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 別府鉄道路線図
地図

 『別府鉄道』 初めて読んだ人は、まず『べっぷ鉄道』と読んでしまうであろう。
 正式には『べふ鉄道』、もちろん大分県の別府温泉とは全く関係のない兵庫県にあった鉄道である。
 山陽本線土山駅から別府港までの4.0Kmと国鉄高砂線(昭和59年11月廃止)野口駅から同じく別府港まで3.6Kmの計7.6Kmのローカル私鉄で、それぞれ土山線、野口線と呼ばれていた。
 別府鉄道の社紋は、初めて見たとき、何をシンボライズしたのかわからなかったが、実は親会社の多木化学の社紋であり、就職してから会社の先輩に「あれは箒みたいだけど、実は鍬(すき)を現しているんだよ」と教えられた。
 親会社が多木化学ということや、別府港とを結んでいることからもわかるように、別府鉄道は貨物輸送がメインで、旅客輸送にお金をかけなかったせいだろう、古典的とも言える客車や気動車を長く使っていて、鉄道ファンには有名な鉄道であった。
 過去形で書いていることでおわかりのように、やはり残念ながら1984年(昭和59年)1月末に廃止されてしまった。
別府港で発車を待つ列車
別府港で発車を待つ列車。
この日は貨物はなかった。
(1981年撮影)

 別府鉄道には、神戸に住むようになって近くなったこともあり、何度か訪れているが、やはり初めて訪れたときの印象が一番強い。そこで、1978年(昭和53年)3月、初訪問時のメモを参考に書いていくことにする。

 夜行寝台急行『銀河』で朝、大阪に着き、快速電車で加古川へ。高砂線に乗り換え、野口まで行く。すなわち先に野口線に向かったのである。野口では一目で旧片上鉄道とわかるキハ101が待ち受けていた。ところが、高砂線の車掌さんとちょっと話をしているうち、キハ101は発車してしまったのである。確かに接続時間は1分しかなかったのであるが、高砂線からの乗換客をちゃんと確認してくれるものと思っていた。次の列車まで2時間もあるので、しかたなく別府港まで歩く。

 野口では私の乗り遅れたキハ101を撮っていた鉄ちゃんと出会った。話をしてみると、本当に感じのいい青年で、野口で一旦別れたが、別府港で列車を撮ろうとカメラを構えていると、後ろから道路を息せききって走ってきて、「ああ、間に合った、線路を見つけてほっとしたよ」とにこやかに話す姿がすがすがしかった。
 私も鉄ちゃんの端くれとして別に卑下するつもりはないが、得てして鉄ちゃんは線路を歩いたり、線路沿いの畑や田んぼに入るのは当たり前という自分勝手な人が多い。それを迷いながらも、ちゃんと公道を通って「線路を見つけてほっとした」という言葉が新鮮に感じられたのであった。と説明を加えないといけないのも情けないが。

 別府港で古典客車ハフ7と対面。2軸ダブルルーフ、おまけにオープンデッキ。今時なんでこんな客車が残っているのか、本当に驚きであった。
 貨物列車の一番後ろにおまけのように連結されたハフ7を見て、沿線で写真に撮るより、乗りたいという気持ちが強くなり、ちょっと耳の遠い駅員さんに「つちやままで!」と叫んで切符を買って、ホームに立つ。 列車はホームから線路を1本おいて停車しているが、発車時刻が近づいても入線する気配がない。駅員さんに線路を渡って乗ってくれと言われて、ホームから線路に降りて、ハフ7のデッキに荷物を預け、ステップに足をかけて「よいしょ」とばかり乗り込んだ。 これでは老人や子供は乗れないのではないかと思ったが、乗客は私一人。ハフ7はほとんど車掌車がわりであった。もともと乗客なんかいないつもりだったのだろう。
キハ2の発車を見送る
キハ2の発車を見送る。別府港にて。
(1981年撮影)

 ハフ7のタン、タン、タン、という2軸独特の響きを聞きながら、たった4Km、15分の短い古典客車の旅を楽しむ。15分で4Kmということは平均速度16Km/h、自転車のほうが早いくらいだ。それでも、途中駅はすべて通過して、乗客も私一人だし、駅にも人の姿がないからだろうなあとその時は思っていた。
 土山から今度は徒歩でまた別府港に向かう。歩き疲れてきたので、途中の中野駅で列車に乗ろうと駅の時刻表を見ると、なんと一日上下合わせても3本しか停車しないことになっている。ということはさっきは本当に通過で良かったのだ。今風に言うと、「やられた」という感じだった。
 結局別府港まで歩く。そこで今度は別の鉄ちゃんと出会う。ただ、最初に会った鉄ちゃんとは正反対で、東京から新幹線で来たとか自分のことを一方的にしゃべり続け、古典客車などを見ては「ぼれェー」とか「だせェー」とかうるさいことこの上ない。せっかくもう一度ハフ7の雰囲気を楽しもうと土山まで乗車するが、ずっとつきまとい、今度は「のれェー」とかしゃべり続ける。
 土山で、私がうっかりこの後片上鉄道に行くと言ったら、「俺も行く」とか言い出したので、こりゃたまらんと「そうだ用事を思い出した」とか適当なことを言って強引に撒いてしまった。
 本人も一人旅で話し相手が欲しかったのだろうが、言葉のキャッチボールのはずの会話が一方的では本当に疲れる。世の中いろいろな人がいるものだが、鉄ちゃんにこういう自己中心的なタイプも多いように思う。鉄道趣味はひとりで楽しむ部分が多い。これがいつのまにか社会常識を失わせ、さきほど書いたように勝手に他人地に入る人間や、会話のできない人間をつくり出してしまうのか。嵩じて列車の行先表示板や部品を盗む族も多かったのも理解できなかったが、こんなことだから鉄道マニアは『ネクラ』といわれるのだ。
 何だか今回は別府鉄道といいながら、鉄ちゃん論になってしまった。

 土山で煩わしい鉄ちゃんを撒いた後、予定どおり片上鉄道に向かい、またオープンデッキの客車に乗る。
 三菱石炭鉱業と津軽鉄道のストーブ列車に立て続けに乗ったり、どうも一人旅なのに自分自身で盛り上げることを好んでする傾向がある。片上鉄道のオープンデッキにもたれて、流れる夕暮れの風景を眺めながら、今日2つめのオープンデッキだと感慨にふける。完全に自己陶酔の世界。
 こういう私も充分ネクラ・・・・・

 【1999年7月記】


ローカル私鉄と言うと、ひなびたイメージがあるのですが、
実は加古川市の臨海部は工場地帯で、さらに山陽新幹線や
山陽電鉄ともクロスしていた別府鉄道の沿線は、
ひなびたイメージからはほど遠いものでした。
それだけに、時代からすっぽりと取り残された別府鉄道の風情を
よけい際立たせていたのかも知れません。

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一般的な客車は、左図のように1両 に2軸ずつ車輪がつくボギー車で あるが、ハフ7は右図のように2軸 のみであった。貨車などには多い。

ボギー車   2軸車
○○ ○○   ○  ○
その名のとおり二重になっている屋根。
古い客車に多い。おそらく明かり窓をつけるためだと思うのだが・・・
片上鉄道でも触れたが、これもその名のとおりデッキ部分がオープンになっているもの。

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