『愛してる。』


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FragraNce*Lover09



     *   *

 奈津美は佐穂を連れ立って、いつも使っている部屋へと向かったようだった。
 蓮も田崎に立てるかどうか聞いて、そちらへ向かった。
 部屋に入ると、密室にあの濃厚な匂いが立ちこめていて、蓮は思わず顔をしかめてしまった。

 佐穂は奥の席に座っていて、その隣には奈津美がいた。
 田崎には佐穂の向かい側に座るように促し、蓮はその隣の椅子を引いた。あまりの匂いに頭が痛くなってきたので今すぐ逃げ出したかったのだが、田崎が座ったために蓮は仕方がなく腰を掛けた。

「今日は遅い時間に足をお運びいただき、ありがとうございます」

 奈津美のにこやかな声に、しかし、二人は反応しない。
 蓮は横目で田崎を見たのだが、前に打ち合わせをしたときと同じように俯いていたが、しかし、気のせいか、目元が赤い。
 一方の佐穂はというと、こちらは珍しくじっと田崎のことを見つめていた。

「キリマンジャロ……モカ……ブルーマウンテン……マンデリン……」

 ぼそりと佐穂の口から呟かれたのは、コーヒーの種類。

「今日のあのお店と同じ匂い……」

 これだけ強くて甘ったるい匂いをまといながら、田崎からするかしないか分からない匂いをかぎ取ることができるということに蓮は驚いた。いや、だからこそ奈津美は佐穂を信頼して、すべてを委ねたのだろうが……それでも驚いてしまう。

 佐穂の呟きに田崎はハッと顔をあげ、それから細い目のまま佐穂を見つめた。
 二人の視線が交わったのが分かった。

「奈津美さん」

 佐穂は田崎から視線を外さず、奈津美の名を呼び、続けた。

「あたし、この人と結婚するわ」

     *   *

 一目惚れ、という言葉がある。
 まさしく、一目見て恋に落ちるという言葉だ。
 だけど佐穂は一目惚れならぬ、一匂い惚れだったという。

 佐穂は週に何度か田崎のコーヒーショップに足を運んでいた。
 最初、どうしてこんなにもこのお店に惹かれるのか、佐穂は分からなかったという。
 だけどここに来ると、ハニーサックルの匂いがなくてもやっていけそうだという自信が沸いてきていたという。
 だから足繁く通っていたのだけど、ある日、いつものようにお店に行くと、あの落ち着く匂いがしなくて、別の店に来てしまったのかと思ったほどだったという。
 自分の鼻がおかしくなったのかと落ち込み、しばらくお店通いを辞めた。
 鼻がおかしくなったのなら、仕事は辞めなければならない──。
 そんな悩みを抱えていた頃、親からそろそろ結婚しろと言われ始めたため、渋々だが、日頃お世話になっている奈津美のいるフェアリー・テイルに登録した。

 佐穂はハニーサックルとともにずっとこの仕事を続けていくと信じていた。
 佐穂の自慢はどんな些細な匂いでもかぎ分けられる敏感な鼻だった。だけどそれが、なにがきっかけだったのか分からないけれど、駄目になった。自分の武器が使えなくなったということは、引退するときであるということなのだろう。
 親に言われるがまま、結婚して、仕事を辞めて専業主婦になる。
 自分の思い描いていた未来ではなかったけれど、鼻が効かなくなった自分に残された道はそれしかないとそのときは思い込んでいたという。
 そして──登録をして相手を紹介してもらったけれど、会うなり鼻がひん曲がりそうな臭いがする男で、我慢できなかった。
 そうして繰り返すこと五回。
 全員が駄目だった。

 鼻もおかしくなり、仕事が続けられない、だけど生きて行くにはお金を稼がなければならない。佐穂は自分の性格的に今の仕事以外は無理だと分かっていたから、親がすすめるように結婚しようと思った矢先に出会った男たちは、佐穂にとって受け入れがたい臭いをまとっていた。
 佐穂にとって、相手の見た目や性格はどうでもよかった。あまりにもよすぎる鼻のせいで、どれだけ優れた人物であっても、匂いが受け付けられなければ、佐穂にしてみれば「駄目な人」だった。
 奈津美を執拗に追いかけていたのは、奈津美の匂いが佐穂の好みだったからだ。
 そのことを奈津美に伝えたとき、複雑な表情を返されたのは今も佐穂は覚えている。
 自分のこの感覚はきっと共有できるものではない。だからこそ周りを威嚇するという意味もあり、佐穂はあえてハニーサックルを多めにつけていた。
 佐穂のこの匂いを受け入れてくれて、しかも自分が耐えられる匂いを持つ人物。
 そんな人、いるわけない。
 だからといって、仕事を辞めて、結婚もせず、実家に帰るという選択肢はなかった。
 両親でさえ、佐穂のことを受け入れてくれなかった。佐穂も両親の匂いは大嫌いだった。
 端からは滑稽に見えるかもしれないけれど、このときの佐穂は死活問題だった。

 弱り切っていた佐穂は、最後の望みとばかりに嫌々ながら母を呼び出し、そして久しぶりにお店に行き──落ち着く匂いに自分の鼻がおかしくなっていたわけではないことを知り、佐穂は自分の現状を淡々と知らせ、仕事に生きていくことを告げたのだ。
 田崎が聞いてしまったのは、佐穂と佐穂の母との会話の一部だったということのようだ。

 仕事に生きると決めたところ、奈津美から連絡を受け、佐穂はこれで駄目だったら仕事一筋に生きると奈津美に宣言しようとして……そして、田崎と出会った。

 佐穂はずっと不思議だったのだ。
 コーヒーショップに行けばいつも漂っている心落ち着く匂い。それはこのお店に置かれたコーヒー豆がよいからだと思っていた。だから気に入った豆を買って職場で入れてもらうのだけど、確かに他の店で買った豆よりはいい匂いだけど、お店で飲むときと匂いが違うのだ。
 淹れる人によって味が変わるというのは知っていたけれど、こうまで違うのだろうか。
 だから頻繁に通い、人の違いで味が違うのかと観察もした。
 お店でコーヒーを飲んでも、淹れる人によって同じ豆でも微妙に味は違ったけれど、味わいが深く、心が落ち着くのだ。
 店と職場となにが違うのか。
 その謎は謎のまま、佐穂は悩み……そして田崎と店の外で出会い、ようやくその答えを得ることができたのだ。

     *   *

 奈津美と蓮が手続きをというのを振り切って、佐穂は田崎の手を取るととっとと部屋を出て行ってしまった。

「佐穂さん、また来てね!」

 奈津美の叫びに、佐穂は少しだけ振り返り、小さくうなずいた。
 奈津美に対しては律儀な佐穂はきっと、田崎とともにもう一度、来てくれるだろう。
 そう確信して、ふたりを見送った。

 部屋の中には、ハニーサックルの濃厚な匂い。
 しばらく奈津美と蓮はあまりのことに呆然としていたけれど、先に正気付いたのは、蓮だった。

「……田崎さん、一度、お店で五十森さんに声をかけたようなんだけど、認識してもらえなかったとショックを受けていたよ」
「そう……だったんだ」

 奈津美は二人が最初から顔見知りであったことを知り、安堵のため息を吐いた。

「佐穂さんから、最近、鼻の調子が悪くてという相談は受けていたんだけど……先ほどの様子をみると、そんなこと、なさそうよね?」
「……あぁ」
「佐穂さんは田崎さんの勤めているコーヒーショップの常連さんってことでいいのよね?」
「……うん」
「仕事ばっかりしているみたいだから心配で、なにか息抜きでもしていると聞いたら、好きなコーヒーショップに通ってると聞いて、詳しく話を聞いたの」

 そうして奈津美は佐穂から聞いた話を蓮に伝えた。奈津美がすべてを話し終わった後、蓮は口を開いた。

「もしかして、田崎さんが休みの日だった……とか?」
「あー……。あり得るわね」

 蓮は昔、佐穂にどうしてそんなにきつくハニーサックルの匂いをさせているのかと聞いたことがあったのだ。
 曰く、これは自分を護る匂いなのだと言われた。
 その端的な言葉の奥になにがあったのか蓮には分からない。だけど、それが自衛の手段ならば、強く止めるようにいえなかった。
 香水は自分を護るものという言葉に、蓮も少なからず同意する部分があったからだ。
 人は様々なもので『自分』を表現する。
 それがファッションである人もいるだろう。言葉を著す人もいる。彼女にとって自分を表現するのは、匂いだったというだけだ。ただ、それが少し周りが不快に感じてしまうレベルであったので、疎まれる結果になっていたとしても、彼女がそれでいいと思っているのなら、注意をすることはできるが、止めることはできない。

 田崎は逆に、自分の存在感を気配を殺すことで消し去った。
 だけど。
 本当は佐穂と同じように主張したかったのかもしれない。
 それができなかったのは、周りの環境と本人の性格の問題でもあった。
 佐穂は逆に自分に気がついてほしくて、匂いで主張した、ということだろう。

 ある意味、二人は似た者同士だったということか。

「田崎さん、誠実そうな人だから、佐穂さんを安心して任せられそうね」
「……うん、そうだな」

 二人は未だに強いハニーサックルの甘ったるい残り香がある部屋でそんな結論を出した。

     *   *

 後日、奈津美の予想どおり、二人がそろってフェアリー・テイルに現れたのだけど、あの甘ったるい匂いがうっすらとしたものになっていた。
 別室であの後の報告を受けたのだけど、二人は驚いた。
 なんとフェアリー・テイルを出た後、すぐに婚姻届を出しに行ったというのだ。
 フェアリー・テイルで紹介して数か月で結婚をする人たちというのは中にはいたけれど、会ってすぐというのは最短ではないだろうか。

「え……うん、お、おめでとう……」

 さすがに奈津美もどう反応すればいいのか分からず、しどろもどろになっていた。
 田崎と佐穂は幸せそうに微笑みあうと、立ち上がった。

「紹介成立料の金額、教えていただけますか」
「あ、はい。あの、振込用紙をお送りしますから、送り先を……」
「あたしの登録住所にお願いします。厚二とはもう一緒に暮らしているの」

 急展開すぎてついていけない二人は、コクコクとうなずくことしかできなかった。

「それでは」

 と部屋を出て行こうとした佐穂を奈津美はようやく呼び止めた。

「佐穂さん!」
「……なにかしら?」
「……………………」

 とっさに呼び止めたけれど、奈津美はなにを言おうか悩み、それから首を振った。

「ううん、ふたりが幸せならそれでいいわ」
「うん、あたし、とっても幸せよ。それに仕事は辞めなくていいって言ってくれたし、厚二もコーヒーショップであたしを待ってくれているって言ってくれているの」

 佐穂の仕事を辞めないという一言に、奈津美は安堵していることを知った。
 佐穂はかなり癖のある人物であるが、奈津美は佐穂が創り出す香水が好きだったし、ずっと続けてほしいと思っていた。佐穂が仕事を辞めるときが『Lotus』をたたむときだと思っているほどだ。

「これからも続けたいと思っているので、よろしくお願いしますね」

 佐穂はそれだけ言うと、田崎の手を取り、幸せそうに部屋を出て行った。

《おわり》





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