2−2.妊娠中絶の発見期(1949〜1966)

 

戦後初の中絶記事

 第二次大戦後の最初の中絶関連記事(1)は、1948年の優性保護法施行後も煩雑な手続きのために、まだ「新中條」=闇堕胎に頼る人が多く、堕胎が公然と流行していると伝えている。その最大原因を敗戦、月給安、食糧難だとする。新中條の手法を「インチキ」と呼び、危険であるとするものの、他人事のような気楽な調子で報じている。      
 1949、1952年と優生保護法の2度の改訂を経て、公式統計上、年間中絶件数が最高に達する1955年に、受胎調節と中絶の実態調査に関する報告が月刊誌に3本出る。産児制限の試行錯誤中である。
 記事(2)は厚生省の役人、医師、家族計画団体関係者など5人の専門家からコンドーム活用の是非に関する意見が寄せられ、資料も得ている。産婦人科医が、簡単に中絶し、受胎調節の方法や中絶の身体への影響を教えないと嘆き、海外から「堕胎の日本」と注目されているとする一方で、急激な人口増加により産業の振興が妨げられ、入学難、就職難、生活難が起き、最終的に社会が大混乱することを懸念する。結論として、コンドームが一番便利で完璧に近い避妊ができると利用を勧め、入手の困難を考慮して当局や政府による無料配布を提案する。
 この記事は「闇から闇へ葬られ」「陽の目を見ないで葬られ」という中絶表現の常套句を使い、見出しで中絶された胎児を「亡霊たち」と呼んでいるが、それはまだ実体のない比喩である。「テイーンエイジヤーの無軌道振り」と、早々に10代の活発な性交渉を気にして付け加えている。過去の嬰児殺しと今日の中絶を比較し、「時代科学の推移による変化」と述べ、中絶と「科学」を結ぶ見方を示している。

 

堕胎天国ニッポン

 公式統計上、年間中絶件数が減少を始める1956年以降、1970年代前半に優生保護法の改訂に関わる論議が起きるまで、中絶関連記事のほとんどが、明に暗に中絶に対する否定的感情を煽る報道にこだわり、読者の興味を惹こうとする。1958〜1961年にその第一弾として出る中絶記事は、「堕胎天国ニッポン」「中絶天国ニッポン」を標語に、中絶を現代日本的な風俗とみなし、否定的な論調で揶揄してみせる。
 比較的初期の記事(3)は、前半で産婦人科医の話をもとに中絶する女性像を描写する。最初に言及するのは、2度目の中絶にも悪びれず、1度目の事情を「ケロリとして」答えたり、妊娠を告げられて、「男の人なんかと、いっしょに寝たことはありません」と食ってかかったりする「奔放な気質」の女子高校生である。「人生への夢が、セックスに結びついてゆくんですね」「あの年ごろで恥ずかしがりもせず、それどころか食ってかかるような心理は、いったい」と医師の感想を続ける。この他に登場するのは、中絶手術後、電話で5人の男に料金を用立てさせるデパートの女店員、料金を彼氏と割勘するサラリーガール、代議士に連れて来られた銀座のバーの女給、里帰り中の幼なじみとの情交を夫に知られることを恐れる「面やつれした」中年の人妻、夫の浮気の面あてに浮気し「女の生理は悲しいものだと、つくづく思い知らされました」と話す33歳の人妻、子宮筋腫かもしれないと嘘をつく46歳の未亡人である。
 後半では、海外から中絶をかねて観光客が来る現状に、「“堕胎天国”といわれて差支えないようだ」と感想を述べる。中絶の弊害を指摘し、「人口問題、家族計画、性の解放などの諸問題」が絡み難しいがと留保しつつ、「有効な収拾の手をうつべき段階」との認識を示す。
 女性は既婚、未婚を問わず、「性の解放」のために夫以外の男性と性交し、その果てに中絶する。この題材は記事の最大分量を占め、今後の中絶記事や水子供養記事にも引き継がれている。女子高校生の事例を典型に、性の解放は若年未婚者の中絶を増加させるものとする傾向があり、その兆候は記事(2)にも少し現われている。
 中絶に対する態度には、女子高校生のように「奔放」に振る舞うことと、33歳の人妻のように「女の生理の悲しさ」を自覚することがある。「女の生理の悲しさ」には、嫉妬で浮気したが、「女の生理」のため妊娠して窮地に立たされる、女性の宿命的な悲しさという含意がある。
 見出しが「今日も消される6000のいのち」と衝撃的なわりに、胎児のいのちの心配は最後で「1日に5000人から7000人の生命が、陽の目をみずに消されている勘定」とするだけで、関心が相対的に薄い。記事は胎児のいのちの喪失より性道徳の乱れを興味本位でとりあげている。中絶の危険性の指摘は記事(2)にもあるが、「つめたい手術台」の写真が付されて、臨場感を増している。

 

病院の中絶現場

 1965年と1970〜1971年には、記事の目線がだいぶ下がり、産婦人科を舞台にした中絶現場の「ルポ」が登場する。「堕胎天国ニッポン」という対外的な視線を気にするほどの大きな状況のなかの、個々の具体的な中絶行為そのものの現実に目を近づけるようになる。目線の低下を促した推進力は、女性にとっての中絶の危険と恐怖を強調する題材に対する見世物を見る好奇の眼である。
 中絶ルポの初発の記事(4)の小見出しは、「手術台に上がる悲しい母の姿 非情の器具の光と白衣の医師 紙切れ一枚で失われていく生命」である。はさみや鉗子の器具類の写真に「魂なき命はこれらの器具が母から引き裂いていった」、堕胎児を包むナイロンと傍に置かれた人形の写真に「堕胎児はナイロンに包まれる」と説明が付く。
 前文で、読みとってほしいのは「みじめさ」だと前置きして、1人の若い女性が産婦人科で中絶手術する4時間を同情の視線と感傷的な文体で追う。
 病院に着いた女性は緊張して待合室で待つ。院長が診察の終わりを告げてから、ようやく唇を開いて中絶を願うと、院長の「職業としての冷厳な顔に、同情といたわりの暖かみがのぼる」。「中絶はいけない。殺人と同じと簡単に言えはする。しかし、だれが未婚で身ごもった上村喜代子に“生め”といえるだろうか?」。記事は女性が中絶同意書に記した男性の名前を偽名と判断する。「恋する女は、こんなときでも、愛する男をかばう」。妊婦服の女性が待合室でニコニコ笑っている。「その状況によって、女を悲しくも、幸福にもする妊娠」。 
 手術前に、「メッキのきらきら光る」手術台の白いシーツの上に皮バンドで縛られる。手術中、「ミューゾー!」「ヘガール!」「リューザー・カンシ」「キューレット」と「院長が鋭い声で命令する」。「ペリカンを伝って、黒味を帯びた血がするすると流れ出し、ベッドの下の真鍮性の皿に、一滴、一滴と音をたてて落ちる」。所要時間は7分である。手術後、女性は母を呼び求めて涙を流す。看護婦が「生命を奪われた二か月目の胎児」を封筒に入れ、ナイロンで包み、ダンボールに捨てる。女性は眠りから覚めて帰りたがるが、安静をとらされる。手術代の4800円を支払い、病院から帰る場面で記事は終わる。 
 記事は無機質な器具類と生々しい血や肉を対照して描写し、病院で起きている行為の女性と胎児にとっての残酷性を強調する。反面で、女性の男性への愛、事情による中絶の必要性、妊娠に左右される女性の運命を想像し、中絶する女性の「みじめさ」に同情する感傷的な物語に仕立てて、残酷な印象を多少薄めようとしている。雨のなかをピンクの傘で顔を覆い、坂道を登って病院に向かわせ、帰りには「まぶしい」日ざしの中を傘を忘れ、うつむいて坂を下りさせるというふうに、心配事に一応の決着をつける女性の屈折した心理を天候に反映させて舞台を演出するなど、芸が細かい。中絶する女性のみじめさは、男性外部者による身体への干渉を無抵抗に許す恥辱で、ここには、女性ゆえの悲しさが色濃く滲み出ている。

 

悲しい母

 「その状況によって、女を悲しくも、幸福にもする妊娠」として、女性は妊娠により人生を左右される存在であるとされる。
 この言葉には出産が女性の自然の喜びであるという前提があり、中絶がその喜びの享受を妨げるとき、女性はもう一つの悲しさを知ることになる。記事は、女性はできれば産みたいが、事情で産めなかったと理解し、「悲しい母の姿」のように、母としての女性の感情に言及する。中絶は愛する男性の子供を産めないという母になれない悲しさももたらし、子供の生命と同時に母になる女性の幸福を失わせる。この「悲しい母」の言説は今後の中絶記事や水子供養記事においても重要な役割を担い続ける。 
 未婚女性をとりあげることと、手術後の院長による、中絶は私生児に対する社会的偏見のせいだとする話を載せることに、中絶を性と婚姻の分離に関連づける定型化が見てとれる。胎児の物理的な肉体や汚物処理業者を初めて登場させ、胎児への関心をやや強めているが、なおまだ胎児は「魂なき生命」でしかなく、その供養や葬儀は記事の考慮外である。産婦人科医も中絶記事の重要な登場人物の一人であるが、ここでは、収入のために「非情の器具」を操る「白衣の医師」の姿と女性を思いやる姿と二面的に描かれている。

 

妊娠中絶の発見

 1957年と1966〜1972年に、中絶の結果としての女性の死や、不妊などの後遺症を訴える見出しの記事が出ている。当時の中絶記事で、中絶の女性に対する危険や恐怖が主要な題材の一つとなっているのがわかる。この時期に、これらの悪印象が一般的に定着したと言ってもいいのではないだろうか。文芸評論家の斉藤美奈子は、1950年代前半は中絶が恐怖や罪悪の予断にまみれていない、つかのまの空白期間で、1955年前後の「肉体脅かしキャンペーン」により中絶=危険の「常識」が固まったとみている。そして、「公の犯罪」「自殺行為」としての堕胎が「妊娠中絶」と呼び名を変え、「私的な犯罪」「肉体への危機」と再編される「妊娠中絶の発見」があったと指摘する(1)
 「妊娠中絶の発見期」の中絶記事は、中絶手術の現場である病院を通して、中絶という行為における女性の肉体への危機を発見するだけでなく、中絶(出産)する女性の医学的・生理学的な身体、「科学的事実としての『女性』」(2)を強烈に認識する。歴史的な観点から言えば、これは出産の私事化の身体意識における反映であり(3)、女性の身体が個人の所有・管理する対象として自他において明確に意識されるようになったことを意味する。1970年前後以降、白熱する中絶論議での個人の権利や責任の主張は、以上の認識と意識を基礎に成立するものであると考えられる。

1)斎藤 1994,48〜50頁。斎藤は日本の近代小説のなかに「望まない妊娠」を扱った分野を見いだして「妊娠小説」と名づけた。妊娠小説の歴史と変遷、その物語構造を皮肉混じりの口調で分析し、小説領域での妊娠、中絶、胎児、関係者にまつわる言説を教えてくれ、たいへん参考になった。

2)ドゥーデン 1993,20頁。

3)中川清も、中絶手術は「母性」を「家」から切り離し、その経験を通じて女性は具体的な「自分の体」に直面したと類似の指摘をしている(中川 1993,285頁)。

 

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