《二十》
夜も更け、そろそろ寝る時間となった。
ソファに座っていた閏は眠たいのか、大きくあくびをすると書類を鞄に片付け、立ち上がった。
動き始めた閏を見て、万里はそわそわした。
閏は洗面所へ行き、歯を磨いているようだ。
万里はシャワーを浴びた時に済ませていたので、手持ち無沙汰だ。
昨日は疲れ切ってソファで眠ってしまったが、今日はさすがにベッドで眠りたい。
しかし、寝室にはベッドが一つのみ。
二人が並んで寝ても充分なスペースだが、一緒のベッド、というのがとにかく、恥ずかしくて仕方がない。
やはり今日も、ソファで眠った方がいいかもしれない。
万里はそんなことを考え、寝室から毛布を引っ張り出してきた。
幸いにもソファは万里が寝転がっても充分に広く、ここで眠っても支障はない。ただ、ベッドほどの広さはないので、少し窮屈だ。
洗面所から出てきた閏は、毛布を持ち出してソファに寝ようとしている万里を見て眉をひそめたが、なにも言わず、寝室へと移動した。
少しだけ、こちらを見てくれた。
万里はそれだけでもう、頬が緩んで仕方がなかった。
電気を消し、ソファに横になる。毛布を深く被り、目を閉じる。
疲れているのに、なかなか眠りが訪れない。
万里は狭い座面を気にしながら何度も寝返りを打ち、ようやく眠ることが出来たのはかなりの時間が経ってからだった。
万里の父と母が、楽しそうに笑っている。二人は顔を合わせ、幸せそうだ。
万里は懐かしくて二人に近寄ろうと歩みをすすめるのだが、なぜか遠ざかっていく。だけど父と母の笑い声は遠ざかるどころか徐々に大きくなり、万里の耳にこだましている。
万里は二人に手を伸ばし、必死になって走る。
遠ざかっていく二人に届かない手は、とてももどかしい。
身体は鉛のように重く、気持ちばかりが急く。
走っても走っても、届かない。
待って、お願いだから置いて行かないで──!
万里は泣きそうになりながら、それでも走る。
息が切れ、喉の奥から血の味がこみ上げてきた。それでも追いつきたくて、万里は必死に走る。
「待って、──お願いだから、待ってっ!」
必死になって叫び、手を伸ばし──。
身体が宙に浮いたかと思ったら、激しい音を立て、身体が地面に叩きつけられた。
身体の痛みに息を詰め、万里ははっとした。
今のは……夢?
ぼんやりとしていると、寝室から物音がした。閏を起こしてしまったのかもしれない。
万里は慌てて身体を起こそうとするのだが、打ち付けた身体が痛くて、動けない。
ぱっと明かりが付き、まぶしさに目を閉じた。歩く音がして、閏が近寄ってきたのが分かった。
ソファから転げ落ちている万里を見て、閏は一言。
「なにをしている」
冷ややかな声ではあったが、少し心配そうな響きを感じ取り、万里は頬が熱くなった。
「あの……その、寝ぼけて落ちてしまいました」
万里はようやく痛みが引いた身体を起こし、ソファにもたれ掛かった。息を吐き、座面に手をついて立ち上がる。
「そんなところで寝ているからだ」
万里が立ち上がったのを確認した閏は背を向け、ため息を吐いた。
「寝室にはベッドを用意している。そちらで寝ろ」
その言葉に、万里は頭に血が上った。頭を振り、慌てる。
「しっ、しかしっ!」
「なにを心配している。指一本、触れないと言ったはずだ」
相変わらずの冷ややかな声だが、言われれば言われるほど意識してしまい、万里は恥ずかしさのあまり倒れてしまいそうだ。
「またそこに寝て、ソファから落ちられて目が覚めたら、安眠妨害だ。寝不足だと、仕事に支障を来す」
閏の言うことは至極もっともで、万里は深呼吸をして落ち着かせた。
「入口側を開けておくから、そちらに寝ろ」
「……はい」
閏はそれだけ言うと、振り返らずに寝室へと戻っていった。
万里は毛布をたたんでそれを持ち、寝室へと向かった。
中は明かりがなく、真っ暗だ。万里は明るかった隣室から来たため、闇に目が慣れない。しばらく佇み、目が慣れた頃、そろそろとベッドに近寄った。
閏が言った通り、扉の近くの場所は空いていた。
「……失礼、します」
万里は一言断りを入れ、そろりと布団の中へと身体を滑り込ませた。
ベッドはソファと違い、平らで広く、寝心地が良かった。
すぐそこに閏がいると思ったら緊張したが、耳を澄ますと規則正しい呼吸音が聞こえ、閏はすでに眠っているのが分かり、安堵した。
万里は閏側に身体を向け、目を閉じる。
手を伸ばせば届く距離に、閏がいる。
そう思うと、万里は幸せで仕方がない。
夢の中の悲しい出来事をすっかり忘れてしまうほど、万里は幸せを感じていた。
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目が覚めると、もう朝になっていた。
目の前に閏の背中が見える。それだけで万里は幸せで、その気持ちを抱えたままそっとベッドから抜け出した。
物音を出来るだけ立てないように服を取りだし、洗面所へ行き、着替える。
軽く化粧も済ませていると、ノックが聞こえた。
「はい」
扉を開けると、女性がワゴンとともに立っていた。
「おはようございます」
声を掛けると女性はほんの少し不快な表情をしていたが、無言だった。そしてなにも言わず、ワゴンを置いて去って行く。
昨日の朝食の時を思い出す。テーブルの側にワゴンがあったところを見ると、これは閏と万里の朝食なのだろう。万里はワゴンを押して部屋に入り、テーブルの上に朝食の準備を始めた。
その物音で目を覚ましたのか、眠そうに目をこすりながら閏が寝室から出てきた。
「おはようございます」
「……おはよう」
聞こえるか聞こえないかという大きさではあったが、万里の挨拶に閏が返してくれた。
それだけで万里の気持ちは舞い上がる。
緩んでしまう頬をどうにか制御しつつ、万里は張り切ってワゴンからテーブルへと料理を移動させた。
今日の朝食は洋風だ。
ほどよく焼かれた食パンに、スクランブルエッグ。食パン用にはバターとジャムも用意されていた。それとサラダ。飲み物はポットにたっぷりと淹れられた紅茶。シュガーポットとミルクも付けられている。
閏は毛足の長いスリッパにガウンを羽織り、寝起き特有の緩慢な動きでテーブルにやってきて、座った。ひっきりなしにあくびをしている。朝はどうやら、あまり得意ではないようだ。
万里が椅子に座ったのを確認すると、バターナイフに手を伸ばし、食パンにバターを乗せた。それからたっぷりのイチゴジャムを乗せると、大きく口を開け、かじった。
その一連の動作を万里は思わず、見とれてしまう。
閏は万里の視線が気になったのか、顔をしかめ、身体を引いた。
ぼんやりしている場合ではないと万里は気がつき、カップに注いだ紅茶に砂糖とミルクを入れ、口に含んだ。
芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、温かな気持ちになる。
会話はないけど、ともに同じ食事を口にする。
同じ空間で、時を共有する。
焦がれた閏は側にいる。
そしてほんの少しだけど気に掛けてくれている。
少しずつ積み重ねれば、いつかはわかり合える。
万里はそう信じて、紅茶を飲み干した。