FragraNce*Lover01
つけたての香水は攻撃的だ、といつも奈津美は思う。
朝起きて、朝食を作って食べた後、出勤するために着替える。以前は起きてすぐに着替えていたのだが、子どもが産まれてからその習慣が変わった。
今はもう大きくなったから問題ないのだが、二人が小さい頃はせっかく着替えた服を何度も汚された。それならば、朝起きた格好のまま朝食を摂り、片付け終わって出かける前に着替えた方が効率的ではないかと気がつき、それからというもの、朝食を食べて片付けた後に着替えるようになった。
着替え終わった後に、その日の気分によって香水をつけたりつけなかったり、つけるとしても何種類かをつけ分けているのだけど、つける度につけたての香水が鼻腔を貫き、攻撃的だと思う。
香水は性質上、つけてすぐが一番匂いが強い。徐々に揮発して空気にまじり、最後にはほんのり匂いが残るか、残らないか。
それはなんだか恋にも似てる、とも思う。
あぁ、そうかもしれない、と奈津美はひとりでくすりと笑っていたら、部屋に入ってきた蓮に目撃されてしまった。
「なにひとりで笑ってんだ?」
「ん、香水って恋と似てるなと思って笑ってたの」
説明もなくいきなり結論だけ述べても蓮にはそれで事足りたようで、呆れた表情を返されただけだった。
「だって、香水も恋も最初はすごく存在感が強いけれど、時間が経つにつれて慣れてくるというか、薄れるというか……」
「香水はともかく、恋は人それぞれだろ」
「……そうかもしれないけど」
「オレは未だに奈津美に恋してるけど?」
「……ふへっ?」
蓮の思わぬ言葉に奈津美は変な声を洩らしてしまった。蓮にとってやはりその反応は予想どおりだったというか、その反応をどうやら引き出したかったようで、おかしそうに笑った。
「まあ、奈津美への好きというか愛しているっていう気持ちは日々変化をしているけれど」
「やっぱり変わるじゃない」
「変わるけれど、愛情の強さは変わってないと思うぞ」
そう言われてみればそうなのかもしれないけれど、奈津美はなんだか納得がいかない。
「そういう奈津美はどうなんだ?」
「う……?」
「オレのこと、好き?」
そう言って蓮は妙に色っぽい視線を向けてきたばかりか、ぐいっと距離を縮めてきて、しかも腰に腕を回してきて瞳をじっと見つめてきた。
歳を取ったとはいえ、重ねられた歳による色香がますます感じられるようになった今日この頃の蓮にそんな風に迫られて、ましてや、未だに蓮のことが大好きな奈津美としてみれば心臓が破裂しそうなくらいどきどきしている。それはこれだけ密着していれば蓮にも分かっているだろうと思われるのに、蓮はそうやって聞いてくるのだから意地悪だ。とはいえ、きちんと好きと伝えないといつまでもこうやって抱きしめられていて、心臓が壊れてしまいそうだ。それに仕事に出掛けられない。
だから奈津美は真っ赤になりながら想いを口にした。
「すっ、好きに決まってるじゃない!」
嘘偽りのない言葉を告げたのに、蓮はなにか不満だったようで、離してくれない。
「気持ちがこもってない」
「なっ、なにをっ」
「離してほしくて思ってもいないことを言ってるだけじゃないのか」
そういって口角をあげて笑っている蓮を見て、この人、こんなに意地悪だったかなと奈津美はふと思う。
「本当にオレのこと、好き?」
「好きよ」
間髪入れずに返事をした奈津美に蓮はそれはそれはいい笑顔を返した。見慣れているとはいえ、奈津美は思わずぽやんとした気持ちになってしまう。そんなほんわかした気持ちでいると、蓮はそれはとってもいい笑顔でとんでもないことを口にしてくれた。
「それなら、オレにキスできるよね?」
「へっ?」
さっきからいつもとは違う行動を取られてすっかりパニックに陥っている奈津美だが、蓮は余裕綽々といった面持ちで奈津美をじっと見つめていた。
「なななな、なにをっ」
「幸いなことにまだ口紅を塗ってないみたいだし?」
「ぬっ、塗ってても塗っていなくてもっ」
奈津美がちらりと壁掛け時計を見たことで、蓮は察したらしい。
「あー、時間がないねー」
棒読みな蓮に、それなら早く離しなさいよ! と奈津美は心の中で思うのだけど、思ったことをそのまま言ったところで離してくれそうにないのは分かった。
分かったけれど、だからといって言われたとおりに自分からキスをするなんて、恥ずかしい。
「すっ、するからっ」
「なにを?」
本当に今日の蓮はいつもに増して意地悪だ。奈津美は知らないうちになにかしてしまったかしらと考えたけれど、分からなかった。
「ね、奈津美。なにをしてくれるの?」
いつもならこんなに執拗な意地悪をしないのに、今日の蓮は本当になにかおかしい。
「ね、蓮。私、なにかした?」
分からないから素直に聞くと、蓮は笑って首を振った。なにもしてないのにいつもはしない意地悪なことをしてくるのはどうしてだろう。
「奈津美」
「ん?」
「仕事が忙しくて愛を確かめ合ってないなと思ったんだ」
「んはっ!」
ただいま、朝の八時前。そろそろ本格的に準備をして出勤しなくては間に合わなくなる時間というのに、蓮はいきなりなにを言ってくるのだろうか。
「だだだだ、だって!」
「うん」
「そんなことしなくても、私は蓮のこと好きだし」
「うん、それは知ってる。オレも奈津美のこと、好きだよ?」
「……うん」
改めて言われると恥ずかしいようで、奈津美は蓮の胸元につけたばかりのファンデーションが付かないように注意しながら顔を埋めた。
「奈津美が変わらず好きでいてくれているのは態度で分かっていたけれど、でも、たまには言葉で確認したいなと思うのは、わがままかな」
蓮の質問に奈津美は小さく首を振った。
「ううん」
「……はー、失敗したな」
「なにが?」
「こんな質問をして困ってる奈津美がかわいくてもなにもできないのが。ああ、仕事が恨めしい」
「…………」
蓮はなにか悪いものでも食べてしまったのだろうか。奈津美は思わずそんなことを思ってしまった。
「奈津美からのキスは、今日の夜までお預けにしておくね」
「ふはっ?」
そう言って笑った蓮はいつも以上に妖艶な気がする。なんでこの人はこの歳になっても色気を振りまくりなんですか! と奈津美は心の中で叫んだ。
「それでは、仕事に行きますか」
「あ……うん」
蓮は奈津美のおでこにチュッとキスを落とすと、頬を優しく撫でて部屋を出ていった。奈津美はもう少しで腰を抜かしてしまうところだった。
「あの色気、反則」
その出来事で奈津美は蓮に言われた一言がすっかり吹き飛んでいたのだけど、それは蓮がねらっていたのか否かは分からない。