《十九》
万里は女性に案内をしてもらい、部屋にたどり着いた。
「せいぜい、閏さまに三行半を突きつけられないようにしな」
女性はそんな言葉を残し、去って行った。
万里は鍵を開けて中に入り、扉を閉めるともたれ掛かった。
万里が勘違いをしてしまったことから、周りに誤解を与えているようだ。女性の辛辣な言葉で、現実を知った。
確かに大和は魅力的な人物だ。醸し出す空気が王者然としていて、自然と目が惹きつけられる。持って生まれた魅力というのは本当にあるのだと、万里は思い知らされた。
それに加え、少し日本人離れした見た目をしているのも、惹きつけられる要因だろう。
そういえば昔、大和の母はヨーロッパのどこかの出身だと聞いたことがある。二人とも存命で、仕事で世界中を飛び回っているという。
大和という和風な名前なので、万里はそんなことをすっかり忘れていて、閏を見て大和と思い込んでしまった。
どうすれば誤解が解けるのだろう。
万里はそのまま、扉の前でじっと膝を抱えていた。
ノックの音に、万里は顔を上げた。立ち上がって扉を開けると、昨日、夕食と呼びに来てくれた彼女がいた。
「今から夕食だけど、どうしますか?」
せっかく誘いに来てくれたのに今日も断るのは忍びないと感じた万里は、彼女の申し出に応じることにした。
連れて来られたのは、部屋から遠く離れた場所だった。帰る時、一人で戻れるだろうかと不安に思ったが、これは慣れるしかない。
「ここは鹿鳴館家で働く従業員のための食堂なの。夕食は十八時から二十一時まで」
それだけ告げると、女性はさっさと万里から去って行った。
「ありがとうございます」
お礼を言うタイミングが遅くなったが、万里は声を張り上げて女性に告げた。かなり迷惑そうな表情をされた。
食堂内に入ると、入口にサンプルが置かれていた。Aセットは肉料理、Bセットは魚料理。それ以外には日替わりの麺とカレーがあるようだ。万里は朝食が魚だったことを思い出し、Aセットにした。
注文して、テーブルがズラリと並んだ食堂内に視線を向け、空いている端に座った。
「いただきます」
と一言告げ、万里は夕食を口にした。
食堂内は心地よいざわめきに包まれていた。少し離れた席から、話し声が聞こえる。同僚同士なのか、仕事の愚痴をこぼしている。
万里は食べながら、食堂内に視線を走らせる。
かなり広い空間に、四人掛けの長方形のテーブルが横に二つずつ組み合わさり、整然と置かれている。ここにはどれだけの人が働いているのだろうか。
にぎやかな集団が入ってきて、注文をしている。その中に万里に辛辣な言葉を投げかけた女性を見つけ、思わず身体を小さくした。
「それにしても」
その女性は、声高に喋り始めた。
「大和さまもなんであんな小娘を、閏さまと結婚をさせたのかしら」
「オタケさん、ダメだよぉ。あんたの娘を閏さまとと思ったのだろうけど、どう考えても無理だろ」
あはははと笑い声が聞こえてくる。
「そうは言うけど! あんただって、あわよくば娘をと思っていた口じゃないかい!」
「あー、うちのは、ダメだぁ。娘は閏さま~と言ってるけど、閏さまの隣に立って惨めな思いをするのは、うちの娘だ」
「そうだよねぇ。閏さま、大和さまとひけをとらないほど、いい男だから」
そのにぎやかな集団は食事を受け取り、万里とは真反対の奥へと移動していった。そのため、話し声は聞こえなくなった。
万里はそこで、息を吐いた。自分が息を詰めて会話を聞いていたことを知った。
……なにも、知らない。
慌ただしくて、しかも浮かれていた万里は、鹿鳴館で過ごすという意味を今、初めて知ったような気がする。
日比谷家に勤め始めたときも戸惑ったが、あの時は周りの人たちがとても親切で、分からないことをなんでも教えてくれた。
だけどここは──。
いや、そんなことはない。
万里のことを夕食だと呼びに来てくれた女性のような人だって、いる。
そう思わないと、万里は心が潰されてしまいそうだった。
食事が終わり、万里は記憶をたどってどうにか部屋へと戻ることが出来た。
扉を開けると、出て行くときは明かりを消していたはずなのに、付いていた。ソファへと視線を向けると、ジャケットを背もたれに投げかけ、その横に座っている閏を見つけた。
思っていたより早い帰りに、それなら待っていれば良かったと思った。
「お帰りなさいませ」
声を掛けても、返事が返ってこない。
扉を閉め、閏に近寄ると、俯いているのが分かった。
「あの……?」
顔をのぞき込むと、目を閉じていた。どうやらここに戻ってきて、ソファに座ったら疲れて眠ってしまったようだ。
万里は微笑み、閏の横に置かれたジャケットに手を伸ばした。
「……触るな」
びくりと身体が震え、伸ばした手を慌てて引っ込ませた。
「あ……お帰り、なさい……」
閏は顔を上げて頭を振り、ソファから立ち上がるとジャケットを奪うようにして取り上げた。
「俺に近づくな。俺にも俺の物にも、一切触れるな」
眼鏡の奥の鋭い視線に睨まれ、万里は身を縮めた。
「……すみま、せん」
万里はただ、そう謝ることしか、出来なかった。
夕食は食べてきたのか、風呂はどうすればいいのか。
万里は閏に聞きたいことがあったのだが、閏は万里のことを拒否している。
どうしてそんなにも嫌っているのか。
ただ、側にいたい。
その一心だったのに、今は側にいることがとても辛い。
閏は寝室へ向かい、着替えて出てきた。手にタオルを持っている。
「あの……どちらに?」
万里の質問に答えることなく、閏は無言のまま、出て行った。
万里は歩み寄ろうとするのに、閏はそれを拒否している。
泣いてしまいたい気持ちだったが、万里は拳を作り、我慢した。
万里は結局、風呂の場所が分からなかったので、今日もシャワーで済ますことにした。
こんな日は、湯船に浸かって疲れを取りたかったのだが、どこになにがあるのかまったく分からない。部屋に戻れなくなって閏に迷惑を掛けることを考えると、動くことが出来ない。
こぼれ落ちそうなため息を飲み込み、万里は淡々とシャワーを浴びた。
万里がシャワーから上がると、すでに閏が戻ってきていた。出て行った時と着ているものが違うところを見ると、風呂に入ってきたのだろう。朝にも着ていたガウンを羽織り、ソファに座って書類に目を通していて、こちらをまったく見ることがない。
閏にとって、万里は
「いない人間」
なのだろう。空気のような扱いに、万里はここにいると叫びたい気持ちで一杯になった。
側にいるだけで幸せではあるが、一つの願いが叶うと、さらにその先を望んでしまう。
嫌いでもいいから、存在を無視しないでほしい。
冷ややかな視線でもいいから、見て欲しい。
万里は初めて抱くその想いをもてあましながら、静かにそこに佇むことしか出来なかった。