魚は空を泳ぎ、鳥は水を飛ぶ。


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【五話】世界を再認識する《後編》



 時計を見ると、蓮さんが帰ってくる時間だったので二人を連れて、連城家へ赴いた。
「お帰りなさい」
 いつものようにエプロンをしてキッチンに立っている蓮さんを見ると妙に落ち着く。連城家は蓮さんが家事を一手に引きうけている、少し変わった家庭だ。
「秋孝から事情は簡単に聞いたよ」
 蓮さんはなにかを刻みながら俺に声をかけてきた。
「仕事を増やしてすみません」
「二人増えたところで一緒だよ」
 ぶっきらぼうに答える蓮さんに、申し訳ない気持ちになる。
「二人は食べられない物はあるのか?」
 と聞かれても、今までの様子からすれば、食生活もまったく違うような気がする。
「わらわはなんでも食べられるのじゃ」
 はるちゃんは自慢するように腰に手を当てて答えている。上総も特に問題はありませんと言っている。
「ここにもテレビがあるのじゃ」
 はるちゃんはリビングに置かれたテレビに気が付き、前まで行って正座している。
「見てもいいのか?」
「別にかまわないよ」
 蓮さんの返答に上総もはるちゃんの横に同じように正座をしている。リモコンを操作してテレビを付けてあげる。この時間、なにをやっているのか知らないのでチャンネルを変えて、適当な番組を付けた。
「蓮さん、なにを手伝えばいいですか」
「人参の皮をむいてくれないか」
 今日はなにを作るのだろうか。いつもながら、わくわくする。
 料理を手伝っていると、終盤になる頃にいつも「お腹が空いた」と文緒は自室から出てくるのだが、今日は奈津美さんと文彰が帰ってきても出てこない。どうしたんだろう。
「文緒のヤツ、いつまですねてるんだ」
 蓮さんは呼んでも現れない文緒に対して文句を言っている。とうとう反抗期か?
「仕方がない。睦貴、呼んできてくれないか」
 よくわからないが、こういう時は俺の仕事らしい。椅子から立ち上がるとはるちゃんもくっついてきた。
「文緒、ご飯だぞ。みんなで食べよう」
 文緒の部屋に行き、ノックをして声をかけるのだが、返事がない。まさか寝ている?
「文緒?」
 もう一度ノックをしてみるが、返事がない。
「開けるぞ」
 宣言して、ノブを握ると鍵がかかっているようで回らない。
「文緒、どうしたんだ?」
「ご飯、食べない」
 蓮さんが一生懸命作ったご飯を食べないなんて、信じられない。
「文緒、なにをすねてるんだ」
「睦貴先生も嫌い」
 文緒から嫌いと言われ、今まで感じたことがないほどの痛みに捕らわれる。まさか拒否されるとは思っていなかった相手からはっきりと嫌いと言われ、例えではなく、目の前が真っ暗になった。
「文緒……?」
 声が思わず上ずってしまう。自分がものすごく動揺しているのが分かった。
「嫌いでもいいから、お願いだからご飯は食べて」
 自分の声がものすごく震えている。彼女に振られて必死で取りすがっている男のような気分だ。今まで、そんな状況になったことはないけど。
 今まで、女性とお付き合いしてきて、「冷たい」「自分を見てくれてない」などといった理由で振られることはあった。自分でもそう思っていたし、人を好きになれないんだと思っていた。
 だけど今日、文緒から嫌いと言われて、ものすごいショックを受けた。自分にもきちんとそういった感情があったのか、という安堵の気持ちもあったが、それよりもその言われた言葉に衝撃を受けた。文緒は俺のことが嫌いだった。
 ここが連城家ではなかったら俺、確実に泣いていた。涙が出そうになるのを必死でこらえ、文緒を説得する。
 天岩戸の前で太陽神であるアマテラスを世界に呼びもどすためにさまざまな儀式を行った人たちの気持ちがよくわかるよ。文緒が出て来てくれるのなら俺、ここで裸踊りをしたっていい。
「文緒、お願いだからでてきてくれ」
 部屋の戸にすがりついてお願いをする。ものすごく情けない姿だとは思うけど、今の俺にはこうすることしかできない。
 みんなが待っているし、料理が冷めたら美味しくないからはるちゃんに俺の伝言を頼んで戻ってもらった。はるちゃんは唇を尖らせて不満の表情のまま戻って行った。
「文緒、俺がなにかしたのか?」
 そういえば、今日の朝から文緒の機嫌が悪かった。はるちゃんのことで手いっぱいで文緒のことまで気が回らなかった。文緒はきっと、それが気に入らなかったのだろう。
 大きくなったと思っていたが、文緒はまだまだそういうところは子どもだな、と思う。だけどそれが嫌ではなくて、自分のことを必要としてくれている人がいると知り、うれしく思う。そう思えるのは相手が文緒だからだ。
「文緒、一緒に食べよう」
 返事が返ってこない。気のせいか、中からすすり泣くような声が聞こえる。
「文緒?」
 やばい、俺のせいで泣いてしまった。蓮さんに殺される。
「文緒、とにかく鍵を開けてくれ」
 少しして中で動く気配がして、硬質な音がして鍵が開けられ、扉が開いた。中から腕が伸びて来て、手首をつかまれて中に引きこまれた。文緒さま、ちょっと待って! それはまずいって。
 抗ったが、思った以上に強く引っ張られ、そのまま中に入れられてしまった。中に入ると同時に扉を閉められ、さらには鍵までご丁寧にかけられた。え、ちょっとそれってまずいから! いや俺、別になにかするわけではないけど、やっぱり男女が鍵をかけた部屋に二人っきりでいるというのは問題だろう?
「睦貴先生の、馬鹿」
 予想通り、文緒は泣いていたようだ。目と鼻が真っ赤になっている。
「いや、あの、ごっ、ごめんなさい」
 よく分からないけど、とりあえず謝っておこう。なんだか俺が悪いみたいだし。
「睦貴先生は分かってない!」
 とにかく文緒は俺に対して怒っているらしい。
「みんなに対して優しいから、誤解されるんだよ」
 涙声で文緒は訴えるが、そんなこと言われたの、初めてだ。散々「冷たい」と言われてきた。
「俺、冷たいと言われて振られまくったのに?」
「それはっ、睦貴先生の本当の優しさを知らないから!」
 多数決を取らなくても俺が冷たいというのは間違いないと思う。基本的には自分以外に興味が持てない。というとなんとなくナルシストっぽいが、それとはまたちょっと違うような気もするが、とにかく、俺以外の人間がいる、という認識でしかない。
 しかし、文緒をはじめとした連城家の人や兄貴や親父に対してはまた別枠だ。この人たちは俺の中では大切な人カテゴリに属している。
「ねえ、あの二人は何者なの? どうしてあんなに優しいの?」
 文緒の質問は難しかった。何者と聞かれても俺もいまいちあの二人のことは把握していないし、どうして優しいのと聞かれても、普段と変わらない接し方をしているとしか答えられない。
「二人に優しくしないで」
 それはちょっと無理な相談だと思う。特別になにかしているわけでもないし、事情を知ったらこのまま放置はしておけない。
「あの二人は迷子なんだ。家に帰りたくても帰り方が分からないんだ」
「…………」
 文緒は無言になり、うつむく。癖のある黒髪が肩からこぼれ落ち、文緒の顔を隠す。
「大切なのは文緒だから。それだけ泣いたし、今日も学校、頑張ってきたんだろう? 食べないとお腹が空きすぎて、眠れないぞ」
 文緒に近寄り、こぼれた髪を耳にかけて頬に触れる。涙に濡れた頬は少し冷たかった。
「そんなに泣いたら、かわいい顔が台なしになるぞ」
 顔を上げさせたら、手を振り払われた。そっぽを向いて鼻をすする。
「ほら、ティッシュ」
 机の上に置かれたボックスティッシュから取り、文緒に渡す。文緒は素直に受け取った。
 文緒はようやく落ち着いたようで、無言で部屋を出て行った。
 ようやくご飯を食べてくれるらしい、よかった。
 床に散らばった物を拾い上げ、軽く片付けてから部屋から出ると、顔を洗ってすっきりした文緒が洗面所から出てきた。
「ご飯、食べようか」
 俺の言葉に文緒は素直にうなずいてくれた。
 ダイニングに行くと、夕食は済んだようで蓮さん以外はリビングでくつろいでいた。
 文緒と俺の席の前には料理が取り分けられていた。温かいみそ汁とご飯をよそって蓮さんが持ってきてくれた。文緒はご飯を食べ、少し落ち着いたようだ。食べ終わり、文緒の食器も合わせて流しに入れておく。後で洗うことにして、俺はみんなに集まってもらう。珍しく文彰もリビングにいてくれた。
「この二人のことについて、話しておこうと思う」
 ここにいる全員の視線を一身に受け、冷や汗が背中に伝わる。注目されることが普段ないので、緊張する。
 奈津美さんと文彰は黒い犬の話の経緯を知らないと思ったのでそこから話を始めた。はるちゃんと上総はきっと、初めて聞く話なのだろう。二人はおとなしく黙って聞いていた。
「その黒い犬がこのちっちゃい子なの?」
 奈津美さんの疑問はもっともだ。俺だって自分でそう説明をしておきながら、信じていない。
「本人が言うにはそうみたいです」
 頭の上についている耳は自前だ、ということを説明すると、奈津美さんは興味津々にはるちゃんの耳を触っている。文緒と文彰も触らせてもらっていた。
「ほんとだ、あったかーい」
 あれほど泣きじゃくっていたのに、文緒はすでに俺の話を聞いてはしゃいでいる。
 弟と対立しているという話はした方がいいのだろうか、それとも、後からそういう場面に遭遇した時に説明するのでいいのかと悩んでいたら、はるちゃんと上総からそこは説明があった。
「別世界のお家騒動ねぇ」
 奈津美さんはちらりと俺を見る。俺がこのマンションにやってきた経緯を知っている人だから、思い出したのだろう。
「秋孝もここに来て、二人に会って特になにも言っていないのなら、わたしは言うことはないわ」
「おれも同じく」
 とは蓮さん。
「早く帰れるように協力するわ」
 奈津美さんのその言葉はものすごく心強く思えた。








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