2−4.水子供養の受容期(1976〜1981)

 

中絶記事から水子供養記事へ

 1970年代の中絶関連記事を主要な題材別に系列化すると、@中絶に関する実用的な知識を教える安全な中絶案内の記事、A中絶経験者の体験告白の記事、B大規模な水子寺を取材する水子供養記事、C10代の中絶件数の増加を問題視する記事となり、ほぼこの順番で主に女性週刊誌上を賑わすようになる。総体的に、1970年代には中絶関連記事の総量が急激に増加するが、そのなかで量がひじょうに多いのが中絶案内記事で、次が水子寺取材記事である。
 面白いのは一連の記事系列が、同一雑誌に節操なく混濁して掲載されることである。この一見した矛盾のなかに、水子寺を取材する水子供養記事の性格の一端が表れている。つまり、1970年代前半まで中絶による女性と胎児への危害を強調して否定的感情を煽り、1970年代中後半に集中的に中絶の知識や体験談を載せて中絶を手助けすれば、結果的に水子の冥福を祈り、心理的な問題の解消のために情報の需要が必然的に生じる。1970年代後半以降、特に1980年に大衆雑誌や女性雑誌は多くの水子供養関連の記事を出し、情報の需要と供給の拡大を同時に図る。この意味で、雑誌側からすれば、水子供養記事の掲載には発行部数増大の戦略的側面がある。しかし、中絶の現実的な必要性や出産を望まない事情の認識も一般化している。
 1976〜1981年の大規模な水子寺を取材する記事は、各々の編集方針により4種類に大別できる。林立する水子地蔵像群を被写体とする、大衆雑誌や男性雑誌によるグラビア記事、水子寺自身の宣伝広告や広報活動の記事、女性雑誌に特有の水子寺観光案内の記事、その他である。大衆雑誌と女性雑誌では対応がはっきり異なり、前者が第三者の立場から「なぜかいま」「ブーム」「前代未聞」など驚きをもって水子供養の流行を伝えるのに対して、後者は当事者の心情を代弁して、水子供養を促している。

 

水子地蔵のグラビア化

 構成と言葉が最も単純な、地蔵像群を撮影するグラビア記事から検討を始める。
 地蔵等の仏像群の写真を効果的に使用するのは水子供養記事全体の特徴である。そのうち、ほんの少しの説明文を付けて、雑誌巻頭巻末の「グラビア」専用欄に配される水子供養記事は、主に大衆雑誌や男性雑誌のものである。取材地は秩父の地蔵寺、鎌倉の長谷寺、東京の増上寺、高岡の地蔵像工場等で、有名な水子寺を選んでいる。記事(16)の撮影者の水子地蔵写真集が記事(25)で短く書評されている。ときに怒り、哀しみ、祈りがシャッターに込められ、「詩情さえあふれている」「この世に生を受けないまま闇から闇へと葬られた小さな命への鎮魂歌ともなっている」と評価されている。この撮影者は同じ主題で写真展も催し、それに関する記事も出ている。
 以上のように水子供養がグラビア記事になる理由を「感性に訴える『絵』になりやすいため」と森栗は指摘する(1)。絵になる理由を補足すれば、「供養された水子をかたどった童顔」の水子地蔵像は水子の銅像であり、さらに、親の「おおっぴらにできない悲しみ、怒り、悔い、祈り」の感情の形象化である。それゆえ、叙情を醸し出すと撮影者に認識され、そうした「無言の像が秘めた悲しみを伝える」雰囲気を表現するには、写真という形式が適するからである。
 記事(16)の短い文章もまた中絶と性の解放を結びつけている。「戦争で子供を失ったお年寄 子供を流産してしまった夫婦 あるいはフリーセックスの赤ん坊を堕した女性たち」と書き、水子ができる原因が「あるいは」の前と後では極端に違っている。 

1)森栗 1994,123頁。

 

大衆雑誌の水子供養記事

 大衆雑誌にも文章主体の記事が存在するが、水子供養記事としては地味な編集になっている。記事(18)は一般的な話題の一部として長谷寺の「水子地蔵ブーム」をとりあげ、供養の手続き、若い女性の話、仏具屋の話を紹介し、識者の意見で締める。依頼者の9割が未婚だと掃除人の話として書いている。背景に関して、人間性指向の時代で心の底のしこりがよりどころを求めると社会心理学者が言い、ファッションでカッコいいからと旅行評論家が言うのも迫力がない。記事(19)は若い女性が水子、妻子ある男性との愛情問題や三角関係、恋の悩みの告白を、京都の直指庵の告白帳「想い出草」に気ままに書き綴っているとして、水子関係など数例の文面を紹介する。水子関係の告白は感傷に浸って水子や相手の男性に話かけているのだが、記事自体は「静かで真っ赤な秋の中で」と最後に季節に触れはするが、後述する女性雑誌と比べると叙情には淡泊に見える。

 

水子供養の広告記事

 水子供養記事はそれ自体概ね広告的機能を備えるが、積極的に広告記事を出す寺も多い。最も頻繁に広告を打つのが円満院で、記事(14,26)など何回も異なる雑誌に出し、11寺と1社が載る記事(17)と8寺が載る記事(20)にも出ている。記事(17,20)の寺社のなかで唯一円満院は両方に載り、しかも、最大の分量を占めている。
 記事(14)は水子を放置すると、「因果」の法則、「自然の法則に逆らい、不自然なことを招来し」、さらに、水子の存在が影響し、家庭に問題を起こすと説く。子供の相談をよく受けるとして、情緒障害の子供の相談例を解説して、「気がかりな存在」としての水子が主婦の「意識」を通じて子供に影響を与えると述べる。因果関係は直線的に、水子の存在は放射線状に影響する。「男性とて責任は同等」である。「悪因悪果を善因善果に変える」ために供養を勧め、申し込み方法を説明する。記事(26)は宗教的な因果の説明を省き、供養の意義や申し込み方法を詳しく教える。「水子は名もなく、お骨もなく、形見もないところから」位牌を造立し、「形ある存在とする」と記している。
 記事(17,20)は観光寺院案内風の体裁をとり、周囲の自然風物や観光名所に言及するのが特色である。宗教的な説明には、「神に対して最大の冒涜です」「さまよって私達に助けを求めています」「霊をなぐさめ」「供養する人を水子浄霊で救い出し」「悪い因縁が善い因縁に変わる」など、道徳的な説明には、「供養をすることは、親の責任であり役目です」「生命を尊ぶという気持ちがあるのなら供養するのが当然であり」などがある。「母性愛を再認識しましょう」という小見出しで紹介される寺もある。

 

水子供養の旅情

 女性雑誌で最初の水子寺紹介記事(12)は、「この町への旅」という旅行情報の一環として掲載された。以後の記事より素朴で控えめである。小見出しには、房総半島の「さまよえる水子の霊をまつる水子地蔵」には「悲運の水子の供養に訪れる女性が多い」とある。太字部分を引用すると、中絶して「医師にかかっても治らず困っている人」が多かったが、地蔵を建立し供養すると、「不思議に健康を取り戻すようになった」。「宿泊できる」この寺で住職の妻の手料理を食し、住職の説教を聞けば、「有意義な旅」になるとして、交通機関や問い合わせ先を案内する。中絶の結果として現われる病気と水子霊のさまよいの因果関係は必ずしも明確ではない。
 女性週刊誌の記事(13,22,23)は水子供養記事の全盛期に登場し、水子供養の実施を本格的に教える最初の記事という意味で、水子供養報道の一つの頂点に位置付けられる。上の記事(12)で見られるような水子供養と旅や行楽を接合し、水子寺を案内する観点が、女性雑誌の中絶記事に見られた母になれない悲しみを語る言説のなかに取り込まれて、女性雑誌独自の主張を形成している。水子寺の広報記事(17,20)も採用する旅行案内としての体裁は、水子寺が大衆媒体を通じて営業活動を全国展開するようになったことを告げている。
 見出しに、「水子寺物語」「水子寺旅情」「女ごころが救われる美しい水子寺」、小見出しに、「かげで演じられた悲しい人間ドラマ」「悲しい想い出を埋める旅」とあり、記事の全体が情緒と感傷を重んじる表現によって彩られている。水子寺探訪を傷心旅行の風情で演出している。前文に、「母である女性の心と、愛をわかち合った男の責任にかかっている」「母になれなかった女性たちの慟哭が聞こえる。そして、その影にある男の背信の姿も見える」「『赤ちゃんごめんなさい・・・・・・』母になれなかった女と水子たちのすすり泣きがかすかに聞こえる」と述べられ、「母になれなかった女」の悲嘆の叫びが前面に出ている。
 巻頭を大々的に題字が飾り、巻頭や文章の合間を水子地蔵像と供養に訪れる若い女性や男女の写真で埋める。本文では、水子寺や水子地蔵像の情景、中絶についての感想、住職の説明、出会った女性の話に触れ、表面的には供養を強制せずに、最後にさりげなく全国の水子寺を一覧表で紹介する構成をとる。物語の舞台は大体同じである。秩父の地蔵寺、化野の念仏寺、嵯峨野の直指庵、京都の山ノ内水子寺他で、京都を中心に旅情をかきたてる場所を選ぶ。演出には季節や天候の設定も重要で、記事(13)では「小石仏たちは、黙然と濡れそぼっていた」「私は、冷たい秋風の中に立ち、動けなかった」とある。記者の署名はないが、男性と思われ、記事(13)では自ら女性に中絶させた経験がある男性である。写真や本文中に登場するのはやはり「少女」など若い女性が多いが、読者層自体を若く想定しているようでもある。

 

中絶と水子供養の物語

 記事の本筋は、男女と水子の「悲しい人間ドラマ」である。記事(13)は記者と相手の女性との出会い、性交渉、妊娠告知、中絶後までの会話と心理描写を水子寺紀行に挟み込んでいる。記事(22)は「『堕ろせよ』『ええ』 簡単な会話で露のように消えてしまった命」というように、男女の架空の会話を想像する。1978〜1983年には中岡俊哉や杉浦公昭などの代表的な水子供養布教家が、水子霊の祟りや怨みを脅迫的に強調し、供養の方法を指導する水子本を刊行するにもかかわらず(1)、それには手を染めず、女性の心情を題材とする独自の路線を歩んだところに、女性週刊誌の視点がよく表れている。記事(23)には、地蔵寺の住職の話として、中絶が子供に影響した事例を伝える部分があるなど、前二者と少し傾向が違うが、重点は「女ごころ」にある。
 これらの記事、あるいは記事に登場する架空の男女の会話は、中絶する女性の悲哀と悔恨を示している。記事(13)は「母になれなかった女性たちが供えた香華、オモチャ、牛乳が悲しい」と記す。男性の背信と女性であることの苦しみにも目を向ける。「なぜ、女だけがこれほどの苦患を舐めなければならないのだろうか。絶対にこれからは男など近づけるものか、と思ったという」。この記事は中絶には事情があることを示すものの、「しかし、自分の行為を政治や社会のせいにしたり、他人のせいにしてごまかすよりも、祈ることで自分自身の心が凝視できるなら、水子地蔵に合掌して泣くべきだと思った」と、最後に中絶の責任を自ら引き受けることを求める。
 記事(22)は「『平気、平気』といくら強がっても、堕胎の白い眠りからさめたときから、女の心と身体の中には、とりかえしのつかぬ悔恨と哀しみがふくれ上がる」と、中絶を経験した女性の悲哀を自然のものとする。この女性は「赤ちゃんごめんなさい、ちゃんとお星さまになってね」と祈る。地蔵像の前の「あどけない少女」の写真には、「赤ちゃんさびしかったでしょうね。みんなと一緒になれてよかったわね」と想像上の言葉を付ける。こうして「母になれなかった女」は水子に謝罪しつつ、他人事のようにその冥福を祈るという一見矛盾する心情を吐露するのである。
 記事(23)の前文は、「ましてや、突然親の手で生命を絶たれた胎児の驚きと哀しみを、なぜ母親は思わないのか」と書いて女性を責めながら、その直後に、「その子たちの声が、その声に血を流す親の思いが、ああ、いま、水子地蔵の姿となって」と続け、一転して女性に同情する姿勢も見せる。記事には「己の命を絶ってまで、母の幸せを願った霊よ!安らかに」のように、水子が母親のためにあえて犠牲になったとする表現が何度となく出ており、水子寺の住職の一人も同趣旨の言葉を述べている。このかなり強引な解釈により、中絶は流産のごとく扱われ、それだけ女性に同情する余地も生じる。水子が自ら犠牲になったとすれば、記事のなかで女性が水子に謝罪するとともに、「安らかに」と気遣うのは自然である。「ひとつひとつが母親の血の涙で建てられた小さな水子地蔵たちの無言の喜びの合唱」「その無心のひとつひとつの顔が、親の愛を得た赤ん坊のように、満足そうにほほえんでいるかに見えるのである」と、記事は地蔵像に姿を変えた水子が親の願いに応えることも暗示する。 

2)杉浦岱典(墓石業者・墓相学者)『水子霊 生命とは、あくまで尊いもの』(みき書房 1978)、中岡俊哉(超常現象研究家)『水子霊の秘密 強運を阻む』(二見書房 1980)、佐藤玄明(天台宗僧侶)『救いを呼ぶ水子霊 してよい供養、してはいけない供養』(徳間書店 1982)、杉浦公昭(杉浦岱典)『恐怖!水子霊の謎』(ダイナミックセラーズ、1983)などがある。全て新書判で、この順に次第に装丁の字句、絵柄、彩色が派手になる。『水子霊の秘密』と『水子霊の謎』の各々の装丁に書かれた誘い文句は、「闇に葬られた小さな命の怨念があなたに原因不明の不幸をもたらしてはいないか!?いかにしてこの霊障をとりさり元来の幸運を呼び戻せるか!」「人工流産、自然流産に限らず、闇に葬られた水子は、年回に災いを起こす。人生の幸運をつかみ、水子の災いから逃れるためには、どうすればいいのか!」とほとんど同じである。両者は仏教的・民俗的観念に心霊的・卜占的要素を折衷し、不運と幸運の現世利益に作用する水子霊の「秘密」「謎」を説き明かす。

水子供養記事の機能

 1950年代後半以降、女性雑誌、正確には女性週刊誌の中絶記事は、中絶に批判的であるだけでなく、同時に女性の心理に訴えかけて、多少の慰めを施してきた。これらの記事は実際の中絶経験者、もしくはその予備群の女性に、中絶という出来事を意味付け、感情を整理する手立てを伝達し、暗黙に実演させる機能を潜ませている。しかし、この時期の水子供養記事は今までの中絶記事とは異なり、中絶に伴う特定の感情を水子供養において表現することを教える。
 記事(13,22,23)に登場する言説のなかで中心となるのは、「母になれなかった女性たちの慟哭」である。中絶記事(4)も母になれない悲しみについて語っているが、これらの記事では強い主張として前面に押し出されている。今や胎児は「魂なき生命」ではなく、十分に魂を獲得しており、中絶関連記事は中絶が胎児に与える影響を強く意識するに至る。そこから供養の必要性の自覚も生じる。個人の責任の強化は、それを回避して、消極的に抵抗するために出産を困難にする理由を意識させる。記事は水子寺に群れを成す水子地蔵像を「母になれなかった」ための悲哀の表れとして受けとってみせ、それを水子供養において証明することを静かに求める。中絶で子供を見捨てた女性は、母としての反省と哀惜を表現することを迫られている。
 記事は中絶を殺人のように扱いつつも、水子供養で具現される母になれない悲しみに同情や憐れみを与え、それを悲劇の情緒を漂わせて美化する。読者は水子供養という形式のなかで母としての悲嘆の義務を流儀に則って果たすことで、中絶で危機に瀕した現実を再構築し、中絶に発する事態を新たな現実感をもって受容する可能性を与えられる。物語や旅もまた現実認識の破壊と再創造を目指すことを理解すれば、これらと水子供養の結合は不自然ではなくなる。水子供養を演出する感傷や叙情の過剰な言説も、現実から遊離して体験する非日常的気分をかきたてる効果を持っている。このように記事は中絶の体験を否定的に描写するだけでなく、女性雑誌なりの恣意的な慰めを押しつけているのである。

 

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