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 車両編2/3


1400形
 『鉄道ピクトリアル』によれば、1400形は、1969年(昭和44年)に全廃とあるので、和泉多摩川に住んでいた頃に乗ったことはあるはずだ。でも、明確に1400形と認識して見たのは、1974年(昭和49年)のことであった。全廃後にどうして、と思われることだろう。
 実は、2600系の項で、『後年、経堂車庫で』と書いた後年というのが、このときで、経堂車庫に1400形のデハ1406が1両だけ『教習車』として残されていたのだ。その頃には、他の電車はすべて白に青帯の新しい塗装になっていたが、教習車の1400形は塗り替える必要もなかったのだろう、馴染み深い紺と黄色のツートンカラーのままであった。
 その後のデハ1406の消息は知らずにいたが、やはり鉄道ピクトリアルで確認すると、残念ながら1995年(平成7年)、解体されてしまったそうだ。そもそもデハ1406のいた経堂車庫自身、複々線化によって喜多見に移転してしまい、今は残っていない。

教習車1400形
経堂車庫にいた教習車のデハ1406。
教習車といっても、走行教習ではなく、電車の構造などの教習用だったようだ。
そのためか、主制御器、元空気溜などの床下機器やスイッチの類にまで、細かく名称が記されていた。


2200系
 1400形の次は、1600形や1900形などになるのだろうが、前に書いたとおり、『パパ電車』と呼んでいたことしか思い出せないので、省略して2200系へ。
 2200系は、1954年(昭和29年)に登場した小田急初の新性能車で、前面非貫通の2枚窓というスタイルであった。
 前面2枚窓としたのは、当時、いわゆる湘南電車スタイルが流行していたからか、2200系は新性能車だから、他の旧型車と併結しない(できない)ため、貫通扉は必要ないと考えたのか、そのあたりのことはわからない。
 ただ、子供心には「小田急は前に扉がなくっちゃ」という気持ちが強く、2200系を異端児扱いしていたのが正直なところだ。
 ところで、相互リンクをお願いしている『むーさんの鉄道風景』のむーさんから、甲府で2200系の保存車を見ました、というメールをいただいた。小田急からの譲渡先である富士急行で廃車になったものを、地元の企業が引き取ったのだそうだ。
 そのメールに添付されていた旧2200系の写真を見ると、なんと、あのなつかしい小田急の紺と黄色の姿に復元されている。早速、むーさんには許可をいただいて転載させてもらったのが、下の写真。

甲府の地で保存されている2両の2200系。
(2両は少し離れて保存されているとのこと)
光線の具合で2両の色合いが異なっているが、右側の濃い色のほうが原色に近いように感じる。
そして、下の写真は、同じくむーさんが1955年(昭和30年)に新宿駅で撮られた、新製間もないころの2200系。
モノクロながら、新車の匂いが漂ってきそうなくらい美しい。

新製間もない頃の2200系

 写真では見えないが、保存車は、車体に富士急行を表す『FKK』のロゴが入ったままだったり、行き先表示が『富士吉田行』となっているものの、何と言ってもこの色は小田急以外にない。引き取った企業は、日本システムウェア株式会社という会社だそうで、ここの担当の方が小田急ファンなのだろうか。
 2200系は、これ以外に本家本元の小田急電鉄でも保存されていて、意外にといっては失礼であるが、優遇された形式である。
 小田急の新性能車は、この2200系から2220系、2300系、2320系と発展していくのであるが、このあたりの形式も記憶がはっきりしないので、これまた省略。



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