5 仏教僧侶と大衆雑誌 言説の比較考察

 

比較の対象

 この第5部では、第2部と第4部で記述した大衆雑誌の水子供養報道とA市仏教僧侶の水子供養解釈について、比較を試みたい。僧侶については妊娠中絶に厳格で水子供養の必要性を強調する僧侶を、大衆雑誌の水子供養記事については女性週刊誌を想定して進めることにする。
 比較の焦点となるのが、中絶は誰の責任となるのか、そして、それは水子供養とどう関係しているのかということである。これらの点は、依頼者が抱く罪の意識という重要な問題にも関わるものである。
 

僧侶の言説

 僧侶は中絶の原因と結果を次のように解釈し、判定している。
 中絶の原因は中絶する当事者の意志や態度、当事者をとりまく社会的状況、さらに当事者と水子にもたらされる宗教的な宿命である。中絶の結果は胎児の生命の剥奪、自然の摂理や宗教的な秩序の混乱である。水子供養はこれらの原因や結果のなかに存在している宗教的・世俗的な問題点を解消する営為である。
 中絶は教条的に禁止されるべき行為ではないが、慎まれるべき行為である。その実行には何らかの責任が伴っている。中絶は個々の胎児の生命を奪うのみならず、それを産み出す自然の摂理や神仏の秩序に混乱を招き寄せるからである。この結果、霊障や因縁から発生する災禍が中絶の当事者やその家族を襲うことになる。中絶の当事者として女性や男性は中絶に至った諸事情に応じて中絶の結果に対する責任を負わねばならない。
 中絶の理由が利己的であるとき、非難は強まり、中絶の責任は増大する。非難の対象となるのは殺生自体だけでなく、中絶した女性の心や態度である。胎児の生命よりも物質的な欲求や性的な欲求を優先して中絶することは身勝手である。これらの当事者の都合による中絶は現代に特徴的な現象である。中絶で罪を犯したにもかかわらず、水子供養を行なわないのは二重の罪であり、中絶の責任はもっと重くなる。
 やむをえない事情で行なわれるとき、非難は弱まり、中絶の責任は軽減される。やむをえない事情とは女性の健康、経済事情、障害児が生まれる可能性などである。中絶する女性や中絶される水子にそうなるべき宿業がある場合、中絶の責任は分散される。反省した態度で水子供養を実施すれば、中絶の責任はもっと軽くなる。
 妊娠中絶は望ましくない行為である。したがって、中絶する女性の主体的な関与の度合いが大きな意味を持っている。つまり、「産めない」のか「産まない」のかが問われるのである。しかし、当然のことながら当事者である女性と僧侶のあいだで、理由付けに対する評価は違ってくる。中絶する理由を「産めない」と「産まない」に分ける唯一の正しい基準が存在するわけがないので、僧侶のあいだでもかなりの幅が現われる。

 

大衆雑誌の言説

 僧侶と同様に、大衆雑誌の水子供養記事も基本的には、中絶は胎児の生命を奪う残酷な行為であると論調が目立っているが、他方、女性週刊誌には1950年代後半から1980年代まで一貫して声高に繰り返される特徴的な言説がある。女性の生理の悲しさを訴えるものと、母になれない境遇の悲しみを嘆くものである。 
 前者は女性の中絶する身体自体が中絶の一因であることを示唆している。僧侶による宗教的な宿命論と同様に、性に基づく宿命論は、女性に男性や社会への葛藤を抑えさせ、解消させるとともに、中絶の身体的心理的苦痛を諦めさせるものである。 
 後者の「母になれない悲しさ」は、中絶した女性は出産する希望を持っていたが、外的な要因により阻まれたのだということを仮定している。女性は妊娠に人生を左右される存在であり、妊娠する女性は母になる者と母にならない者のどちらかに社会的に分類される。女性にとって中絶することは不幸であるが、出産して母になることは幸福である。母になることが女性の自然の喜びであるという前提は、「母性」によって概念的に補強される。女性週刊誌の記事は、水子供養を母になれなかった悲しみの表現であると同情的に解し、その証明として暗黙のうちに勧めている。読者の立場への配慮を織り混ぜ、中絶する女性に対する同情と共感を求める物語を生産している。
 女性週刊誌の記事は、中絶を産めない中絶と産まない中絶に分類する図式に、出産を女性の社会的立場と関連させる図式を明確に重ね合わせているために、前者の図式における二つの態度が「母になれない」と「母にならない」に変化する。ここから母になれない悲しみを語る言説が発生する。僧侶も水子供養を擬似的な子育てと同一視し、上の二つの図式を共有しているが、前者の観点から中絶に対処する傾向が相対的に強い。

 

二つの言説の比較

 出産や中絶を含めて生殖に関する選択は個人的な意志だけで決められるのでなく、広い社会経済的な状況の統制を受けて行なわれる。最終的な選択が当事者に委ねられるとしても、真に主体的な選択をとることはほとんど不可能である。僧侶と女性週刊誌の記事の両者とも中絶に何らかの責任が発生することを前提としている。そして、異なる観点で、複雑に絡み合う要因のなかから、当事者である女性と男性など一定の範囲に対して、責任を配分し、謝罪と補償のために水子供養に導くのである。
 僧侶は女性に中絶する意志と供養しない態度を認め、頼りや怨みなど水子霊による供養の希求を代弁することにより、やや強引に母親としての行動を促す。これに対して、女性週刊誌の記事は女性の母になりたい希望と出産を困難にする状況を仮定し、水子供養の自発性を示す。そこでは、産めない女性は母になれない悲しみを、産まない女性も女性ゆえに自然に湧き出る後悔の悲しみを抱いている。
 僧侶と女性週刊誌の記事の両者にとって、水子供養は胎児の生命と人格に対する親として、また母としての配慮と愛情の表現である。それは中絶における女性の態度として「産まない」を「産めない」に、「母にならない」を「母になれない」に象徴的に移行させる力を含んでいる。僧侶は女性に懺悔と改心の気持ちで供養をすることを求め、言いわけの気持ちで供養することに反対するのだが、結果的に女性週刊誌の記事は供養を通じて自他に向けて中絶を弁解し、自らの置かれた状況を再解釈できる可能性を示した。それに沿えば、供養の場面では自責の念や悲しみだけでなく、中絶せざるをえなかった事情への不満や責任転嫁の感情も出すことができる。 

 

妊娠中絶と水子供養の関係

 一般的に依頼者は、中絶の選択に対する責任の発生と水子供養によるその軽減が準拠する規範、例えば、上述のような生と性をめぐる規範の恣意的な押しつけを受け、そのある程度の内面化により、中絶の選択に対する罪責感の発生と水子供養によるその軽減を経験する。それゆえ、水子供養をする依頼者は、規範の内面化の程度に応じて、罪の意識の増加と軽減を経験すると同時に、その規範の承認と再生産、その再生産を可能にする水子供養の承認と再生産に加担していると考えられる。したがって、破綻した母子関係を回復し、中絶の罪責感を軽減させる水子供養の社会心理的機能を単純に評価するだけでは、その特性の一面しかとらえていない。
 他方、女性学の研究者は、女性の中絶する権利と自由を主張し、水子供養を敵視しているが、彼らが受ける印象ほどには、仏教寺院による水子供養と中絶の禁止は必ずしも同一のものではない。僧侶と大衆雑誌の記事は権利としての中絶には納得しないが、条件付きで容認し、同情もする。中絶の残虐性と水子霊の恐怖を声高に喧伝する場合でも、水子供養は生活上の不運の解決だけでなく、転じて幸運の招来を保障する手段となる。水子供養は中絶の結果に対する謝罪と補償として比較的容易に通用し、両者はある意味で相互に補完的な関係にある。
 以上、仏教僧侶と大衆雑誌という二つの言説の比較から、妊娠中絶と水子供養が矛盾ではなく、組み合わせとなりうる理由が明らかになった。水子供養は「産めない」「母になれない」状況を事後的に想定させることにより、過去の中絶の罪を埋め合わせ、当事者である女性の責任を軽減する。その場合、水子供養で当事者が水子に行う謝罪は、中絶行為そのものに対するものだけではなく、そうせざるをえない状況から水子を守れなかったことに対するものとなる。そうであれば、当事者の感情は自然流産をしたときにかなり近くなるのではないだろうか。こうした関係が成り立ちうるのは、現在でもなお胎児は社会の成員としての人間カテゴリーから外れた中途半端な存在だからである。

 

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