2−3.水子供養の発見期(1967〜1976)
水子の「誕生」 1960年代後半になり、記事(4)で低下した中絶記事の目線は、病院の裏側に移動する。1967〜1975年に胞衣会社や、胎児の骨が納められる「赤ちゃんのお寺」正受院を取材する記事(5,6,7,8,10)が出現し、「堕胎天国ニッポン」の陰で進行する見えにくい出来事、死胎児処理という新たな現実を発見する。これらの記事は中絶された胎児の実体、「遺体」そのものと、さらにはその供養への関心を次第に呼び起こす点で画期的である。ここに「水子」という言葉が、死胎児の名称として、中絶にまつわる否定的心象を伴って登場する。中絶関連記事における水子と水子供養の出現である。一連の記事は論調と強調点の差で、1960年代後半の大衆雑誌による最初の2本と、1970年代前半の女性雑誌による後発の3本に分けられる。
胞衣会社の実態 最初の2本の記事は興味、取材対象、構成が基本的に共通し、記事(6)が記事(5)を後追いしたのは明らかである。記事(5,6)は導入部で、正受院の納骨堂「慈眼堂」に妊娠4ヵ月以上の胎児の骨が約20万体あることに注目する。住職により、1955年に胞衣会社の親睦団体により建立され、胞衣会社が病院から引きとる胎児の遺体を火葬して、そこに骨を納めることを記す。それから、死産児だけでなく、妊娠3ヵ月以下の胎児を含む胞衣や産汚物も取り扱う胞衣会社による業務の「実態」を生々しく伝える。
水子供養の発見 両記事とも「水子供養」という表現を使っていないが、胎児を祀る寺院と供養の実施を報じている点でも今までの中絶関連記事と一線を画している。記事(6)は書き出しで「三月のお彼岸に、東京で二つの胎児葬という珍しい合同葬が行なわれた」と、胞衣会社や葬儀会社主催の「供養祭」に触れ、後者の模様の写真を掲載する。参列者には産婦人科医や産婆も少なくないとしている。記事(5)は慈眼堂の横に何百本と並んだ「某家胎児追善菩提」と記された塔婆について書いている。
胎児の水子化 1973年の記事(7)は、中絶関連記事として初めて中絶や流産の胎児を「水子」と呼び、「水子の霊」「水子の供養」とも書いている。女性週刊誌らしい強烈な自己主張を見せており、最初の頁の半分に見出しを大きく書き、残り部分を塔婆の束、「地蔵大菩薩」、正受院住職の顔写真で埋める。記事(5,6)にも登場する正受院の住職の好意的な紹介で 記事は構成され、一部が太字で強調されている。
水子の人格化 続いて出る記事(8,10)の取材対象は、記事(5,6)と同じ胞衣会社の従業員とその業務であり、記事(10)には正受院も加わる。胎児の人格化の進行と、掲載誌の性格のため内容の提示方法がますます過激化し、記事(5,6)の誌面が余程に抑制が効いているように見える。記事(8)は中程の頁、記事(10)は最初の頁に「堕胎児」の写真を載せ、読者の視線に露にさらしている。包装された胎児の遺体や胎盤でなく、生の胎児の遺体を初めて直接とらえる。記事(5,6)は胞衣会社の作業や経営にも関心を寄せ、道具の描写や利益の計算に細かいが、記事(8,10)はひたすら水子の悲惨と哀れを煽り立てる。
女ゆえの悲しさ 中絶した女性の描写や従業員の感想も多く見られる。記事(10)の終盤で紹介される男性従業員の話は女性の生理の悲しさに触れている。男性の気を惹こうとするが、妊娠して逃げられた20歳のOLや妻子ある男性の子を生むつもりだったが、疎遠になると決心が鈍った女性に言及してから、次のように話す。「こういう話を聞くと、いくら女が強くなったとはいっても、最後の処理が中絶でしかないというのが悲しいですよ。私はこの仕事をしたせいか、女の弱さというものの裏を知りつくした気がします。女ゆえの悲しさといいましょうか」。「女ゆえの悲しさ」はどうやら女性雑誌、女性週刊誌に特有の表現のようである。この表現には、中絶を身体的に引き受ける女性は所詮弱く、無力で、悲しい存在であることを訴えることで、望まない妊娠や中絶に伴う怒りや不満など否定的な感情を、全て女性の悲しみとして解消し、その妊娠や中絶を諦めさせる役割も与えられている。
産婦人科医院という現場 大衆雑誌の「新聞閲覧室」の記事(9)は、産婦人科医が「供養と懺悔」を思い立ち、医師時代に得た金で「中絶児」の「供養寺」を建立したことを報じる地方紙を紹介する。「月刊告発ドキュメンタリー」の記事(11)は、「水子」は本来幼児をいうが、今では中絶された「子供」を意味するという説明から始め、「胎内で生命は宿り」「生命の神秘」と主張し、「繁盛する」病院での胎児の「しまつ」「殺人」の光景を描いている。中絶の身体的心理的影響を脅迫し、科学では治らない中絶の後遺症についての紫雲山地蔵寺の創設者による主張を紹介する。創設者は「三十年後には日本は障害児で充満するだろうと案じている」。最後に「科学は自然に従うもの」とする中絶批判を紹介する。 (1)1970年7月8日〜16日に『朝日新聞』は「ゆれる優生保護法」と題する全7回の特集を組んでいる。第1回では、産婦人科で撮った中絶された胎児の写真展を開き、中絶の実態を告発する写真家を紹介し、第3回では、黒い背景に白く浮かんだ「ゼラチン状の指がわかる」9週目の胎児の手の写真を掲載した。これは、同時期に新聞記事も、流産児の肉体を容易に廃棄できない何物かとして凝視する態度を身に付け始めたことを示している。加えて、第1回では、記事(8)でも少し言及がある「雑司ケ谷の鬼子母神」の水子塚の雨に濡れるうさぎのぬいぐるみの写真が付いている。このように全国紙でも最初に読者の感情に訴えてから、中絶問題をを提起しており、通俗的な大衆雑誌や女性雑誌の領域を越えた規模で、胎児に対する関心が急速に拡大しているのが伺える。
1970年代の中絶記事の動向 大宅壮一文庫雑誌記事索引で1970年代の中絶関連記事の見出しを眺めると、1972〜1974年に大衆雑誌や女性雑誌でも優生保護法の改訂をめぐって、それぞれ異なる論調の記事が出ているのが知られる。中絶が与える女性の身体的後遺症を説く記事が次第に減少し、それとともに題材が分化している。題材の分化を促した原因の一つは、中絶の悪印象がすでに受容されたことである。この流れでは、「妊娠中絶の発見期」以来延々続いた反中絶記事が、胎児の遺体という切札を持ち出した最も衝撃的な記事(7,8,11)で一区切をつけるのは頷ける。もう一つの原因は、優生保護法の改訂論議の過程で中絶の現実的な必要性が表面化したことである(2)。それを明確に認識した女性雑誌は、需要を見込んで、中絶に関する実用的な知識を流し始める。いずれにしろ、ここで中絶記事は転換期を迎えることになる。 (2)1970年代初めの改訂論議で、女性解放運動の中心的存在である新宿リブセンターは中絶する権利を主張せずに、「産める社会、産みたい社会を」を阻止闘争の標語に掲げ、中絶を「ギリギリの選択」とする態度をとったが、1980年代初めの改訂論議の阻止闘争は「産む産まないは女が決める」と言いきり、前者の標語の責任回避的、母性主義的な含意を拒否し、中絶に限定しない再生産の選択での自己決定権を要求した(江原 1991他,グループ・母性解読講座 1991)。1970年代以降、中絶の禁止に対抗するフェミニズムの運動では、中絶の選択を「産めない」と「産まない」のどちらとして意思表示するか、この意志表示をどのように評価するかは、思想と戦略のあいだにある極めて重大な論点になっている。 次の章に進む トップページに戻る |