【終章】それからの東青寺≪完≫
彩名が普通通りに動けるようになったのは、それから一週間してからだった。
由良から与えられた力を使い、しかも魂を一時的に身体から抜かれていたのだ。逆に、一週間程度の養生で済んだのは軌跡に近い。
彩名の身体が元に戻るにつれ、鴉が側にいないと不安になるという気持ちが小さくなっていった。
だけど鴉は彩名の側にずっといたし、隙あらばとふれあってきた。
彩名としては別にそれが嫌ではなかったのだが、やはり落ち着かない。
そうしてようやく学校に通えるとなり、久しぶりに登校して寺に帰ってくると……。
庫裏から怒鳴り声が聞こえて来た。
声ですぐにそれが鴉のものだと分かった。
秀道が相手であれば、そんな怒鳴りあいになる前にさっさと終わってしまうから、違う人物なのだろう。
だけど鴉が突っかかる相手なんて思いつかなくて、彩名は不思議に思いつつ、庫裏へと入った。
「あら、お帰りなさい」
そこには、場違いなほどきらきらと輝いている由良がエプロンをして台所に立っていた。黒くて豊かな髪は、今日は一つに結ばれている。
「え……と?」
どうして由良がここにいて、しかもエプロンをしているのだろう。
「あああ、彩名が帰ってきたじゃないか! いいから早くここから出て行け!」
「嫌よ。鴉が側にいてくれないのなら、アタシが鴉を追いかけるわ」
そういうなり、由良は鴉に抱きついていた。
なんだかその光景は激しく美女と野獣だなあ……なんてさすがの彩名も暢気に思えず。
彩名は気がついたら、鴉の腕を引っ張っていた。
「ちょっと! 鴉になにをするのよ! 嫌がってるじゃない、離しなさいよ!」
「なによ、小娘が」
「ええ、どうせ、乳臭い小娘ですよ! だけど鴉はその乳臭い小娘の方が好きなのよ!」
「なっ! この色気あふれる由良さまよりいいっていうの、鴉!」
「…………」
女二人に囲まれ、鴉はすでに疲れ切っていた。
「ほら、鴉。あなたのために作ったのよ、食べてちょうだい」
由良は皿を持ち、その上に真っ黒に焦げたなにかが乗っていた。
「……なに、それ」
「玉子焼き。念のためにと思ってしっかり火を通したの」
それはどうみても明らかに玉子焼きというより、炭焼きだ。
「ちょっと! そんなもの、鴉が食べたら本当の鴉になっちゃう!」
「なっ、なぬっ?」
「人間の食べ物じゃないわ、そんなの! 玉子焼きってのはね!」
鴉を掴んでいた腕を離し、彩名は壁に掛けていたエプロンをつけるとさっと台所に立った。
冷蔵庫から卵を取りだし、手際よく調理していく。
最初は鼻で笑っていた由良だが、彩名の鮮やかな手さばきに見入っていた。
それから数分後。
皿の上には美味しそうな湯気を立てた玉子焼きが乗っていた。
「邪刻のあなたにこの美味しさが分かるかしら?」
彩名は由良に対して馬鹿にしたように鼻で笑った。
「これくらい……!」
由良は手を伸ばし、素手で切り分けられた彩名の作った玉子焼きを一切れ手に取り、恐る恐る、口に入れた。
「!」
由良も何度か、人間の食べ物を口にしたことがあった。だけどなにを食べても砂を噛んでいるようにしか思えず、美味しくなくて食べることを止めた。
だけどどうしてだろう。
彩名の作った玉子焼きはとても温かくて、ほんのり塩気がして、卵の自然の甘みもあり、美味しい。
「なに……これ」
由良の反応を見て、鴉も手を伸ばして玉子焼きを口にした。
「やっぱこれだね。美味しい」
「それなら良かった」
彩名は食卓の上に玉子焼きの皿を乗せ、エプロンを外そうとしたところ。
「どういうこと? なにこれ」
由良は口に入れていた玉子焼きをすべて咀嚼して、口を開いた。ぷるぷると身体が震えている。
「鴉、あなた。いつもこんな美味しいものを食べていたの?」
「そうだけど」
「……許せないわ! それ、すべて寄越しなさい!」
「やーだね」
由良は目をつり上げ、独り占めしようとしていた鴉の手から皿を奪い、玉子焼きを手づかみで食べ始めた。
「あ、由良! 俺にも寄越せ!」
「嫌よ!」
その光景を見て、彩名は頭を抱えた。
「……なにこれ」
二人はけんかをしながら玉子焼きを食べ、にっこり笑みを浮かべた。
「お代わり!」
その声は綺麗にハモっていて、彩名は思わず、遠い目をした。
二つ目の玉子焼きが出来たタイミングで、なぜか知穂とクラブ活動中のはずの貴之がこぞってやってきた。
「こんにちは。って、あ! 彩名ちゃんの玉子焼き! ちょっと! あたしにも食べさせなさい!」
「んー、なんだ、にぎやかだなあ。お、玉子焼きかあ」
四人は争うようにして玉子焼きを食べ、またもやにっこりと。
「お代わり!」
四人の綺麗なハモりに、彩名は頭を抱えた。
「どうなってるのよ、これ」
§ § § § §
卵がなくなったことでどうにか知穂と貴之を追い返した彩名。
夕食の支度をして、秀道を呼びに行って帰ってくると、当たり前のように鴉の横に由良が座っていた。
「……それで、どうして由良さんがうちにいるんですか」
「ほらあ、アタシ、行く場所ないし。そちらの和尚さまからもここにいていいっていう許可をいただいているし。……ですよね?」
由良の強気の発言に、秀道はなにか諦めたように小さくうなずいた。
「おじいちゃん! こんな邪刻、その辺りに放置してても死なないから!」
「それは分かっておるが、その御仁がここに置いてくれないと境内で野宿すると言い張ってな」
「うっわぁ。性格悪っ!」
秀道も弱っているようだったが、幸いなことに部屋は余っている。鴉の部屋は少し前に移動していて、彩名の隣となっていた。
由良の部屋はそこから一番遠い場所にしてくれたらしい。
その配慮に感謝するべきなのか、要らぬお世話と思うべきなのか。
前者ということにしておこう、と彩名はいい方に受け取った。
「あの玉子焼きも美味しかったけど、他の料理も美味しそうね」
いくら嫌いな相手でも、褒められるとやっぱり嬉しい。
「じゃあ、食べましょう」
そう言うなり、由良は箸を持たずに手づかみで食べようとし始めた。
「ちょーっと待って!」
「……なにか?」
「箸を使いなさい、箸を!」
「……箸?」
小さく首を傾げ、不思議そうに瞬きをしている由良を見ていると、この庫裏の中に似つかわしくなくて、彩名はなんだか変な気持ちだ。
秀道が由良に箸の使い方を説明し始めた。
その光景になんだかますます複雑な気持ちがこみ上げてきたが、こういうのも悪くないかもしれない。
鴉との時間を邪魔されるのはいただけないけど、これはこれで面白いのではないかなと彩名は無理矢理、思うことにした。
由良に向けていた視線を戻そうとしたところ、ふと、鴉と目が合った。
怒っているかと思っていたが、鴉は思ったより穏やかな表情をしていて、ほっとした。
「あとでそちらの部屋に行くから」
「あ……うん」
小声で伝えられ、彩名は小さく返事をした。
「二人っきりにはさせませんわよ!」
由良にはどうやらしっかり聞こえていたようだ。持ち慣れない箸を振り回し、由良はそう宣言してきた。
「アタシというものがありながら、捨てるなんて! 鴉、許さなくてよ!」
行儀の悪い由良を秀道がたしなめているが、聞こえていない。
もしかしてという思いで、彩名は口を開いた。
「……邪魔してもいいけど、由良さんのご飯、作らないよ?」
「……う」
途端、由良は急に大人しくなり、箸に苦戦しながらご飯を食べ始めた。
それを見て、彩名と鴉は顔を見合わせて、笑い合った。
あなたは『赤い糸』を信じますか?
そしてもしもその『赤い糸』が視えたら、あなたはどうしますか?
あるがままに静かにその運命を受け入れますか?
それとも、二人のようにあらがいますか?
《終わり》