【序章】『運命』の相手≪四≫
§ § § § §
朗夫と女性は魂が抜けたかのように座り込んでいた。
「あ、そうだ」
彩名は本来の目的を思い出し、朗夫へと近寄った。
彼の小指から伸びている赤い糸は本来の色を取り戻してはいたが、今にも切れそうになっているのは変わりがなかった。
彩名は傷つけないように慎重に赤い糸を手に取り、数回、撫でた。
ささくれ立ち、ほつれて切れそうになっていた赤い糸はそれで治り、しっかりとした糸へと戻っていた。
「ふぅん……」
少し離れて彩名のやっていることを目を細めて面白そうに眺めていた大男は、彩名の真横に立った。
「!」
突然の圧迫感に彩名はびくりと身体を震わせ、横に立った大男を見上げた。
「視えるだけではなくて、触れられるし、そんな風に治すこともできるんだ?」
「え……と。治すことはできないけど……」
「今、治しただろう?」
「治したってより、本来の姿に戻したっていうか」
「それを『治す』っていうんだろう?」
「…………」
「その行為、人の運命をいじっているという自覚は、あるか?」
「え……?」
「こいつら、おまえと会わなければ、ここで無理心中だったんだぞ?」
「…………」
言葉を失った彩名に対して、大男はたたみかけるように言葉を続けた。
「この男は見ての通り別の伴侶がいて、この女とは浮気中だ。こいつらの本当の運命は、蛇に呪われたために男は女に刺されて、伴侶と死に別れだ」
彩名は大男に本来の運命を突きつけられて、俯いた。
「俺とすれば、そっちの最悪な未来の方がいい味がして良かったんだがな」
「な……なに、を」
「人の不幸は蜜の味」
大男はくくく、と喉の奥で笑った。
「こいつらを呪った蛇も、その方が本望だっただろうなあ。だって喰った蛇、苦くて不味かったもんな」
とぼそりと大男は呟いた。
「やっちまったもんは取り返しが付かない訳だし? おまえさんは後味が悪くないんなら、それはそれで、いーんじゃないか?」
なんとも投げやりな言葉に、彩名は唖然と大男を見上げた。
「まあ、助けてやったのに礼がないのは目をつぶるとするか」
「あ……」
そうなのだ。大男の言動はともかく、彩名は結果的に助けてもらったのだ。
「あの……ありがと……」
普段なら素直にお礼を言えるのに、どうしてだろう、大男相手になると、どうしてか分からないけれど礼の言葉を言うのが悔しいのだ。
「なーんか、不服そうだな?」
大男に気持ちを指摘され、彩名は真っ赤になった。
「だっ、だって! なにがどうなったら、こういう状況になるのよっ!」
「俺が強いから?」
臆面もなくそう言い切った大男に、彩名はぽかんと思わず間抜け面を披露するハメに陥った。
「くくっ、おっもしれー顔」
「なっ」
整えられていない髪の毛はうっとうしく大男の顔を隠していたが、目を細めておかしそうに笑っている顔を見て、彩名はあっけにとられてしまった。
こんな傲岸不遜なことばかりを言っている大男だから、顔も大作りなのだろうと思ったのだが……。
さっき、助けてと懇願した時にも思ったのだが、切れ長の瞳のくせに二重で、それでいて宿した光は妙に綺麗で……。鼻は大きめだったけど、その下にある唇は適度な厚みを持っていて、楽しそうに口角が上がっている。髪の毛を上げたらもしかしたら、いい男、なのかもしれない。
いやいや、だけど! と彩名は強く頭を振った。
たとえ見た目がいい男だったとしても、中身はなんだか最低そうだ。
そう思っていたら、案の定、大男はとっととどこかに行こうとしていた。
「ちょっと待ちなさいよ!」
彩名の言葉に大男は足を止めた。
「あん?」
「この人たち、どうするのよ」
「どうするって言われてもよ……」
大男は困ったように頭をぽりぽりと掻いていた。
「ま、こいつらはこのまま放っておいても問題ないだろ。そのうち、正気に戻る」
朗夫はともかくとして、女性のことは心配だった。
だけど黒い糸で結ばれた悪縁とは切れた訳だし、その後のことはこの人たちが解決することであって、彩名が口を挟む問題ではない。それに、朗夫と繋がる赤い糸は修復したわけだし、そのうち本来の関係に戻るだろう。
彩名はそう判断して、二人から離れた。
問題は、彩名のことを追いかけてきて、女性に頭を殴られて昏倒している知穂だ。
「知穂ちゃん、大丈夫?」
彩名は知穂に近寄り、声を掛ける。知穂は頭を抱えたまま、きつく目を閉じている。
「ねえ、知穂ちゃんは……大丈夫、だよね」
「さあな」
「そんなっ!」
「俺は知らないよ」
「知らないって! 女の子が倒れているのにっ」
彩名の中で大男の評価がどんどんと下がっていっている。
(こいつ、ほんっと、さいてー! なんなのよっ!)
「助けてくれるって言ったじゃない」
「言ったけど? もう、おまえに危険はないだろう?」
「あのねっ! アフターケアまでして、助けたって言うのよ! このままわたしたちをここに置き去りにして、第二の被害が出たらどうするのよ!」
「どうするって……。俺は知らないぞ」
「あんたって、最低っ! さっきの約束、なかったことにして!」
「え……おいっ。待てよ! おまえ、俺の願いを一つ、聞いてくれるって言ったじゃないか」
「言ったわよ! 言ったけど、助けてはい終わり、なんておかしいじゃない!」
「おかしくない! これとは別だろう」
「別じゃないわよ! 一緒よ! 続きっ」
彩名の言い分に大男は納得がいっていないが、このままではお預けを食らってしまいそうだと大男は判断して、渋々と口を開いた。
「で、どうすればいいんだ?」
「知穂ちゃんが目を覚まさないの」
「あん? いいんじゃないか? 気持ち良さそうに眠ってるし」
「……眠ってる?」
「ああ。なんだ、寝不足か? ぐーすかいびきまでかいて、寝てるけど」
知穂は身じろぎをしてはいなかったが、言われてみれば頭を抱えたまま、眠っているようにも見える。
「でも……」
「そこにある盆で頭を殴られたんだろう。たんこぶは出来てるだろうけど、頭には異常はないだろう」
「どうしてそんなこと、言えるのよっ! そ、そうだ! 救急車を呼んで……」
「呼んでもいいが、どうしてここにいると言い訳するんだ?」
「あ……」
ここが通学路だったならいいのだが、道から外れているし、入ってはいけないと言われている地域に足を踏み入れていたのだ。
しかも、見知らぬ女性に殴られたとなると、説明が面倒なことになる。
「おまえたち人間は、面倒なことを好まないんだろう? で、今の状況はとてもやっかいで、面倒な状況というのは分かった」
大男は大きなため息をつくと、ぱんっと両手を叩いた。その音の大きさに彩名は驚き、飛び上がった。
「なにをっ」
「そのまま起きて……そう、何事もなかったように帰れ」
大男は今度はぱんぱんっと二度、手を叩いた。
すると地面に倒れていた知穂は立ち上がり、彩名に目を向けることなく元来た道をすたすたと歩き始めた。
「知穂ちゃん……?」
「大丈夫だ。あのまま家に帰る」
彩名は疑いの目を大男に向けたが、今度ばかりは用が済んだとばかり、大男は地面を蹴って飛び上がった。
「え、えっ?」
「今日のところはこれで帰るわ。また改めて、お願いをしに行くからな」
大男は朽ち果てそうになっているぼろぼろの屋根に身軽に飛び乗ったかと思うと、重さを感じさせない跳躍で隣の屋根へと移り、ひょいひょいと飛び移って、彩名の視界から消えていった。
彩名は訳が分からず、その場に唖然と佇んでいた。