《二十六》
幸は万里の姿を確認すると、駆け寄ってきて抱きついてきた。突然の出来事に万里は驚いてよろめいたが、どうにか幸の身体を支えることが出来た。
「ばんりぃ、ごめんな……さい」
幸は万里の身体にしがみつき、泣きはじめてしまった。万里は戸惑いつつも幸の身体をそっと抱きしめたのだが、触れた幸があまりにも細くなっていて、万里はぎくりとした。
万里が日比谷家にいたころ、幸はこうやって抱きついてくることがあった。苦笑しながら甘えん坊ですね、なんて言って笑っていたのだが、そのころはもっとふっくらとしていたような気がする。
万里が日比谷の屋敷を出てから、一か月以上経っている。その間に幸の身になにがあったのだろう。
幸のことを投げ出して鹿鳴館に来たことを、万里は後悔してしまった。
帝も幸のこんなやつれた姿を見て、心配のあまり、大和に相談をしたのだろう。大切な妹の変わり様に、心を痛めているはずだ。
「ばんりぃ」
幸は万里にしがみつき、泣きじゃくっている。
万里はなだめるように軽く抱きしめ、幸の背中をゆっくりとさすった。
よく見ると、幸はセーターとスカートのみだった。この寒空の下でコートなどの防寒具を着ていない。
万里は着ていたコートを脱いで、幸にかけた。
どれくらいそうしていただろう。
後ろから誰かが近寄ってくる気配がして、万里は身体を強ばらせた。
すでに陽は完全に落ち、世界はすっかり夜の様相を呈している。人影もなく、不審者かもしれないと思うと、早いところ幸とともに車に戻ればよかったと判断の甘さに身が凍った。
万里は恐る恐る振り返り、見覚えのあるシルエットに身体から力が抜けた。
そこには、閏が立っていた。
きっと、なかなか車に戻って来ない万里を心配して、様子を見に来てくれたのだろう。それが大和の命令であったとしても、万里は嬉しかった。
閏はゆっくりと近づいてきて、万里の斜め後ろに立った。それから万里だけに聞こえるように、閏は耳元に囁きかけてきた。
「俺と大和さまはしばらく、車の外にいる。幸さまを車に連れて行け」
万里は小さくうなずいた。
閏はそれを見て、コートを脱いで万里にかけ、そして車のキーを渡すと、素早く去っていった。コートは閏のぬくもりがあり、さりげない優しさにドキドキとしてしまう。
「幸さん、寒いですしここは少し物騒ですから、車に移動しましょう」
万里は落ち着いてきた幸の肩を抱きながら、公園を出た。
車は公園入口すぐの路上に止められていた。万里は後部座席を開け、幸を先に乗せ、万里が後に続いた。
幸はうつむいたまま、涙をぽろぽろとこぼしている。万里は拭くものを探し、鞄の中からハンカチを取り出して、渡した。
「幸さん、なにがあったのですか」
万里の質問に、幸はしゃくりあげ、わーっと声を上げてしがみついてきた。
「万里、あのね……」
涙声の幸に、万里の表情が曇る。
「……生理が来ないの」
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幸の告白に、万里の思考が停止した。
「あの……み、みゆ、きさ、ん?」
幸はさらに泣きじゃくりはじめてしまった。
生理が来ない……その意味することは、二つある。
一つはストレスや過度のダイエットで周期が狂ってしまって予定通りに来なくなること。
そしてもう一つは。
「みっ、みゆ、き、さん」
万里も年齢的にはいい大人だ。知識がないわけではない。しかし、まさか幸が……という気持ちが大きすぎて、その可能性を拒否したい。
万里が知る限りでは、幸の生理は一日、二日のズレが出ることもあるが、基本的には順調にきていたはずだ。
「えっ……や、あのっ。み、幸さん、その、つかぬことをお伺い、しますが」
とは言っても、確認しなくてはならないことがある。万里は頬に熱を感じながら、意を決して質問した。
「その、お相手は、どなた、ですか? 大和さまとの結婚を由としなかったのは、その方と、そのっ……」
万里のしどろもどろの質問に、幸は号泣し始めてしまった。
やはり聞いてはいけないこと、だったのだろうか。
万里はどうすればよいのか分からず、おろおろするばかりだ。こんな時、閏がそばにいてくれたら、どんなに心強いだろう。
「うっ……ぐっ。あたし」
涙声だったが、万里に告白したことで踏ん切りがついたのか、幸は話し始めた。
「大学に入ってすぐ、仲良くなった方なの。とても素敵な方で、色々とあたしのことを気にかけてくれて……」
幸は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「それで……気がついたら、その人のこと、好きになって、気持ちをずっと抱えているのが、辛くて、告白したら、いいよって言ってくれて」
好きという気持ちをずっと抱えている辛さは身に覚えがあるので、万里は幸の気持ちが痛いほど分かった。
だが……。
「気持ちが通じ合ってからは、とっても楽しかったの。大学の構内だけでのお付き合いだったけど、一緒にお茶をしたり……お話ししたり。あたしはそれで、充分だったの」
幸は万里の渡したハンカチで目元を拭い、続けた。
「万里がいなくなって……とっても淋しくて。その人と一緒にいると辛さを忘れられるから……」
幸はなにかを思い出したのか、うっと呻いてハンカチで涙を拭う。それを見て、万里はなんと言えばいいのか分からず、拳を握りしめた。
「万里があたしを見たっていうレストランで、毎週、あの人が主催してパーティをやってるっていうから、何度か行ってみたの」
幸の言葉にきちんとメールは届いていて、読んでくれていたと知り、こんな場面なのに万里はうれしくなった。ただ、幸としてはなんとなくバツが悪くて返信出来なかったのかもしれない。
「それでね……その人からもう来るな、キミとはもう会えないっていきなり言われたの」
そのことを思い出したのか、幸は肩を震わせ、また泣き始めてしまった。
「あたしも大学を卒業だし、そろそろお別れだとは思っていたの。だから……それはそんなに辛くないの。分かっていたことだし」
といいつつも、幸はやはり悲しいのだろう。ぐすぐすと鼻をすすり、泣いている。
「別れた後にこんなことに気がついちゃうなんて……どうすればいいのかわかんなくって」
幸は顔を上げ、泣き笑いの表情で万里を見た。
「ねえ、万里、どうしよう」
どうしようと言われても、万里もどうすればいいのかまったく分からない。
一生懸命に悩むのだが、経験のない身としてはどう対処すればいいのかさえも検討がつかない。
「その……幸さんは、どうしたいのですか?」
「どうって……?」
幸は万里がなんと言いたいのか分からないようで、首を傾げた。
「お相手の方には?」
万里の質問に、幸は小さく首を振った。まだ話をしていないようだ。
「だって……言えないよ」
幸はつぶやき、再び万里にしがみつき、泣き始めてしまった。
万里は途方に暮れてしまった。
相談するにも、デリケートな内容だけにだれに言えばいいのか分からない。大和に言うのは問題外であるし、閏に相談すれば必然的に大和の耳に入ってしまう。帝はもってのほかだ。
肝心の幸は今は感情が高ぶりすぎて話をするのが困難であるし、となると、万里が考えるしかない。
こういうとき、まずはどうすればいいのだろうか。
病院に行って、検査をするのが一番ではないだろうか。
しかし、今から行くとしても、どこも診察は終了しているだろう。
とりあえずで診断するのなら、薬局でキットを購入して調べてから判断するでもいいような気がする。
「幸さん」
万里はそう結論を出し、幸に提案をしようとしたのだが。
静かになったと思ったら、幸は万里にもたれかかり、眠ってしまっていた。
泣き疲れたのだろう。
万里は苦笑しつつ、用意していた膝掛けを幸に掛け、閏に連絡を入れた。