《十六》
万里が呆然と寝室の扉の前で佇んでいると、身動きする音がかすかに聞こえてきた。
そして程なくして鍵が開き、扉が開いた。
「……なにをしているんだ」
扉の前に立っている万里を見て、閏はいぶかしげな表情を向けてきた。
「日比谷に言われたのか? 早いところ、既成事実を作れとでも?」
万里を嘲笑する言葉に驚き、目を見開いて閏の顔を見上げると、その顔には想像もしていなかった皮肉な笑みが浮かんでいた。
「最初に言っただろう。おまえには一本も指を触れないと」
閏はそれだけ口にすると、万里の横を通り、洗面所へと消えた。
万里はただ、唖然として寝室に視線を向けることしか出来なかった。
ずっと突っ立っている訳にもいかず、万里は気を取り直して寝室に入り、着替えを用意した。
「あの……お風呂はどちらに」
洗面所から出てきた閏に質問すると、無言で、今出てきた洗面所を親指で示された。部屋に洗面所に手洗い、シャワー室がついているのは知っていたが、そこを使えと言っているのだろう。
万里は服を抱え、シャワー室へと向かった。
暖かいシャワーを浴びていると、涙がこみ上げてきた。側にいられたらそれだけで幸せではあったのだが、いわれのないことを言われ、冷たい態度を取られていることは、辛い。悔しさがこみあげてきた。万里は壁に手をつき、唇をかみしめて少しだけ泣いた。
シャワーから上がると、部屋の隅のテーブルセットの上には朝食の準備がされていた。ワゴンが置かれているところを見ると、万里がシャワーを浴びている間に運ばれてきたのか、閏が取りに行ったのだろう。
室内にご飯と焼き立ての魚のいい匂いがしている。
シャワーを浴びてさっぱりした万里は、急に空腹を覚えた。
盛大に鳴り始めたお腹の虫を恥ずかしく思いながら、テーブルに近寄った。
閏はまだ、寝起きのままのパジャマだ。寒いからか、毛足の長いスリッパに厚手のローブを羽織っている。
テーブルセットの奥側に座っていて、万里を待ってくれているようだ。
「すみません」
万里は慌てて近寄り、席に座った。それを見て、閏は無言で食事を始めた。
万里はグラスを手に取り、注がれていた水を一気に飲んだ。喉が渇いていたようで、すごく美味しく感じる。
箸を手に取り、いただきますと小さく口にしてから、まずは味噌汁に手を付ける。
今日の具は、油揚げとわかめのようだ。
日比谷家ではどちらかというと洋食系だったので、和食というのがうれしかった。
夕食を食べていなかったのもあり、万里はこんな状況だというのに完食した。
隣に閏がいる。
シャワーを浴びながら少し泣いてしまったが、酷いことを言われても、閏の側にいられるということに万里は幸せを感じた。
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閏はどうやら、大和の秘書という立場のようだ。
万里が助手席に座り、後部座席に大和と閏が並んで座り、オフィスへ。車中では閏が今日の予定を大和に告げていた。
「お昼の会食ですが」
「今日も食べながら会議なのか?」
うんざりしたような大和の声に、閏はしかし、淡々と告げる。
「海山商事の会長自らのセッティングということですから、お断りは難しいです」
「あの狸じじい……。いや、海産物を扱っているから、フグじじいと言った方がいいか?」
大和の揶揄に、万里は思わず笑ってしまいそうになったが、俯いて手の甲をつねり、我慢した。
海山商事といえば、日比谷家とも交流があったはずだ。
「どーせまた、ぶさいくな孫娘自慢と嫁にどうだって言ってくるんだろ?」
「大和さま」
閏のたしなめる声に、大和は大きく伸びをして、身体を閏へと向けた。
「おまえは綺麗な嫁をもらって満足かもしれないが」
大和の言葉に、万里は弾けるように顔を上げた。耳まで熱い。きっと今の万里は、真っ赤な顔になっているだろう。
「幸はつれないし……。オレは何度、失恋すればいいんだ!」
「なにも幸さまに固執しなくとも、海山商事のご令嬢だけではなく」
「おまえは分かってないなぁ。ほんと、分かってない!」
大和はそういうと、閏の肩を抱き寄せた。
「好きな女をなにがなんでも手に入れたいと思うのは、男のサガ! 幸は、いい女に育ってるんだぜ? 他の男に触れられるかもしれないと思うと、いてもたってもいられないっ!」
想像していたのとまったく違う大和の態度に、万里はどう反応すればいいのか分からない。
「幸さまが素晴らしい女性というのは、分かりました」
閏は大和の手を払いのけ、スケジュール帳を開き、予定を告げる。
「会食は一時間を予定しております。その後、移動しまして……」
「会食、キャンセル出来ないのか? せっかく今日から万里ちゃんが仕事に入ってくれたのに」
「出来ません」
冷たく一蹴する閏に、万里は目を丸くした。
「夜は?」
「夜も予定が入っています。山里商会主催のパーティに出席となっております」
「はあ。また山里か! あそこはほんと、派手だねぇ」
どうやら大和のスケジュールは、冗談抜きで分単位で動いているようだった。
「……ま、こんな感じで、万里ちゃん」
いきなり呼ばれ、万里は飛び上がり、振り返った。大和は茶色い髪をかき上げ、色素の薄い緑っぽい茶色の瞳を細めて万里を見た。
「はっ、はいっ!」
万里の慌てる様子を見て、大和は愉快そうに口角をあげた。横でそれを見ている閏は、眉をひそめた。
「今日から君の仕事は、この冷血男が突っ込むオレの仕事のスケジュールをもう少し緩くしてもらうことだ」
「大和さま、これでも充分、余裕を持っているのですよ」
「あー、はいはい。そうですね」
大和はうっとうしそうに手を払い、大きくため息を吐いた。
「冗談はさておき。君はオフィスに残って、オレがいない間の取り次ぎをしてもらいたい」
「取り次ぎ……です、か?」
責任重大な仕事をいきなり任され、万里は絶句した。
「最初は右も左も分からないだろうから、この男を付けよう」
万里は大和から閏に視線を向けた。
きっちりとオールバックにして固めた髪は、まったく乱れた様子がない。銀縁眼鏡の奥の鳶色の瞳は、ただ、冷たく光っているだけだった。
「研修期間は一か月。それだけあれば、分かるだろう」
「大和さま、その間は……」
「なぁに、オレ一人で充分だろう? 車は数名でローテーションを組んでもらうように手はずをしてくれてるし、オレ一人が動いた方が効率がいい予定ばかり、おまえのことだから入れてるんだろう?」
そう言って、大和は恨めしそうな視線を閏に向けた。
「よりによって、会食ばかりを突っ込みやがって……! じじいどもはみな、大喜びしていたぞ」
「そんなつもりはございません。いつもお断りしてますから、さすがに申し訳なく思いまして予定をいれたら、たまたま集中しただけです」
閏は手に持っていたスケジュール帳を閉じ、ジャケットの内ポケットにしまっていた。
「はーあ。万里ちゃん、こいつはこうやって平気で嘘をつくような男だからな。気をつけろよ」
よく分からないアドバイスに、万里はなんと答えればいいのか分からず、引きつる笑みを浮かべることしか出来なかった。
オフィスに着き、大和は面倒だと文句を言いつつ、朝一番に行われる社内会議のために会議室へと向かっていた。
万里は閏と二人にされ、急に心臓がどきどきとし始めたことに気がついた。
てっきり、大和もずっといると思っていた万里は、閏と一緒でどうすればいいのか分からない。
閏はそんな万里に目もくれず、歩き始めた。カツッと地面を踏みしめた閏の靴音で、万里は慌ててその背中を追いかけた。