《十五》
万里はじっと、部屋で閏の帰りを待っていた。
日が傾き世界が闇に包まれても、忙しい閏はまだ帰ってこないのは分かっていた。
だけど今の万里は、閏が帰ってくるのを待つのは苦痛ではなかった。
閏の態度はとても冷たかったが、それでも万里は側にいられる、ただそれだけで幸せだった。それほど多くない会話を思い出していると、あっという間に時間が経っていた。
扉をノックする音で、万里は現実に戻ってきた。閏が帰ってきたのかと思ったが、考えてみたら、自室に入るのにノックをしてというのもおかしな話だ。屋敷のだれかかもしれないと出てみると、知らない顔だった。
「あの……」
「閏さまから連絡があったの。遅くなるから、先にご飯を食べておいてって」
閏はあんな冷たいことを言いながらも、万里のことを気に掛けてくれていたようだ。その気遣いに心が温まる。
予想通り、遅くなるようだ。しかし、勝手が分からない万里はどうすればいいのか戸惑い、呼びに来てくれた人に尋ねた。
「大和さまと乙さ……あ、閏さんは、いつも帰りが遅いのですか?」
万里の質問に、呼びに来てくれた女性は逡巡してから答えた。
「はい。遅いですが、いつもよほどのことがない限りは帰ってきてからお食事を摂られます」
「そうなんですね。……それでは、私もお帰りになるのを待ちます」
「今日はかなり遅い時間になるようですよ。もしかしたら、日付が変わるかもしれませんが」
「はい。それでも待ちます」
先に食べておいて欲しいと気を遣ってくれたものの、結婚初日ということもあり、万里は待つことにした。
「……そうですか」
女性はなにか言いたそうな表情をしていたが、結局、静かに去って行った。
万里は聞きたいことは山のようにあったが、呼びに来てくれた女性もきっと、今から食事なのだろう。遅らせては申し訳ないと思い、聞くのは止めた。
女性の背中を見送り、万里は部屋に戻ろうとしたが、だれも通らない廊下の意匠に目を奪われた。
日比谷の屋敷も内装が凝った豪華な建物ではあったが、鹿鳴館の屋敷も負けていない。
廊下を見るだけでも、意匠が凝らされているのが分かる。壁紙は控えめな白ではあるが、よく見るときらきらと光る模様が入っている。柱も太く、彫り物がされている。絨毯はふかふかと長めの毛足。
日比谷家は色彩が派手目ではあったが、こちらは控えめ。それでも、造りがいいことはすぐに分かる。
今、万里が支えている扉も一枚板で出来たものでかなり厚みがあり、上質な物を使用している。
扉を開けていると、廊下から冷たい風が部屋に入り込んできた。寒くてぶるりと震え、万里は慌てて扉を閉め、中へ戻った。
静まり返った部屋に、万里は急に淋しさを覚えた。
室内に目を向けると、未だにカーテンを閉めず、しかも、暗くなっているのに明かりを付けていなかったことに気がついた。
カーテンを閉めて、明かりをつける。ぬくもりのある温かな色味に、少しだけ淋しさが紛れた。
待つと言った手前、入浴も後に回すつもりでいた。もしも入っている間に帰って来られたらと思うと、申し訳なく思ってしまう。
ソファに戻り、深く腰を掛けた。
やはり日が落ちてきたので、冷えてくる。持ってきていた膝掛けをして、気を紛らわせるためにテレビを付けてみたのだが、興味を引かれるものがなく、消した。
途端、喧噪が遠のき、静まり返る。
日比谷家にいた頃はこの時間、幸とよく、おしゃべりをしていた。
昨日までいたのに、なんだかとても遠い昔のように感じてしまう。
今頃、幸はなにをしているだろうか。きちんとお礼を言えないままにこちらに来てしまったことだけが気に掛かる。
幸の携帯電話の番号を知らない訳でもないし、メールアドレスだって知っている。だから、コンタクトを取ろうと思えば出来たのだが、なんだか幸を捨ててきたような気がして、ためらわれた。
アウトレットパークからの帰りの車の中での寝言を思い出し、苦しくなる。
置いて行かないでと言っていた。
姉のように慕ってくれていた、幸。
もう少し時間を置けば、素直に連絡を取ることが出来、前みたいに話せるだろうか。
けんかをしたわけでもないのに、なんとなく連絡を取りづらい。それはきっと、幸が万里のことを拒否してしまったからだろう。
わだかまりを残したまま、ここに来てしまった。
万里は冷静でいたと思っていたのだが、思い返すと激しく浮かれていたようだ。
挙式をして、閏の言葉で冷静になれた。
普段であったならば、どうにかしてコンタクトを取り、謝っていたはずだ。それをしなかったのは、忙しいことを言い訳にして、後ろ暗い気持ちがあったから。
幸の本来の婚約者である大和の側にいける。
それだけのために、万里は幸の気持ちをないがしろにしてしまった。
今すぐにでも日比谷の屋敷に戻り、幸に謝りたい。
しかし、それは出来ないことだった。
万里は大きく息を吐き、膝掛けを肩まで上げた。そうすると暖かくて、幸の見合いの日に肩を抱かれた時のぬくもりを思い出してしまった。
もっと感じていたいと思ってしまった、閏のぬくもり。
今日の式の時に触れられた、指先の温かさ。
万里は天井を仰ぎ、きつく瞳を閉じた。
相手が閏で良かった──。
幸とのわだかまりは、時が解決をしてくれる部分もあるような気がする。
万里はとりとめもなくそんなことを考えていると、疲れもあり、そのまま眠ってしまった。
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ふと目が覚め、万里は見慣れない天井にここはどこだろうと悩んでしまった。
薄暗い部屋。なにもない天井。
日比谷の部屋の天井は、もう少し装飾があったような気がする。
そこまで考えて、思い出した。
万里は驚き、飛び起きた。バサリと音を立てて、身体に掛かっていた毛布が床に落ちた。
そうだ。
万里は閏が帰ってくるのを待っていた。
ソファに腰掛けて、考え事をしていて……。
毛布なんて掛けた覚えがないから、帰ってきた閏が掛けてくれたのだろう。
夕食も食べず、風呂にも入らず、ソファでうたた寝。
初日から閏にみっともないところを見せてしまった。
恥ずかしくて頭を抱えてしまった。
ところで今は、何時なのだろうか。
カーテンの隙間からほんのりと日が差し込んでいるところを見ると、そろそろ起床しなくてはならない時間だと思われる。
室内に視線を向け、時計がないことに気がついた。
ないと不便だから、どこかで調達しよう。
そう思いながら、万里は腕時計に視線を向けた。
時計の針は六時前を指し示していた。
今日から閏とともに仕事をすると昨日、言っていたような気がする。
それならば、風呂に入り着替えをして、朝食を摂らなければいけない。
万里は耳を澄ます。
閏は隣の寝室で寝ているはずだ。しかし、物音がまったくしないということは、まだ寝ているのだろう。
起きるのを待つのがいいのか、そっと入って着替えを取りに行くべきなのか。
万里は閏が掛けてくれたと思われる毛布をたたみ、ソファの上に置きながら悩んだ。
閏が何時に帰ってきて、朝は何時に起きるのか、さっぱり分からない。しかし、そろそろ起こしても問題ない時間だろう。
そう判断して、それでもそっと足音を立てないように慎重に歩き、寝室の扉に手を掛けた。
「え……」
万里は思わず、声を上げてしまった。慌てて手で口を押さえた。
ノブを回したのだが、昨日はあっさりと開いたそれは、動かなかった。ということは、閏は中から鍵を掛けてしまっているのだろう。
明らかな拒絶に、万里の心はずきりと痛んだ。