『愛してる。』


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初恋が登る坂【後編】



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「奈津美、自転車で下るの、好きだろ?」
「あ、なんでわかったの?」
 蓮の顔を意外そうに見ている。
「親父の気まぐれで出された柔道の試合の帰り道で奈津美が気持ちよさそうに自転車に乗ってるのを見たから」
「あー……」
 奈津美はなにか考えて、
「制服を着て、自転車乗っていたな」
「図書館に行った帰りかなあ。たまに休みの日に学校の図書館を利用してたんだよ」
 かなりの蔵書がある、という話を確かに聞いたことがある。
「あの図書館、好きだったなー。いろいろ面白い本があったし。あそこで先輩にあったんだよねー」
「先輩って……」
「うん、キス教えてくれた先輩」
 そういうことをさらっという奈津美に、蓮はたまにドキッとする。
「あのさ、奈津美」
「なに?」
 蓮はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「奈津美にとってその先輩は……」
「うーん。大切な人、そして……もう会えない人」
「!?」
 奈津美の表情に陰りがさす。
「高校卒業前に……交通事故で亡くなったの」
 蓮はショックを受けていた。
 いつか会って文句のひとつでも言ってやろうと思っていたのに。
「三月の冷たい雨が降る日で……。スリップした車に先輩、引かれちゃって。即死だったのが……せめてもの救いだったかな」
 泣きそうな顔をした奈津美を見て、一生勝てない先輩に心の中で文句を言う。
 ……だからなんで女相手に嫉妬してるんだ!?

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「え? 引っ越しの上に転校?」
 柔道の試合から数日後。
 食卓で親父から意外な言葉を言われた。
「蓮には……すまないんだが。葵の高校進学を考えて……。本当はもっと早くのタイミングで考えていたんだが……。住む家の交渉がなかなかうまくいかなくて、こんな時期になって」
 葵はそのたぐいまれなバイオリンの才能を早くから認められていて、両親が結構無理をしていい先生につけて習わせていた。
 あとは……彼の……というか、彼女にも少し問題があり。
 たぶんそのこともあって、リセットした状況で高校生活を送らせたいと思ったのだろう。
「いいよ。オレ、まだあそこの学校に友だちいないし」
 中学入学から二か月近く。
 すでに固定の友だちの輪ができていたが、オレはどこにも所属していなかった。
 特にさみしいとか孤独は感じていなかったが、なんとなくどこの輪にも入れなかった。
 クラブも入ることなく。
 楽しみはあの少し変わったおねーさんの自転車を毎朝押して坂道を上がるくらい。
 あのおねーさんに会えなくなるのはかなり淋しいけど。
「入学から二か月経ってまだ友だちもいないとは……」
 オレの言葉に親父は嘆いた。
「ちょうどオレ、あそこの学校のカラーに合わないと思っていたから」
 オレは笑い、ご飯を食べ、食器を片づけ始めた。

 母は……オレが大きくなるにつれ、少しずつ壊れてきていた。
 小学校高学年になり、とうとう本格的に壊れてしまい、毎日酒におぼれる毎日。
 親父は柔道、葵はバイオリンとふたりともそれぞれに没頭しすぎて……。
 なにもないオレは……勉強に明け暮れた。
 しかし。
 だれも家のことをしないから……家の中は荒れた。
 葵に家のことをさせるわけにもいかず。
 かと言って親父はまったくなにもできず。
 残ったオレが、家のことをすることになった。
 家のことをやってみると、これが結構楽しくて。
 朝ごはんを作り、ついでに弁当も作り。
 学校帰りにスーパーに寄って買い物をして、夕食を作る。
 洗濯ものも家の掃除も全部オレ。
『いつでも嫁にいけるな』
 という親父の冗談にオレは本気で腹を立てたが、怖くてそんなこと言えない。
 母はそんなオレを見て、ますます壊れる。
 オレ……生まれてきちゃだめだったのかな。
 たまにそんな思いが脳裏をかすめる。
 親父は柔道、葵にはバイオリン。
 オレには……なにもない。

*******************

「ねーさんの高校の関係でオレ、三か月で転校したんだ」
「そうだったんだ。そう言えば、あれだけ晴れの日は毎日見てたのに、ピタッと見なくなったから飽きたんだと思ってたんだけど」
 奈津美は最後の日と思われる日を思い出した。
「それで……『もう会うことないよ』と言ってたのか」
 少しさみしそうに……泣きそうな顔して笑っていた顔を思い出した。
「あの時ちょっと違和感を覚えたんだけど、正直、ほっとしてた」
「ひどいなー」
「だって毎日、追及されてたのよ? 私の身にもなってよ」
 みんなのアイドルがなぜか奈津美にちょっかいを出しているんだから、それはもう、ファンはたまったもんじゃない。
「でも……今思い出してみたら、あれがオレの初恋だったかな……」
「嘘だー。蓮なんて、小学生のころからもてもてだったでしょ?」
「うん、かなり」
 蓮の正直な言葉に奈津美は顔をしかめた。
「うっわー。やっぱり嫌なヤツ」
「嘘言っても仕方がないだろう」
「そうだけどさー。謙虚さってものはないの?」
「残念ながら、持ち合わせてない」
 奈津美は苦笑した。
「でも……いつも向こうからばかりだったから、こっちから行ったの、後にも先にも奈津美だけだな」
「その割には、なんか慣れてたよ?」
「そうか? 奈津美とは違って、女と話すのは慣れてるからじゃないか?」
 奈津美はむっとした顔で蓮を見た。
「男嫌いで悪かったわね」
「なにかきっかけ、あったの?」
「男嫌いの? ないよ。別に痴漢にあったとかないけど。あえて言えば、『嫁にはやらない』というのが男嫌いの原因かなあ」
 ああやはり、あれは呪い以外の何物でもない言葉だな、と蓮は思った。

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 引っ越しと転校話は急に決まったこともあり、ばたばたとあわただしかった。
 壊れた母の扱いが一番大変で、蓮は疲れていた。
 毎朝の自転車押しだけが楽しみで。
「あのさ」
 いつも校門の前で「ありがとう」と振り向かずに言う彼女が今日は珍しくこちらを見て、口を開いた。
「もう自転車押すの、やめてくれない?」
 その表情は、かなり決心して口を開きました、という顔をしていた。
 オレは少し笑った。
「もう会うことないから。ありがとう」
 オレは少し泣きそうになった。
 あの学校に行くのは、今日で最後。
 今日が晴れてよかった。
 最後に自転車を押すことができて……こうして顔もゆっくり見ることができたから。
 オレは少しなごり惜しかったけど、これ以上顔を見ていたら泣きそうだった。
 オレはがんばってにっこり笑って、後にした。

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「で、今のあの家に引っ越して。オレは近くの公立中学に編入」
「葵さんは?」
「ねーさん? ねーさんは音楽大学付属の高校に入るために中学から編入して。そのまま高校、大学と音楽学校だったよ」

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 引っ越しをして、新しい環境に慣れるまで、かなり時間がかかった。
 母の症状はひどくなるでもなく、治るでもなく。
 引っ越しして悪化しなければいいけど、と思っていたから、それだけはほっとしていた。
 相変わらず家のことはオレがやっていたけど、学校帰りに寄る商店街の人たちがみんな親切で、オレにはそれが、救いだった。
「蓮には苦労ばかりかけさせて、すまない」
 と親父は事あるごとに言うけど、こんな自分でも役に立っていると思ったら……そんなにつらくなかった。
 親父は家の隣の敷地に道場を開き、毎日楽しそうに稽古をしている。
 門下生もそれなりに増え、収入も安定してきた。
 葵も学生ながらにプロデビューした。
 気がついたら……母もだいぶ落ち着いてきていた。
「蓮、やりたいことがあるのなら、遠慮せずに言ってね?」
 そんなことを葵に言われた。
「ないよ、やりたいこと」
「わー、いい若者なのに、夢がないなぁ」
 葵は苦笑している。
「葵はあるのかよ?」
「わたし? あるよ」
 葵はにっこりと笑い、
「わたしのバイオリンでいろんな人を幸せにしたい」
 そう言った葵の笑顔は……本物の女の子のようだった。
 “兄”ではなく“姉”だな……。
 オレがそう思ったからか。
 母はそれから、劇的によくなってきた。
 お酒におぼれることもなく、少しずつ、家のことをやってくれるようになってきた。
 そうなるとオレはやることがなくなった。
 たまに親父の道場で稽古をつけてもらっていた。
 大学には行きたいとは思っていたけど、うちの経済状況を考えたらそれは無理なのがわかっていた。
 国立だと安く済むから、という理由で勉強を頑張った。

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「え? それだけの理由?」
「うん。あとは飛び級したらその分、学費が安くなるからってだけで」
「うわー。なんかものすごくもったいない頭の使い方をしてる気がする」
「だからいつも言ってるじゃん。みんなオレのことをかいかぶり過ぎって」
 奈津美は苦笑する。
 自分の下で働いているのも、ものすごくもったいないのに、自分を過小評価しすぎだと思う。
 周りの人たちがすごすぎて……蓮は自分のことをきちんと見られてないのではないかと思う。
「蓮は自分のことを過小評価しすぎでしょ」
「そんなことないぞ。身の丈を知ってるんだ」
 いやいやいや、それはないから!
 と奈津美は心の中で突っ込みを入れる。
「それに……。奈津美がきちんとオレのことを見てくれているから。それだけで充分」
「あー! もったいない!」
「もったいなくない。オレは奈津美のもの。もったいないと思うのなら、オレを好きに使えばいいだろう」
 だからそれがもったいないって思ってるんだって! といくら言ったところで、きっと蓮はわかってくれない。
 でも……だからと言って、手離さない。
 絶対それは無理!
「蓮って意外におバカ?」
「あ、それは新しいな。奈津美がそう思うのなら、そうかもね」



 蓮は奈津美に軽くキスをする。
「蓮があのときが初恋って言うのなら……。私もそうだったのかも」
「……え?」
 意外な言葉に蓮は目を見開く。
「うん。実は、毎日楽しみにしてた。特に会話があるわけでもなかったけど。あそこの坂道、結構自転車押して登るの、しんどくって」
「普通に歩いて登るのもしんどいって」
 蓮は奈津美がそう思っていてくれたのが、うれしかった。
 不器用で……なんとなく今までの自分にはない行動に……恥ずかしくて、でも大切にしまっていた想い。
「まあ、こうしてめでたく結ばれたことですし。『初恋は実らない』っていうけど、見事に実ったってことか」
「意外だねー。両想いだったんだ」
 淡い淡い想い。
 そんなお互いの想いを知って……。
「奈津美、愛してる」
「私も。愛してるよ」
 唇と唇を重ね合い、お互いの瞳を見つめ合い、幸せそうにふたり、笑った。




【おわり】






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