“赤い糸”なんて裁ち切れ【前編】
「ごめん、迷子になった!」
奈津美は携帯電話片手に、走っていた。
『どこにいるのよ』
電話の向こうには呆れたような美歌の声。
「あー、えっと」
奈津美は周りを見て、目印になりそうな建物を告げる。
『奈津美、反対方向』
美歌の声に奈津美は焦る。
「げ、まじで?」
奈津美はきれいにUターンをして、走り始めた。
『焦らなくていいからね?』
と美歌は言ってくれているけど。
久しぶりに会う美歌とはたくさん話をしたい。
奈津美はともかく、美歌には子どもがいるから、前のように会っていつまでも話していられない。
奈津美は走る。
が。
「どこよっ!?」
奈津美は再度、美歌に電話をかける。
「今、言われたコンビニの前の辺りにいるんだけど」
『そのまま直進。しばらくしたら目的の建物が見えるから。左手に黒い入口があるよ』
奈津美は美歌に言われるままに歩き、ようやく目的の建物を見つけた。
黒い入口?
……これ?
よく見ると、小さくentranceと書かれている。
おしゃれなのはいいけど、分かりにくいっ!
扉の前に立つと自動で開く。
中に入るとエレベーターホールで、あとはなにもない。
エレベーターに乗ると一階と二十階しか押すボタンがなく、二十と書かれたボタンを押す。
エレベーターは音もなく昇り、静かに開いた。
エレベーターを降りると、美歌がすぐに奈津美に気がつき、足早に近寄ってきた。
「美歌ー、会いたかった!」
「奈津美~」
結婚式の時に会ったものの、ばたばたしていてあまり話せなかった。
美歌の髪は、ばっさりと切られてセミロングになっていた。
「髪、切ったんだ」
奈津美は残念そうに美歌の髪を見た。
「うん。すっきりしたでしょ?」
「なんか、淋しい」
「子どもがいると、髪の手入れが大変で。奈津美の結婚式が終わったから、思いきって切っちゃった」
美歌はふふっと笑った。
「それよりも、早く食べよっ! あたし、お腹空いちゃった」
美歌は奈津美の背中を押して、レストランへ入った。
「予約していた佳山です」
奈津美はスタッフに話しかけた。
「佳山奈津美さまですね。お待ちしておりました」
スタッフは手にしたファイルを確認して、奈津美と美歌に頭を下げた。
「お席にご案内いたします」
にっこりと笑いかけられ、奈津美も微笑み返した。
席に案内され、メニューを渡された。
「前菜とデザートはブッフェ形式になっております。メインディッシュはこちらの品から一品、お選びください」
奈津美と美歌はメニューを見て、それぞれ注文した。
「前菜とデザートをご案内いたします」
スタッフに案内され、ふたりは後ろを着いていく。
「こちらは有機野菜でございます。お好みでお取りください。こちらには肉類がございます。あちらの奥は、デザートになっています。ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
奈津美と美歌はきゃっきゃと楽しみながら、置かれている野菜をお皿に取る。
ドレッシングも珍しいものが多くて、迷う。
ふたりは案内された席に戻り、持ってきたサラダや肉を食べる。
「美味しいっ!」
奈津美は料理を口にして、喜ぶ。
「うん、美味しいね」
美歌もにこにこと食べている。
食事をしながら他愛のない話をして、ふたりは盛り上がる。
デザートもしっかり食べて……。
「おなかいっぱいで動けない!」
「奈津美、食べすぎでしょ」
「つい欲張ってデザート全種制覇しちゃった」
幸せそうな顔で奈津美はにこにこしている。
お会計を済まして、すぐには動けないという奈津美のために、ふたりは全面ガラス張りの窓のそばに置かれたソファに座る。
ここからは赤いシンボルタワーがよく見える。
「今日はほんと、お天気いいね。タワーがよく見える」
奈津美は眩しそうに外を見ている。
「奈津美、新婚生活はどう?」
「もう入籍して一年経つから、新婚じゃないよ~。でも、毎日楽しいよ」
奈津美の返事に美歌は微笑む。
「良かった」
美歌の意外な言葉に奈津美はびっくりしてタワーを見ていた顔を美歌に向けた。
「美歌……?」
「あたし、貴史と結婚したこと、ずっと後悔してた」
美歌はさっきまで奈津美が見ていた赤いタワーを見たまま、微笑んでいた。
「もうひとりの彼と……どうしても別れられなくて。でも、貴史に強く求められて……プロポーズされて……断れなかった」
奈津美はどう返事をすればいいのか悩んだ。
ぽつぽつと奈津美たちと同じように食べた後にそれぞれがソファに座ってくつろぐ人たちがいる。
かすかに聞こえる話し声、人が行き来するざわめきが心地よいBGMとなって空間を彩っている。
窓からはやさしく光が差し込み、とても居心地のよい空間になっていた。
「奈津美」
美歌は赤いタワーから視線を外し、奈津美を見た。
その顔からは微笑みは消えていた。
「ごめんなさい」
「えっ!?」
美歌は頭を下げた。
「み、美歌?」
奈津美はかなりうろたえた。
「あ、いや。あのさ、美歌」
なかなか美歌は頭をあげようとしない。
「美歌、あのね」
奈津美はなにから話せばいいのか考えて、
「とりあえず、頭あげて。話しにくいから」
美歌がのろのろと頭をあげたのを確認して、奈津美はまた、赤いタワーに視線を泳がせた。
「美歌、確かにあの時……美歌と貴史のことを恨んだけど」
美歌に視線を戻し、
「私ね、あれは蓮に会うための試練だったと思っているの」
「試練?」
美歌は少し首をかしげた。
「試練って言うとなんか変だな。……適切な言葉が出てこないんだけど」
奈津美は雲ひとつない青空に視線を向け、しばらく悩んで、少し挑むようないたずらっ子のような表情で美歌を見て、
「美歌は“運命”を信じる?」
「“運命”?」
奈津美の意図がやはり読めなくて、美歌はさらに首をかしげた。
「そう。“運命”。“赤い糸”でもいいよ」
「信じているよ」
奈津美は美歌の言葉に微笑んだ。
「私は、信じてない」
「え……」
美歌は奈津美の顔を見つめた。
「あらかじめ決まった人生なんて、楽しくない。この先になにが起こるか分からない。だから人生、楽しいんじゃないのかな?」
「そう……ね」
美歌はなんとなく同意した。
「例えば、自分の“赤い糸”が見えていたとする。美歌は手繰り寄せてその先がだれに繋がっているか、確認する?」
「たぶんする」
「私は……その“赤い糸”、切っちゃうと思う」
美歌はギョッとする。
「そんなもの、くそくらえよ。私の人生、わけの分からないもので決めないでほしい。自分の人生だもん、自分で決めるよ」
奈津美の答えに、美歌は笑うしかなかった。
「奈津美らしいわ、それ」
「そう?」
奈津美はにっこりと笑い、赤いタワーにまた目を向ける。
「私ね、美歌と貴史に感謝してるの」
「え?」
美歌は予想外の言葉に戸惑った。
「貴史に振られて、私は蓮に会えた。感謝しかないよ。だから、美歌が謝るのは筋違い」
「でも……」
「“運命”も“赤い糸”も信じない。だってそう考えないと、美歌はわけの分からない“運命”とかのせいで、貴史と結婚したの?」
奈津美は赤いタワーからゆっくりと視線を移動させて、美歌を見た。
「“運命”のせいにするのは、簡単だよ。あらかじめ決まっていたから、美歌は私から貴史を奪ったの?」
「違っ……」
奈津美は真剣な瞳で美歌を見つめた。
「美歌は自分の意思を持って、貴史のプロポーズを受けた」
「……うん」
「私、すごく意地悪でひどいことを美歌に言ってる。“運命”だから仕方ないよ、って言った方が、お互いに心地よいんだよ」
美歌は赤いタワーを見た。
奈津美の顔を見ることができなかった。
「“運命”の前には、自分の意思は無力だよね。私、そんなの嫌なの。私が今ここで話して悩んで選んだことは……あらかじめプログラムされたものなら、私はなに?」
奈津美は少し間をおいて、
「『人生』って名前の舞台なら……私はそんな台本、いらない」
奈津美は少し微笑んで、
「だってきっとね、そんなつまんない台本だったら……。私と美歌、今こうやって話をしてないと思うのよ」
美歌はその言葉にはっとした。
「美歌は今、幸せ?」
美歌は少し考えて、
「……うん。育児は大変だけど、これが幸せなのかな、って最近ぼんやり考えてるよ」
「うん、私も幸せだよ。だから……それでいいんじゃないのかな?」
美歌の瞳に涙があふれた。
「み、美歌!?」
「……ずっと苦しかったの。奈津美のこと……ものすごくぼろぼろにして……でもあたし、幸せを感じてて……。人を踏みにじって得た幸せが……こんなにつらいものなんて、思ってなかったの」
美歌の中の気持ちが、堰を切ったようにあふれてくる。
「ごめんね……ごめんね、奈津美」
奈津美は美歌を抱き寄せて、背中をとんとんと叩く。
「今日は……泣きたいだけ泣いて。涙と一緒に嫌な気持ちと私への後悔を流しちゃおうよ」
美歌は顔をあげて、奈津美を見た。
奈津美は微笑んでいた。
「美歌は……ずっと苦しんでいたんでしょ? 美歌がそうやって苦しんでいる間……私は何食わぬ顔をして、蓮と幸せにやってたんだよ? だからね、お互いさまなんだよ」
美歌はその言葉に……ああ、奈津美にはかなわないな、と思った。
奈津美は美歌が泣きやむまで、ずっと抱きしめていた。
「なんか、蓮の気持ちがちょっとわかった」
ようやく泣きやんだ美歌を見て、奈津美はくすりと笑った。
「奈津美って……こんなに男っぽい性格だった?」
「うーん……。姫を守らないといけないからねぇ……」
美歌は目を丸くした。
「姫って……だれ?」
「蓮だよ。本人に言うとすっごく怒るんだけどさ、勇敢なお姫さまなの」
美歌は蓮の顔を思い出していた。
……長いまつげに切れ長の目で、かっこいいってよりかわいい顔をしていて。
「勇敢なお姫さま……言い得て妙だわ」
「かわいい顔して口が悪いし。三つ下のはずなんだけど、なんか向こうの方が年上っぽい感じもするし。おかんだし」
「あの……奈津美さん、それって褒めてるの?」
奈津美は意外そうな顔をして、
「え? 悪口に聞こえた?」
「いや……。のろけるにしても……なんかもっと別の言い方ってものがありませんか?」
「一緒に働くと、わかるよ」
奈津美はそう言ってくすくすと笑い、
「ねえ、美歌。お願いがあるんだ」
そういう奈津美が妙に色っぽくて……。
美歌は同性のはずなのに、変にドキドキしてしまった。