《三十話》バッドタイミング
さすがに今週は圭季もお仕事が休みのようで、この土日は久しぶりにずっといた。
だけど特に予定を組んでいたわけではないので、二人でどこかに出掛けるわけでもなく。
といっても、二人で近所のスーパーに食糧や日用品の買い出しには行った。
……こうやってると、なんだか新婚生活のようで。
って!
やっ、やだっ、あたしったら!
新婚だなんてっ!
うわああ、むちゃくちゃ恥ずかしいじゃない!
そんなことを考えて部屋で悶えていると、不意打ちでドアが叩かれた。そのせいでいつも以上に挙動不審になってしまった。
「はははは、はいぃ」
床の上でごろごろと悶えていたあたしは慌てて起きあがり、乱れまくっていた髪の毛と服を急いで取り繕ってからドアを開けた。
ノックされてから出るまでにタイムラグがあったからか、ドアの向こうの圭季の表情は少し申し訳なさそうだった。
「もしかして寝てた?」
圭季の視線はあたしの頭を見ている。髪の毛、直したつもりだったけど、なにかおかしい? 鏡を見れば良かった!
そう思っていたら、圭季の大きな手が伸びてきて、チョコレート色の髪の毛に触れた。
「ここ、跳ねてる」
そういって圭季はあたしの髪の毛を手櫛で整えてくれた。
幼い頃に男の子に髪の毛を引っ張られて以来、髪の毛に触れられるのは苦手なんだけど、圭季は大丈夫だった。
あの一件があってからもしかしてと思ったけど、今、触られても大丈夫だった。
そのことにあたしは安堵を覚えた。
「あ、ありがと。……えっと。寝てないけど、ちょっ、ちょっとだけその、横に」
しどろもどろなあたしの言い訳に、圭季は頬を緩めた。
「それなら、良かった」
柔らかな笑みを見ていると、ああ、あたしはやっぱり圭季が好きだなと再認識させられた。
「ところで、チョコ。ちょっと付き合ってもらえる?」
「へっ? ……と、なに?」
「おれも試しにクッキーを作ってみたんだけど、チョコに意見をもらいたくて」
キッチンでなにかしているなとは思っていたけど、クッキーを焼いていたのね。
「もちろん、いただきますっ!」
あたしは二つ返事で圭季と一緒にキッチンへ。
キッチンに近づくにつれ、焦げ臭さが強くなってくる。
……なんだか嫌な予感しかしないのですがっ!
そしてその予感は見事に当たり、リビングで惨状を目にしてしまった。
「えっ……と?」
テーブルの上にこんもりと置かれた、黒い物体X。
まさかとは思うけど。
「あのぉ、圭季。き、聞いてもいい?」
「あ……うん」
圭季はあたしの反応は想定していたようで、困ったように頭に手を当てていた。
「クッキーって、ソレ、のことでしょうか?」
いやいや、まさかねー。
あれだけ料理が上手な人だから、それはないよねー?
「そうだけど?」
…………!
えっ?
今、なんと申されました?
「あ、あの」
「何度かレシピ通りに作ったんだが……」
それなのにどうしてこんなことに。
「レシピ通りに作ったのよね?」
「……あぁ」
返事をした圭季の目は宙を泳いでいた。
……なにかアレンジを加えた?
あたしは恐る恐るテーブルの上に置かれている物体Xに近寄った。
厚かったり薄かったり、大きさもなんだかバラバラだ。だけど星の形や丸の形らしき物があるところをみると……。
「型抜きクッキー?」
「お、さすがチョコ! 分かってくれたか?」
喜々として喜んでくれているのはいいのだけど、うーんと。
「圭季って今までお菓子を作ったことは?」
「ないよ。これが初めて」
なるほど、初体験にあたしは遭遇できたのね。
「初めてのお菓子作りで、型抜きクッキーは大変よ?」
「……なるほど、そうだったのか」
そして圭季はこのクッキーを作るために見ていたらしいレシピ本を持ち出してきた。
「初心者でも簡単とあったんだが」
「そ、そうなの? その本、見せてもらってもいい?」
レシピ本を受け取ると、圭季があたしの後ろに立った。急に近くなり、どきりとする。
「作ったのはこれなんだが」
とあたしの手の上から覆うようにして本をめくっていく。
ううう、むちゃくちゃどきどきするんですけど!
「ほら、ここに」
と圭季の長くて形の良い指が紙面を滑っていく。
「『初心者に最適!』と」
圭季の指先を追っていく。
「……そ、そうね」
とは返事をしたものの、背後に感じる圭季のぬくもりに気を取られて、たった数文字でさえ頭に入ってこない。
「どうだろう、チョコ」
圭季の声が耳元でする。
「あ……えーっと」
がっつりと後ろから抱きしめられているこの状態では冷静に読めないのですが!
どうにかして今の状況から脱さないと!
だけど動いて抜け出すのもなんだか圭季を拒絶しているみたいだし……。
あたしは必死にレシピを見ようとするのだけど、圭季の強い視線を頬の辺りに受けて集中できない。しかも恥ずかしさのあまり顔が火照ってきた。
「チョコ……」
耳元で圭季があたしの名前を呼んでいる。
それだけで鼓動が早くなり、息をするのが苦しくなってきた。
しかもこともあろうか圭季はあたしの耳の付け根あたりに軽く口づけをしてきた。
チュッという音に一瞬にして頭が沸騰したかのようになった。
顔どころか身体全体が熱い。
全身が心臓になったかのように早鐘を打つ。手にしていたレシピ本がとさっと音を立て床に落ちた。
圭季の手が肩に掛かり、くるりと身体が反転した。
目の前には圭季のあごのライン。
「チョコ」
熱っぽい声に、だけどあたしは恥ずかしくて顔を上げることが出来ない。
圭季の手が髪の毛に触れ、するりと降りてきて、頬を撫で、あごに指が掛かった。
くっとあごを持ち上げられ、圭季と視線が合った。
男の人にしてはもったいないくらい大きな瞳がまっすぐにあたしを見つめている。
恥ずかしいから目をそらしたいのに、圭季の瞳に魅せられてそらせない。
圭季の顔が近づいてくるのが分かったから、あたしはぎゅっといつも以上に強く瞳を閉じた。
だけどいつまで経っても圭季は近寄ってこなかった。そればかりか圭季の気配が消えた。
……どうしたんだろう。
父が起きてきたわけでもないしなあ。
不思議に思って薄目を開けると、圭季がかなり困った表情を浮かべていた。その視線はあたしの頭を通り越していたので、思わず追いかけてみるとそこには……。
「な……なんで那津がっ」
まるで某ドラマのようにダイニング手前の扉の前でにやにやとした笑みを浮かべた那津が立っていたのだ。
なんというタイミングで現れるのよっ!
というかどうして那津がここに?
「このまま盗み見しても良かったんだけどさ」
よくないっ! なにを考えているのよ、もうっ!
「……なんの用だ」
斜め後ろから聞いたことのないほどの低い声が聞こえてきて、思わずびくりと身体が震えてしまった。
こ……怖いですっ!
「梨奈がいないところで今後の相談をと思って」
「……梨奈は?」
「今日は大会で、梨奈の出番は終わったから先に帰ってきたところ」
なるほど、那津の事情は分かったけど、前もって連絡を入れてくれてもいいのに。
……って、あ。
「何度かケータイにかけたのに出ないから、直接来た。外出中なのかなと思って、少し待つつもりで来たんだけど……お取り込み中でしたか」
お取り込み中って!
那津の言葉に圭季の熱を思い出し、改めて恥ずかしくなってしまった。
あああ、顔だけじゃなくて耳まで熱い!
まあ、那津には鍵は渡したままだったから入ってこられるわけだけどっ!
なんというか、タイミングが悪すぎでしょ……。
「それで、相談とは」
未だに恐ろしいほど低音の圭季の声に内心では震え上がりながら、あたしは那津に視線を向けた。
【つづく】