アザミが見た夢《出会い》
四月。
今年は暖かくなるのが例年よりも少し早かったため、桜はすでにほとんどが散り、葉桜になりかけていた。それでも未練がましくしがみついているピンク色の花びらが、春だというのを主張している。
少し歩きたいからと学校の手前で車を止めてもらい、俺はのんびりと歩いていた。
私立悠木(ゆうき)学園高等部。
この春から通うことになった学園だ。創立はかなり古く、伝統校としても名前が通っている。勉強もかなりハイレベルで、しかも運動部はインターハイ常連校らしい。
所々が補修されている、歴史を感じさせる赤レンガで出来た外壁を見る。その壁の向こうに葉桜交じりの桜がちらちらとのぞいている。もう少し早い時期だと、ここの空気はあの桜色に染まっていたのだろうというのは容易に想像ができた。
俺はぐるりと外壁を歩き、学園の入口にようやく到達することができた。
入学試験のときに一度来ていたとはいえ、俺なりに緊張をしていたのもあり、あまりよく見ていなかった。なので改めて、校門越しに敷地内を見る。
正面にはロータリーがあり、右側は講堂と図書館になっている。図書館の蔵書はかなりの冊数だと聞いているので、行くのが楽しみだ。左手側は手前が体育館でその隣が更衣室とプールになっている。
その奥の右側が建て替えたばかりという中学部の校舎、左側は高等部の校舎で、こちらも数年前に建て替えていて、設備はなかなか良いようだ。俺はこちら側で学ぶことになる。校舎は五階建てで、中学と高等部の教室配置はほぼ一緒のようだ。一階が玄関となり、脱靴場と靴箱がある。そこを通り抜けて中に入ると、正面が階段になっている。その手前を左へ曲がると職員室、反対側が調理室と被服室が隣り合わせになった家庭科実習室になっている。二階から四階が教室になっていて、下から三年生、二年生、一年生となっている。五階は音楽室をはじめとした実習室がある。屋上にも出ることが可能になっていて、お昼はご飯を食べる生徒でかなり賑わっているという。中学部と高等部の校舎の間には屋根付きの通路があり、その奥は校庭になっている。
登校時間ということもあり、次から次へと俺と同じ制服に身を包んだ生徒たちが吸い込まれるように中に入っていく。俺もその流れに乗るべく、踏み出した。
「タカヤ! 待てよ」
校門をくぐった瞬間、名前を呼ばれた。中学の時でも滅多に呼ばれることはなかった、苗字。中学からこの高校に入学するのは、俺一人のはずだ。だから呼ばれるはずはないと思ったものの、驚いて振り向いた。予想通り、どうやらその呼びかけは、俺に向けてではなかったようだ。
後ろには、ひときわ賑やかな集団。
たくさんの男子生徒の間にいる、一人の男。少し派手な顔に華やかな空気。茶色の髪が風になびいている。桜の花びらがその髪の上に一枚、落ちた。
その集団は、俺の横を通って講堂へと入っていった。
これが俺と空知喬哉(そらち たかや)との出会いだった。
× × ×
中学校時代。
母がすすめる私立中学の受験にわざと落ち、公立の学校に通っていた。
この頃から母の言いなりになることに反抗するようになっていたような気がする。
反抗期ではあるのだが、母は自分から俺が離れていく焦りから──快楽を教えられ、流されるままになっていた。
このままではいけないと分かっていながら、『オンナ』を初めて知った俺に抗えるわけもなく、しかしもがき、周りを巻き込み──泥沼な状態で中学を卒業した。
元々、高校はここに入ろうと思っていた。高校受験をして合格証が届いたときにはほっとしたことを昨日のことのように思い出す。そしてここには、半ば逃げるように入学した。
ここならば男しかいない。中学の時のような泥沼の関係になることはない。
新しい環境は、俺のことは『高屋』ということしか知らない。
心機一転。
そしてもう、あんな気持ちを感じたくなくて、俺は他人を遮断した。
関わってほしくない。
他人と線を引き、だれとも関わらないようにしよう。
俺はそう胸に秘め、高校に入学した。
入学式が終わり、それぞれの教室へと移動した。俺は新入生代表の答辞を終え、ぐったりしていた。緊張はしたがかむことなく、用意していた文章をよどみなく読み上げることができて、満足していた。
にぎやかな声が教室に近づいてきている。俺は伏せていた机から顔を上げ、声がする方向へと顔を向けた。
そこには、校門のところですれ違ったあの華やかな男がいた。
そいつは教室に入ってきて、黒板に書かれた席順表を眺め、俺の目の前に座った。
黒板の席順表によれば、空知という苗字のようだ。空知といえば、スカイグループを思い出すのだが、親族なのか? 空知なんて珍しい苗字だから、十中八九、そうだろう。
前に座った男はたった今、座ったばかりだというのに立ち上がり、振り返って反対向きになって背もたれを前にして座りなおし、俺をじっと見る。
「新入生代表の答辞を読んでいたヤツか。すごいな、あの試験でトップを取るなんて」
話しかけられるとは思っていなかった俺は、面食らい、男の顔をまじまじと見た。
一重の切れ長の目に長めのまつげが彩っている。その奥にある茶色の瞳には揶揄の光が見えた。こういう反応には慣れているので、
「そうでもないよ」
と返す。謙遜でもなんでもない。母の束縛から逃れるためには、勉強をするしかなかった。勉強をしている時は関わってこない。必然的に
「勉強はできる」
人間に育っただけだ。
「さすが高屋の次男坊ってことか」
予想通り、こうやって絡んでくる人間がいた。
この高校は……というより、この学園は中高一貫教育を標榜している。俺のように高校から編入してくる人間はいるが、少数でしかもかなりの学力が必要とされる。コネで入ることはできない。そこもこの学園に通う者たちの
「誇り」
でもあるのだ。
内部生も中学から高校に上がる際にも正式な試験があり、それに合格しなければ上がってくることはできない。形だけではないので、かなりの人数が振り落とされるという話だ。
「オレがトップだと思っていたのに、同じ『タカヤ』に抜かされるとは、どんな皮肉なんだか」
同じタカヤ?
質問をしようとしたら、教師が入ってきた。席に着くように促され、全員、大人しく座った。
「出欠の確認をする」
壇上に上がった三十台半ばと思われる男性教諭は、どうやら担任のようだ。
教室内を見ると、みっしりと男ばかりが並んでいる。かなりむさくるしい。
分かっていたことだが、男ばかりで三年間か。少しだけげんなりする。
しかし、中学のときの男女共学でさまざまなトラブルがあったことを思えば、男ばかりのほうが気が楽であるのは確かだ。
「空知喬哉」
「はい」
「高屋睦貴」
「はい」
なるほど、同じ『タカヤ』ね。
壇上の教師は全員の名前を読み上げた後、俺の方に視線を向ける。
「タカヤ続きとは、面白いな」
「センセ、これでもうオレたちの名前、覚えたよな」
軽口を叩く空知に視線を向ける。
「で、センセ、提案が」
茶色い頭が揺れ、ひらりとピンク色のなにかが落ちる。俺はそれに視線を向ける。ああ、校門のところで頭に乗っていた桜の花びらか。
「タカヤだとオレなのか後ろの睦貴くんなのか分からないから、オレを喬哉、彼を睦貴と呼ぶのはどうでしょうか」
苗字ではなくて名前を呼ばれ、驚いて顔を上げた。
「あ、どうせならこのクラスだけ、苗字じゃなくて下の名前で呼ぶようにすればいいのでは?」
空知の提案に全員が唖然とする。
「ほらオレ、外部から来たから、一刻も早くみんなと仲良くなりたいんだ。下の名前で呼んだら、なんだか親密度がぐっと上がったような気がしないか?」
俺と一緒で外部受験組なのか。
「いいんじゃないのか?」
という賛成の声が上がってきた。
「そうだな、そういうルールを取り決めしておけばどちらを呼んでいるのか分かりやすいな」
担任は反対意見がないことを確認して、空知……喬哉の案を採用した。
「ということで、よろしくな、睦貴」
先ほどまで見せていた侮蔑したかのような色はなりを潜め、人懐っこい笑みを浮かべ、振り返ってきた。
「あ……ああ」
俺は戸惑い、流されるようにそう答えていた。