《十三》
万里たちは鹿鳴館の屋敷に行くため、車中の人となっていた。助手席に大和が座り、後部座席に並んで万里と閏が座っている。
「本来なら、今日一日、閏に休みを与えたかったんだが……。仕事の調整が上手くいかず、午後から出社になっている。申し訳ないが、万里ちゃんだけ屋敷に戻って、ゆっくりしていてほしい」
万里と閏の結婚のせいで、どうやら仕事に支障を来しているようだと感じ、万里は慌てた。
「すみません、私のために……」
「ああ、気にしないでいい。結婚を急がせたのは、こちらの都合だ」
鹿鳴館家の都合とは聞いていたが、それはどういったことなのか、万里は知らない。だからそれ以上、なにも言うことが出来ずに万里は黙った。
「閏、オレは先に出社している。万里ちゃんに屋敷を案内して、昼食くらい一緒に食べてから出てこい」
「大和さま、しかし……」
「これは、命令だ」
また低い声で大和はそれだけ告げた。
「……はい、かしこまりました」
閏の返事を聞いた大和は笑みを浮かべ、万里に顔を向けてきた。
「こいつは気が利かないところがあるから、不満に思ったら、すぐに言わないとダメだぞ」
「え……」
「今日から夫婦になったのだから、遠慮なく言い合えるようにならないとな。オレの理想の夫婦像だ。お互いが思いやり、助け合える。最初は上手くいかなくても、お互いが歩み寄れたら……これほど素敵な関係は、ないだろう」
大和の口から語られた理想の夫婦像というのは、幸のそれととても似ていて、万里は弾けたように顔を上げた。
「オレの両親が、そんな感じなんだ」
大和の顔には、幸せそうな笑みが浮かんでいる。
それを見て、万里は一刻も早く、幸にこのことを伝えたくなった。
しかし、幸の泣き顔を思い出し、気持ちが沈みこんでしまった。
「ま、閏がどう思っているのかは知らないが、大切にしろよ? 後悔しても、知らないぞ」
万里はそっと閏の顔を見ると、感情が分からない顔で大和を見ているだけだった。
鹿鳴館家は、日比谷家より規模が大きかった。正門も、屋敷も二回りほど大きいように感じた。
日比谷家は少し赤っぽい大理石を使っているようで屋敷の印象は赤かったが、こちらは白い石に彫刻が施された壁をしていて、その豪華さに圧倒された。
万里たちが乗った車が近寄ると、門が自動で開いた。門をくぐり、アプローチを通り抜ける。綺麗に整えられた緑が目にまぶしく、万里は目を細めた。
正面玄関に車が横付けされた。
「降りるぞ」
閏の声に万里は慌てる。降りる前に大和にお礼をと思い、口を開いた。
「お忙しいところ、誠に」
しかしすぐに閏に遮られた。
「忙しいんだ。そんな礼、する必要はない」
万里の横の扉が開き、背筋が凍るような言葉をかけられた。身をすくめ、促されるままお辞儀をするだけにとどめて車から降りて、閏の後を追いかける。
そんな二人を見て、大和は思わず、苦笑を浮かべた。
閏は玄関の前に立ち、立ち止まった。
「ここが鹿鳴館家の正面玄関となる。だが、俺たちは基本、ここから出入りはしない。後で教えるが、裏口から入ることになる」
閏はそれだけ告げると、玄関から中へ入らず、足早に外壁を伝っていく。万里は遅れまいと駆け足でついていく。閏は振り返らない。
どうして閏が万里にそんな態度を取っているのか。望まれてここに来たのではないのだろうか。幸を泣かせた報いなのだろうか。
万里は閏に聞きたくても、拒絶するような背中に声を掛ける勇気はなかった。
必死になって追いかけると、閏は万里に背中を向け、止まっていた。万里の気配を感じて、閏は口を開いた。
「ここだ」
少し駆け足で歩いたので、万里の息は切れていた。それを閏は一瞥しただけだった。
「俺たち使用人は、ここから屋敷に出入りする。裏門はそこになる」
閏の長い指の先をたどってみると、立派な門が見えた。とても裏門とは思えない。ここから少し距離があるのでよく分からないが、重厚な木造の門が見えた。
「門は内部から開けてもらわないといけない。が、ここの鍵と部屋の鍵は後で渡す」
「あ……はい。ありがとうございます」
閏は万里に視線を合わせることなく淡々と説明をすると、鍵を開けた。
「入れ」
促され、万里は中へと足を踏み入れた。
中は外壁と同じく、白い世界だった。壁は染み一つない美しい白壁。床も白い石が敷かれ、鏡のように反射していた。少し冷たい印象を受けるが、美しさに万里は思わず、息を飲んだ。
閏は硬質な音を立て、歩き始めた。万里も遅れを取らないよう、その背中を慌てて追いかけた。
日比谷家よりもさらに大きな屋敷で、右に曲がり、左に曲がりと廊下を通り抜け、大きな扉の前に案内された。閏に付いていくのに必死になり、道をまったく覚えられなかった。これでは一人で部屋から出ることが出来そうにない。
「隣は大和さまの部屋だ。無断で入らないように」
言われなくても、入る用事がない限り、入らない。
「キミにとっても不本意かもしれないが、部屋は俺と一緒だ」
鍵を開け、中に入るように促された。万里は一礼して閏の前を通り抜け、入った。
「こちらの鍵が裏口用で、部屋の鍵はこれだ。荷物はそこの端に置いている。クローゼットも用意してある。今日中にすべての荷解きを済ませろ。明日からおまえも大和さまの側で一緒に働くことになっている」
それだけ言うと出て行こうとした閏に、万里は勇気を出して声を掛けた。
「あのっ……!」
万里の呼び止める声に、閏は振り返った。
ようやく視線が合ったが、それは予想以上に冷たく、万里はかける言葉を失った。
それでも、合った視線を逸らすことが出来ない。どうしてここまで惹きつけられているのだろう。
そんな万里を見て、閏はなにを思ったのか。口元を歪め、突き刺すような視線で一つの宣言を出した。
「最初に言っておく。俺には一切、なにも期待するな」
「期待……?」
なんのことを言っているのだろう。万里にはまったく分からない。
「はっきり言わないと、分からないか?」
馬鹿にしたような口振りに、万里は眉をひそめた。
「何事も最初が肝心だからな。同じ部屋だが、指一本、触れない」
突きつけられたら言葉に、万里は唖然とした。
「え……」
どういうことなのだろうか。
「大和さまの命令で、おまえを娶った。それだけだ」
閏はそれだけ伝えると、万里の反応を見ることなく踵を返して、部屋を出て行った。
大きな音を立てて閉まった扉は閏との距離を表しているようで、胸が痛んだ。
大和の命令だったから。
閏からはっきりと言われた。
指一本、触れない。
……別にそんなことを期待していたわけではない。むしろ、そこまで頭が回っていなかった。
ただ、万里は──閏の側にいたいだけだ。
側にいることが出来る。
そう、万里の望みはそれだけだった。
大和だと思っていた人物は、実は大和の側近の閏だった。
今の万里はそれだけで充分だ。
優しくしてもらえなくてもいい。側にいるだけで、幸せだ。
閏の側にいたい。
その一心で、側にいてほしいと縋ってきた幸を振り払い、ここにきた。
万里は閏を利用しようとしていた。きっとそれを敏感に察した閏は万里にあんなことを言ったのだろう。
そうではないということは、時間が解決してくれる。
鈍い痛みを感じたが、気がつかなかったことにして、万里は荷物を片付けることにした。