4−5.宗教的原理

 

真宗僧侶の水子供養解釈

 浄土真宗の寺院では、功徳を死者に振り向ける回向を否定するので、水子供養の狭義の意味、追善供養としての水子供養を行なわない。そこで、他宗派の僧侶が水子供養に与える宗教的な意義付けを記述する前に、別個に真宗の僧侶による広義の水子供養の解釈をとりあげたい。
 真宗の僧侶は追善供養を否定するだけでなく、霊や魂についても語ろうとしない。死者はどうなるかと尋ねても、誰もが成仏して極楽浄土に行くと簡単に答え、死後に関心を向けていない。真宗では水子に関する法要でも他の人間に関する法要と同様に阿弥陀経を上げるが、それは回向のためではない。
 真宗の僧侶は、水子に対する法要の意義を次のように説明する。「悪という意味ではなく、間違っているというわけでもない。罪悪感が残っても、気づけば救われる」(53)「その子が私を命の大切さに目覚めさせてくれた。私が勝手にしたが、この別の人間の命、別の命を葬ってしまったことを苦痛に思うのでなく、一つの死を縁として、命の大切さ、みんなに助けられている、生かされているという心の持ち方をして、逆縁として、仏法に出会っていく」(54)「私自身は他の力を借りなければ、命を殺さなければ生きられない。生かさせてもらう。そうしなければ生きられない人間の罪を自覚していこう」(55)。
 この論理では、中絶後の罪悪感を水子の供養に向かって流れさせるより、外界よりも自らのあり方に関わる事柄として自覚させて、これを契機にすぐさま信仰へと積極的に導いていかせようとしている。真宗では供養自体を行わないのだから、中絶の問題点は殺生それ自体か生命一般の軽視、せいぜい中絶する態度に絞られ、供養をしない態度、霊障や仏罰にまで広がることはありえない。本人が信仰を自覚することの重要性を中心に語り、他宗の僧侶のように中絶を禁止する言説を幅広く述べることはない。

 

霊魂に関する一般論

 真宗以外の僧侶は、真宗の僧侶と比較すれば、多少とも水子霊の安寧に言及して関心を寄せて、供養の目的を説く傾向がある。胎児の生命が奪われても、水子の全てが消失するのではないという前提で、水子供養は行われている。胎児のころには生命と呼んでいたものは、水子になると霊や魂になるが、日蓮正宗では生命と呼び続ける。僧侶が死後の世界や霊魂の存在に懐疑的な見解を示す場合でも、完全に拒絶するには抵抗がある(37,80)。
 出生後の人間の霊魂と水子の霊魂の本質は基本的に変わらないとして、僧侶は成仏と輪廻の観念を中心にして水子の死後の行方を説明する。霊魂の究極の目標は輪廻を脱して成仏することであり、それは追善回向により促進される。回向の効果についての評価は、宗派によって成仏をするのかと輪廻を続けるのかのどちらに重点を置くかで明確に分かれる。真宗の僧侶は阿弥陀仏による無条件の救済を前提としたうえで、それへの帰依を求める。浄土宗では多数の僧侶が、水子霊は供養により極楽浄土に必ず行くと説明する(30,31,32,34,35,36)。このように浄土系宗派の僧侶は死後の世界を極楽往生で完結させやすいが、他宗派の僧侶は回向したときでも、六道や十界の輪廻を説く傾向にある。その典型が日蓮正宗で、生命は過去現在未来の三世にわたり永続するとして、過去世の因縁が現世を、現世の因縁が来世を決定するという強烈な宿業論を展開している(153,154)。
 僧侶が宗教的な現象について与えた上述のような説明を、自ら信頼する度合は、日頃からそれらを考えて質問に即答するときと、質問に対する回答を迫られて初めて考えをめぐらすときでは異なるはずである。仮に即答するときでも、単に教義や信仰上の知識として建前の意見を表明するだけで、実際にはその意見に現実的な妥当性をそれほど付与していない可能性もある。そのことには十分に注意しておかなければならないだろう。例えば、真宗の僧侶による水子の行方の説明を例として挙げることができる。真宗以外の宗派の僧侶が「仏教では輪廻。全部輪廻」として、仏教の権威に拠って簡単に輪廻で片付けるのも同様である。

 

妊娠中絶の災因論

 中絶行為と、その当事者である女性に降りかかる生活上の災難のあいだの宗教的な因果関係は、「水子の祟り」「霊障」をはじめ、水子供養についての大衆的な言説の中心的な論点となっている。多数の僧侶は中絶による宗教的な因果応報をはっきり拒否するか、緩やかに否定する。真宗、浄土宗、曹洞宗の僧侶は特にそうである。無論、なかには肯定的な見解を示す僧侶もおり、さらに一部の僧侶はこの原理を人生相談で応用し、依頼者に水子供養を指示している。災難の直接の原因は水子霊の不安定な状態と中絶の引き起こす悪業とされている。

 

中絶による子供の災厄

 人生相談を通じて水子供養に積極的に関わる僧侶の言葉には、共通部分が多い。著しく顕著なのは、中絶の結果として、依頼者の子供、すなわち水子の兄弟姉妹に様々な問題が発生するという説明である。その原因は水子霊であることも、罪障因縁であることもある。普通の僧侶はたとえ水子霊の祟りを肯定しても、生じる不幸の内容を特定せず、これを説くことはめずらしい(33,87)。高島姓を名乗る易断師(178)も同様に子供の問題を強調しており、影響が子供に出るというのは水子供養の世界ではかなり専門化した知識であると言える(1)。自分の意見としてでなく、依頼者は誰かにそう言われるらしいと伝聞として語られることもあった(11,36,86)。
 子供に関係する現象として具体的に挙げられるのは、登校拒否、非行、家庭内暴力、病気、特に精神的な病気、怪我、婚期の逸失、次の子供の障害、女性の不妊である。登校拒否、非行、家庭内暴力などは1970年代以降、社会的に注目を集める問題であり、この部分についての歴史性は明らかである。子供の問題以外には、女性の病気、特に下半身の病気、男性の勤労意欲の減退、離婚等の家庭内問題がある。僧侶は男性への影響を全く無視するわけではないが、中絶責任の所在の場合と同じように、男性よりも女性のほうが水子に深い関係にあるとして、第一に女性への影響を念頭に置いている。このため父母の中間にいるはずの子供に災厄が現われるときも、女性が原因であると意識されやすい。
 また、女性の出産する役割だけでなく、それに子育てする役割も絡み合って女性と水子供養を結びつける。近代の性別規範では子供に生じた問題を一身に引き受け、その解決に尽力するのは母親の役割であり、ここから宗教的原因を想像して祈祷師に相談するという行動が導かれ(2)、中絶しても懺悔しない女性の心が子供に悪影響を与えるとする僧侶の解釈が出て(27,161,162)、さらに、子供としての水子の世話が期待される。

1)密教系の新宗教である阿含宗でも子供に現われる水子の霊障を説いている。子供の問題を重視する僧侶の言説は、間引きや堕胎の結果、神々の罰として産褥死や不妊など再生産の障害が発生すると主張する国学者の言説が、中絶件数の増加という事態に直面して活性化したものであるのは間違いない。再生産に不安を抱える当時の女性は、今日よりも水子の祟りに強い恐怖を感じていたため、地蔵に熱心に祈願を捧げることを促されたとラフレーは記述するが(LaFleur 1992,P.126〜128)、ラフレーは神々の罰と水子の祟りを混同しており、また一般の民衆が国学の観念を共有したとも思えない。

2)家族内の問題処理にあたる主婦の役割と女性の宗教行動の関連については、井桁 1992;1993、いのうえ 1988;1993など最近の新宗教研究で少しずつ論じられている。

 

因縁と罰

 水子供養に積極的に関わる僧侶は、たいてい中絶の因縁と水子の霊障を合わせて主張する。また、両者を必ずしも厳密に区別しないこともある。僧侶(27)は供養に導くための方便として水子霊の祟りを説くものの、「実際憑いているかどうかはわからない。祟りでなしに、因縁として人を殺したら自分もそうなる」と言い、因縁を重視する。「水子の催促と思っても、腹立ちと思っても、業の報いと思ってもよし」と、僧侶(162)は災難の 直接の原因を特定しないで、とにかく中絶の結果として災難が起きることを説明する。水子供養の除災招福の側面に限ってみても、僧侶の言説は宗教的に多様な要素を内包しており、単純に御霊信仰の伝統だけでは理解できない。
 全体的に見て、僧侶は中絶が不運に至る原因について、因縁や罰よりも水子霊の状態を参照しながら説明する傾向にあり、それだけその言説の分量も多くなる。これに付随して、中絶の影響が子供に現われる過程も因縁や罰からではなく、水子霊の状態や心情からしか解釈されないのは注目に値する。

 

水子の「頼り」と「すがり」

 水子霊の影響を語る僧侶の関心は、その影響を表現するため言葉、水子霊の心情、水子霊の状態にある。
 大衆雑誌や水子本などの大衆媒体は、中絶された胎児の憎悪に現実感を与え、女性の罪悪感を煽り、宣伝の訴求力の増大を企てるため、水子霊が怨んでいるという主張を前面に打ち出すが、僧侶はしばしば水子霊の影響を相対的に穏やかに「頼る」「すがる」「訴える」という行為として表現する。供養件数が少数の寺院の僧侶は「祟る」「障る」で満足するが、子供への影響を主張する僧侶は、かえってこれらの典型的な表現をあまり好まない。「祟り」が敬遠される理由として、それは神仏の怒りを表すものである(130,134)、言葉の脅迫的な響きが嫌いである(133)などがある。細かい言葉の選び方には僧侶で多少違い、同一の僧侶が異なる言葉を使うこともある。霊の影響を表現する言葉に対するこだわりは水子供養に特有のものではないが、それは水子供養に関する言説に重要な要素として組み込まれている。
 水子霊が女性の周辺に不幸を感じさせる出来事を招き寄せるのは、悪意のためでなく、「信号」(23,134)を送り、自らの苦難の状況に目を向けさせるためである。僧侶は水子の行動に正当な理由を与え、水子を擁護する。その信号が無視されるときには、水子霊の祟りや怨みが発生することもある。「 邪魔してやろうという霊はない。人間に頼ることがある。頼り、すがることがある。それを祟りととらえる。祟りではない。頼りは放っとけば祟りになる。そんな馬鹿なとなる」(132)「水子の霊で祟るはない。ただ自分の存在をわかってほしいという訴えがいろんな現象になって出てくる」(133)。
 水子霊の頼りやすがりが強調されるとき、問題になっているのは供養しないこと、水子に配慮を示さないことで、中絶された水子霊の怨みや嫉みの調子は薄らいでいる。
「事情はあると思う。後の対処というか、後の考え方。心遣いというか」(133)「申しわけないと懺悔の気持ちを持っているから、水子もそれに応えると思う」(134)。
 両親の助けを求めて信号を送ることに、中絶の水子と流産の水子に違いはない。水子霊の頼りやすがりを主張するときにも、水子霊の怨みや嫉みを一緒に説いたり、その肯定と否定のあいだを揺れ動いたりする。反対に、水子霊の怨みや嫉みをはっきりと口にするときにも、それを供養の要求として把握する(131,166)。易断師(178)は僧侶と違って水子霊の祟りや怨みを遠慮なく告げ、子供への影響を過激に表現するが、その代わり、中絶の水子霊だけをとりあげ、流産や先祖の水子霊を問題にしない。

 

子育てとしての水子供養

 僧侶は水子霊を生きている子供と平等に、両親、特に母親の愛情と保護を必要とする存在として描き、その水子霊の特性は、自らの存在と境遇を訴えるために兄弟姉妹にあたる子供に影響を及ぼす理由の解釈で顕示される。
「親のエゴで差別して、残った子に何もなく育ってほしいというのはおかしい」(132)「元気に育つ子には金をかける。何故私たちには供養してくれないかという思いがあるという」(134)「この世に出なくても子供は子供。生きている人と同じにするのは大事なことだ」(161)。
 水子霊は子供の変調を通して最も効果的に自己主張できると、僧侶は理解する(3)。「子供を育てあげるという意識からきている。子供を育てない親だから罪になる」(11)。水子供養は水子を人格を認められた子供として世話することであり、擬似的な子育てである。

3)国学的な再生産の視点はほぼ消失してしまったので、災禍が子供に降りかかる理由に新しい解釈を施されることになった。その解釈では子供の問題は母と子、あるいは母と水子の関係のなかにたいてい収斂している。  

水子の行方

 こうした供養されない水子霊は輪廻の過程において人間界以下に落ちていったり、この世で迷い、彼岸に到達できなかったりするので、供養により浄霊したり、成仏に導いたりすることが期待される。水子霊を実体視する僧侶が、胎児は娑婆で悪い業や念をつくっていないので、水子霊は成人霊よりも成仏しやすい、あるいは霊障が弱いと説明することもある(1,122,133)。僧侶(131)も成人の死霊や生霊のほうが怨みが強く、悪い霊波を与えると述べつつ、生命を絶たれたほうが怨みが強いとも言いなおす。霊媒を介して除霊成仏させる修法師(122)は成人霊には思いがあるが、水子霊には意識がなく、口も聞けず、丸まって出てくると述べ、別の水子観を提示する。
 輪廻の脈絡で、水子回向に先祖回向と少し異なる意義付けが与えられることがある。中絶に関する言説で見たように、水子は自らの宿業のためにこの世に誕生できず、仏縁を結ぶことができなかった。このため、供養により水子の宿業を良い方向に変えて、人間として出直しさせねばならない(4,23,131,154,165)。「この世に生まれなかったのは水子 の業。両親への縁が薄い。その結果なった。悪い縁を断ち切り、善根を積み、来世にこの世に生まれるように供養する」
「水子は題目を唱えていない。また生まれなおして唱えられる立場になりなさいと願いを込める」。
 僧侶(131)は供養による水子の人間界への再生と同時に、供養による成仏や浄霊も説いている。僧侶が語る水子供養や中絶に関する言説には、宗教的にも世俗的にも雑多な要素が組み込まれており、一見して相互に矛盾する部分が多い。

 

水子の再生と開運招福

 人間界に水子が再生するという輪廻説には、幼い子供は死んでもすぐに再生する、または賽の河原を経て戻るという民俗説の影響を推察できるが、民俗説自体が語られることはほとんどなかった(3)。水子供養で地蔵像や賽の河原地蔵和讃を利用するときでも、僧侶は地蔵を子供の救済者として漠然ととらえるだけで、水子の再生までは想像が及ばない。「水子は彼岸に行けないのでは。形も何もないので」(81)という発想は、水子を成仏以前の状態にあると見る点で、賽の河原の思想と共通しているが、再生観とは直接の関係はない。
 唯一、寺院(134)だけが地蔵を媒介にした水子霊の再生をかなり意識して、水子地蔵尊大祭を実施している。修法師の住職は、依頼者は子供の成長や子授けの祈願を目的に来て、水子供養により授かる子供は水子の生まれ変わりかもしれないと説明する。この寺院での水子供養はただ水子の再生を促すだけでなく、「開運子育水子地蔵尊」という地蔵の名前に明確に示されるように、子安祈願や開運祈願としての性格も帯びている。中絶の宗教的影響は子供に出るので、それを防ぐための水子供養には子供を中心にした厄除け祈願の意味がある。開運子育て祈願はその裏返しで、供養の功徳を積極的に活用する試みである。大祭では地蔵像の体内に奉安した水子霊を祈祷で浄めることで、その負の力を正の力に変換し、それを地蔵の霊験と合わせて、諸願成就を祈念する(事例8)。
 中絶は胎児の生命を消し去るだけでなく、宗教的な秩序を混乱させる罪であり、その結果、因縁や神仏の罰として不幸を招くことになる。水子供養と関わりの浅い寺院の僧侶が水子霊の祟りを「迷信」と拒否しても、仏教的に「因果応報として」、上の説明を支持することもあり(124)、この傾向は日蓮正宗の僧侶に顕著に見られる(154)。依頼者は水子供養の実施により功徳を積んで、中絶の罪障を消滅させる。寺院(134)の水子地蔵尊大祭で顕在化する厄除け開運祈願の性格は、一般の寺院の水子供養にも明らかに備わっており、供養の功徳を水子に回向するに先立ち、身体健勝や家内安全など諸願成就を祈念する(事例1,5,7)。

 

次の章に進む

トップページに戻る