たゆたう淡泡とゆらめく陽炎【晴れない心】
それから数日後、遺体の鑑定が済み、あの四人で間違いないという連絡が兄貴の元に入ったようだ。その話を携えて、兄貴が俺の部屋へと訪れていた。
「改めて、今回はご苦労さま」
「ほんとだよ……。さんざんな目にあった」
ひどい死体を見た上に焼け死ぬかと思った!
「岩井と若宮の死体はほんっと、ひどかった」
俺は思いだし、ぞっとしていたら、兄貴に視線を逸らされた。ちっ、普段は率先して見るくせに、そういう時だけそらすのかよ。
「潤哉は指名手配が出てるって?」
「出ているが、もうすでに本人は日本にはいないよ。とっくにどこか違う国に行っているようだ」
国外逃亡か。意外にあいつもヘタレだな。俺と気が合うようなヤツだから、仕方がないか。
「潤哉は崖から落ちて死んでしまったと思っていたから、生きていてくれて……良かったよ」
俺は正直な気持ちを口にした。
「睦貴」
兄貴がものすごい真面目な表情で俺を見ている。
「おまえ……もしかして、結婚がダメになったのも、特定の彼女を作っていないのも、実は男が好きで……?」
「わっ! なんてことを! それは違うってのは兄貴が一番よく分かってるだろう!」
なんという誤解を!
「いやいや……。そういえば高校の文化祭で女装をしていたよな。舞台写真を何枚か撮っているんだが、あれを文緒に見せてやろうかなぁ」
意地の悪い笑みを浮かべた兄貴がそこにいて、俺は必死になってそれを阻止する。
「お兄さま、ご勘弁を! それだけは……! それだけはお許しを!」
「なるほど。あれは睦貴の弱みなのか」
となんだかとってもうれしそうに兄貴はにやけている。
しかし、そんなもの、いつの間に撮っていたんだ!
「あの時の写真、裏で飛ぶように売れていたらしいぞ」
「なんだって? 兄貴! 俺で商売をしていたのか!」
「俺はそんなことはしていない。俺が撮ったのは大切に保管してある。見るか? 他の人間が撮った写真が結構な高値で取引されていたと小耳に挟んだぞ」
十数年経ってからそんな話、知りたくなかった……!
「そうそう、ビデオにもきちんと撮ってあるぞ」
なんだ、この馬鹿親ならぬ、馬鹿兄貴。
「見るか?」
「見ません! そんなもの、廃棄してくれ!」
「それは残念だ」
ほんと、勘弁してくださいよ。
俺は気持ちを落ち着けるために冷蔵庫まで歩いて行き、中から冷えた水を取り出し、コップについだ。
「俺もほしい」
兄貴にお願いされ、別のコップに注いで渡した。
「ありがとう。……さて」
兄貴は半分ほど水を飲み、真面目な表情で俺を見る。
「警察が事情聴取をしたいと申し入れしてきた。もちろん、受けると答えておいたから、頼むな」
「……ああ」
面倒だなとは思ったが、あれだけの事件だ、仕方がない。
「潤哉があの四人を殺したんだ……」
その事実を認識する度、昏い気持ちになる。
「だけど、潤哉のあの気持ちと行動、俺には痛いほど分かったんだ。もしも誰かのせいで俺の大切な人が死んでしまい、だけどその相手はそのことをなんとも思わずにのうのうと生きていたら……」
「大切な人……、それは文緒か?」
兄貴にそう聞かれ、俺は答えられなかった。
『大切な人』と口にしたとき、思い浮かべたのは確かに文緒だった。
文緒は俺にとってはかけがえのない人。だけど、俺の物になるはずもなく、そのうち側からいなくなる人間。いくら大切でも文緒は『娘』で、俺ではない男と結婚して、新しい家庭を持つことになるのだ。
「文緒は将来、俺の元から離れていくから……」
俺の言葉に兄貴はなにも言わない。
「潤哉に『やり返したからって生き返るわけでも元に戻るわけではない』と叫んだが、生きていることが許せないという気持ちがあるのを知って、そしてそれに同意してしまった」
そう思ってしまった俺は、潤哉と同じだ。
潤哉と俺との違いは、大切な人を失ったか否かの差だ。
「潤哉と同じと言うが、その差は大きいぞ。おまえは罪を犯してない」
「だけど、潤哉を止めることができなかった!」
「睦貴、そこは違う。他人がいくら言ったところで、それを聞かなかった本人が悪いんだ。おまえが罪の意識を持つのは間違っている」
兄貴はそう言ってくれたが、親友を止めることが出来なかった俺は……。
頭の上に重みを感じ、驚いて顔を上げたら、優しい笑みを浮かべた兄貴が俺の頭をなでていた。
「大切な人を失う──そんなこと、これから先もあり得ない。俺がおまえたちを守るから」
頭を優しくなでられ、俺は不覚にも泣きそうになってしまった。涙が出そうになるのをこらえて、俺は兄貴に感謝の気持ちを口にした。
「……ありがとう、兄貴」
唇をかみしめて視線をあげると、兄貴はさらに笑みを深め、楽しそうに笑っている。
「そうだ。今回の報酬はなにがいい?」
突然そんなことを言われ、俺はとっさに
「車がダメになったから……車がほしいな」
とつぶやいていた。
「うわあ、油断した! 思わず本音が!」
と慌てたら、兄貴はおかしそうに笑った。
「よほど車がなくなったのが悔しかったんだな。いつもなら遠慮するのに、今回は話が早くてよかった。気に入ったのがあれば、買うといい」
兄貴はそれだけいうと、俺の髪の毛をかき混ぜてから
「ごちそうさま!」
と水を飲み干して部屋を出て行った。
……兄貴、なにこの嫌がらせ。
俺はため息をつきつつ、髪の毛を整え直した。
事件はこうして終わりを告げた訳だが、どうにも俺の心は晴れなかった。
唯一喜んでいいことは、潤哉はまだ生きていたということだ。
しかしそれも単純に喜んでばかりいられない。
潤哉は文緒を必ず手に入れると言い切っていた。
ダメだと潤哉には言ったが、俺にはそんなことを言う権利はない。
そして俺は、いつかおとずれる文緒との別れに恐れながら、その側から離れられずにいたのだ。
【The End】