【一章】迷惑な居候≪九≫
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彩名の説明を受けて、秀道は彩名とともにスーパーの裏口へとやってきていた。
「残念ながらわしには、彩名が言うようなものは視えないのだが」
もしかしたら彩名が秀道を呼びに行っている間に消えてなくなっているかも、という淡い期待はなく、やはり先ほどと変わらず、取っ手に青い糸が数本、絡まったままだった。
とも分かった。
「おじいちゃん……これ、どうしよう」
秀道はあごに手をあて、しばし考えた後に口を開いた。
「鴉に相談してみてはどうだ?」
秀道の口から鴉という名前が出てきて、彩名は顔を引きつらせた。
「ダメだよ! あいつは……!」
この青い糸も鴉が関係しているに決まっている。
彩名はそう決めつけて、秀道に訴えた。
「さっき、あいつは近所のおばさま方に黒い糸を付けようとしていたのよ!」
秀道はいぶかしげに彩名の顔を見つめた。
「あやつがか?」
「うん、わたし、視たの! 境内でおばさま方に囲まれていて、それで手に何本か黒い糸を持ってたの。あれをおばさまたちに付けられたら不幸になるから、わたし、慌てて鴉の手を叩いたの」
彩名に向けられたことのない余所行きのいい顔をおばさま方に向けていたのを思い出し、彩名は拳を握りしめた。
「あいつ、前になんて言ったのか知ってる? 『人の不幸は蜜の味』って言ったのよ! おばさま方に黒い糸を付けて不幸にして、食べようとしたのよ!」
口うるさくてお節介なおばさま方が苦手な彩名だけど、でも、だからって彼女たちが不幸になるのは由としなかった。
「ふむ……」
秀道はそれだけ言うと、彩名をその場に残し、東青寺へ向かい始めた。
「おじいちゃん?」
「鴉に直接、話を聞いてくる。おまえはそこから入るのが嫌ならば、正面から店へ入れ」
それだけ言うと、秀道は彩名を顧みることなく、帰ってしまった。
とりあえず、秀道に相談が出来たから良かったのだが……。
(話を聞くっていうけど、素直に言うわけ、ないじゃない! あいつがしたに決まってるわ!)
秀道が嫌なら正面へ回れと言ったが、彩名はそうするとなんだか鴉に負けたような気がして、裏から入ることにした。
取っ手に絡みついている青い糸は生きているかのごとく、まるで海の中でゆらゆらと漂っているイソギンチャクのように風もないのに揺れている。
(なんか……すっごく気持ち悪い、これ)
どちらにしても、これをこのままにしておくとだれかの手に絡みついて不幸を招き寄せる結果となってしまう。
そうならないように視える彩名は取り除こうと手を伸ばした途端。
「待て、触るな」
その声に彩名はびくりと肩をふるわせた。
振り返らなくても、声でだれか分かる。
「なんで来たのよ」
彩名が青い糸に触れて絡まれるのを確認しに来たのだろうか。
「わたしはあんたになんか、負けないんだから!」
「彩名、待てって!」
背後の鴉が止めるのも聞かず、彩名は青い糸が絡みついている取っ手に手を伸ばした。
「あ、馬鹿っ!」
青い糸に手を伸ばしたところ。
青い糸が数本、急に伸びてきて彩名の手に絡みついてきた。
「きゃっ、なによ、これっ!」
「だから止めろと!」
彩名は驚き、手を引っ込めようとしたのだが、青い糸が伸びる方が早く、指先に絡みついてきた。
青い糸は酷くヒンヤリとしていて、彩名の全身が総毛立った。
「やだっ!」
あまりの気持ち悪さに、身が縮こまる。
「ったく、人の話を聞けよ!」
そう言われるなり、腕をぐっと強く掴まれて、引き寄せられた。
「だっ! だからわたしに触らないで──っ」
文句の言葉は鴉の広い胸板に顔を押しつけられる形になったことで途切れてしまった。
「少し黙っていろ」
ぎゅっと苦しいくらいに抱きしめられ、彩名はもがいた。しかし、鴉の腕は予想以上に力強く、びくともしない。
「うーっ!」
右腕一本だけのはずなのに、いくら暴れても腕は緩められず、彩名は顔を胸に押しつけられて窒息しそうになっていた。
(しっ、死ぬっ! 息ができなくて、死んでしまうっ!)
鴉は秀道と彩名がスーパーの裏口に立って話をしていた頃、本堂横の墓所への通路に立っていた。
(あー、もう少しで飯の時間か。彩名、怒っていたから俺のご飯、作ってくれないんだろうなあ)
元々、人間のように食事をしなくてもよいはずなのだが、なぜだか鴉の胃はぐーっと音を立てた。
(あいつが作った飯が美味すぎるからいけないんだ)
鴉はお腹をさすりながら、はあ、とため息を吐いた。
(そういえばさっき、なんか怒らせてしまったみたいだし、謝っておくか。……俺の飯のために)
すっかり胃袋を掴まれてしまっている鴉は、情けなくそんなことを思いながら庫裏へ向かおうとした時。
ぞくり、と背筋が凍る感覚がした。
(な……んだ、これ)
数日前にもあった感覚。
(また彩名に?)
そして鴉はなにかに導かれるように、走り出していた。
(……それで来てみたら、案の定ってことか)
はあ、と鴉は息を吐き、暴れ続ける彩名を右腕一本で胸の中に閉じ込め、左手で彩名の指先に絡んでいる青い糸に触れた。
(ったく、なんだよ、この青い糸)
まるで生きているかのようにうごめいているそれは気持ちが悪かったが、鴉が触れて強く引っ張るとあっけなく劣化した糸のように崩れて消えた。
「ほら、もういいぞ」
右腕を緩めた途端、彩名は鴉の胸に腕をついて突っぱね、飛び退いた。
鴉の腕の中から、彩名のぬくもりが遠ざかっていく。
(あ……っ)
今までにない消失感に、鴉は思わず、自分の右腕を見下ろした。しかしそれは、彩名の一言ですぐに消し飛んだ。
「いきなりなにすんのよっ!」
「俺が触れるなっつーのに聞かないからだろう!」
「なにがよっ!」
「おまえ、今、危なかったところだったんだぞ?」
「だから、なにがよっ!」
「視てわかんねーのかよ! なんだよあの、青い糸!」
青い糸と言われ、彩名は自分の右手を視た。
「あ……れ?」
寒気が走るほど気持ち悪かった青い糸は、まるで幻だったかのようにすっかりなくなっている。
「俺が来なかったら、どうなっていたことやら」
はあ、とまた、呆れたようにため息を吐かれた。
(もしかしなくても、助けてくれた?)
心配して駆けつけてくれたのかもしれない。
彩名はそう思うと、先ほど、鴉の腕に抱え込まれたことを思い出し、どきどきした。
(もしかしてこいつ、実はいいヤツ?)
助けてくれたお礼を言わなければ。
そう思って口を開こうとしたのだが、鴉が先に彩名の気持ちを台無しにする一言を言い放った。
「これで飯を食いっぱぐれなくて済むな」
鴉のその一言に、彩名は目を瞠った。
「わたしを助けたのって……」
「で、今日はなんだ? 俺、味噌汁の具はわかめがいいなあ」
肉でも魚でもどっちでもいい、と言っている鴉を見て、彩名の身体は震えた。
(な……な、なんなのよっ、こいつっ!)
ちょっとだけどきどきさせられた乙女心を一瞬で打ち砕かれ、彩名の身体はわなないた。
彩名は右手拳をぐっと握りしめた。そして、おもむろに……。
「鴉の、馬鹿ったれー!」
右腕を真っ直ぐに伸ばし、鴉の腹の辺りにえぐり込むようにめり込ませた。
「うぐ……」
鴉はかばうことなく、彩名の容赦のない一撃をその身に受けてしまった。