか?」
「え……っと」

 真珠はきょとんとして、ルベウスを見た。
 なにかを一生懸命考えていて、どうやらそのまま意識を手放してしまったらしい。
 頭の芯が冷たさを感じたままだが、周りの熱で徐々に溶け、それがなんだったのか真珠には分からなくなってしまった。

「慣れない旅だから、疲れるよな」

 ぼそりと同情するようなルベウスの言葉に、真珠はむっとして起き上がった。

「ぼくは疲れてなんかない! それよりも、マリとモリオンを探そう」
「だから、少年の特徴は?」
「忘れた! マリとモリオンを探して聞けば早いだろう!」

 少年のことを思い出そうとしたら、またあそこに行けるかもしれない。安らぎを感じた、あそこに。
 だけどそれと同時に、本能的に恐怖を感じてもいた。
 楽になれるけど、あれに近づいてはいけない。あれに取り込まれてしまったら、自分が自分ではなくなってしまう。
 危ないところをルベウスに助けられた、らしい。
 お礼を言わなくてはと思ったが、なんだかとっても癪で、思わず反抗的な態度を取ってしまった。

「確かに、そうだな。思い出そうとして眠ってしまうようなカッシーの曖昧な記憶に頼るよりは、しっかり者のマリちゃんに聞いた方が確実だな」
「うるさいっ」

 真珠の返答に、ルベウスは唇の端を持ち上げ、笑った。
 やっぱりこの人は、そんなに悪い人ではない。
 真珠はそう確信して、だけど反撃をしたくて、ルベウスの脇腹を突っつくと、村の中に駆け込んだ。

     *****

 真珠は村に駆け込み、唖然とした。

「な……んだ、これ」

 外から見ていた時は分からなかったが、村の中は荒れていた。
 テレビで見たことのある貧しい村などで、手入れをすることが出来なくてぼろぼろになった家に住んでいるといったような荒れ方ではない。ちょっと前までは綺麗に整っていたはずなのに、破壊されて今は見る影もないほどに崩れ落ちている。まるでジャーグナに荒らされたあの村のようだ。

「うおおおおおっ!」

 遠くから咆哮が聞こえるが、獣ではないようだ。

「……どうなってるんだ」

 物が激しくぶつかっている音まで聞こえてくる。そして、風に乗って焦げ臭い匂いが真珠の鼻をつく。

「まさか……」

 数日前の神様の神様の屋根サンブフィアラでの出来事を思い出した。

「ルベウス、あっちに行ってみよう」

 嫌な予感にとらわれた真珠は、音がした方向へ駆けだした。その後ろをルベウスがついてくる。
 真珠とルベウスはすぐに音がしているところへたどり着いた。
 焦げ臭い匂いはすぐになにか分かった。
 ぽっかりと空いた空間に残骸が山積みされていて、それらに火が付けられていたのだ。燃えやすい物ばかりのようで、それらは驚くほどの速さで燃え上がっていた。日がすっかり落ちて暗くなっているはずなのに、炎が妙に赤く辺りを照らしていた。
 炎の周りには村人と思われる人たちが集まっていて、手には様々な物が握られていた。畑を耕す物や、鍋、掃除道具に棒状の物。それらを手に持ち、各々が雄叫びを上げながら好き勝手に壁にぶつけていた。ぶつけると破片が飛び散り、それらを炎の中に投げ入れている。その光景は異様で、真珠の足は止まった。

「な……っ」

 ルベウスは真珠の後ろで絶句している。
 顔が痛いくらい、炎が燃えさかっている。近づくとやけどをしてしまいそうなのに、村人たちはお構いなしに側で破壊行動にいそしんでいる。
 狂気じみた声に、物にぶつけられる音。炎が爆ぜる音。
 赤い炎と黒い煙。
 真珠とルベウスは荷物はどうでもよくなっていた。
 それよりも、はぐれてしまったマリとモリオンの行方が心配だ。

「マリ、モリオン!」

 真珠は大声を上げて、二人の名前を呼びかける。その声に村人たちは反応して、手を止めた。真珠は一斉に視線を感じた。
 身体を強ばらせて村人たちを見ると、目が死んでいた。弛緩した表情で真珠に顔を向けている。口の端からよだれを垂らしている者さえいる。

「よそ者だ」
「捕まえろ」
「おれたちに食べ物を」
「あいつの着ているあの服、暖かそうだぞ」
「奪え」
「殴って気絶させて、奪おう」

 その言葉に、真珠とルベウスは身の危険を感じた。
 二人は後ずさりをして、ルベウスは真珠の手首を掴むと同時に走り出した。

「うわっ!」

 強く引っ張られ、真珠はバランスを崩したがどうにか転げることは免れ、体勢を立て直すとルベウスについて走り始めた。

「ここはやばい、とにかく街道に!」

 街道に出ても危険なような気がしたが、村人にやられるよりは遙かにマシだ。
 真珠はうなずき、マリとモリオンのことを気にしながらも必死になって街道へ向かって走った。





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